第1章:二度目のジャック(2)― 紙の上の血痕 ―
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スコットランドヤードは、私の好む場所ではない。ディオゲネス・クラブが秩序と静寂の神殿であるならば、ここは混沌と喧騒の市場だ。インクと安煙草、そして人々の焦燥感が入り混じった淀んだ空気が、建物全体に満ちている。レストレード警部に案内された一室は、彼の執務室というよりは、書類の氾濫によって打ち捨てられた物置といった方が正確だった。
「こちらが、今朝の事件に関する全ての資料と…加藤大尉に関する簡単な身上書です」
レストレードが机の上に無造作に積み上げたのは、現場写真、検死官による一次報告書、聞き込み記録などが綴じられたファイルの束だった。その乱雑さ自体が、警察組織の混乱を如実に物語っている。私はコートを脱ぐこともせず、部屋に一つだけあった訪問者用の硬い椅子に腰を下ろした。
「君は下がって、熱い紅茶でも飲んでくるといい。外交問題が絡む案件で、そのように混乱した頭では判断を誤る」
「しかし、何か私にお手伝いできることがあれば…」
「君の仕事は、私の思考を邪魔しないことだ」
冷たく言い放つと、レストレードはぐっと言葉を飲み込み、礼をしてすごすごと部屋を出て行った。扉が閉まり、わずかな静寂が訪れる。私はファイルの山に手を伸ばし、一枚ずつ、ページをめくり始めた。
私の脳は、情報を吸収し、分類し、再構築することに特化した器官だ。新聞の三面記事から、大陸の密使が交わす暗号電文まで、あらゆる情報は等しく価値を持つ。重要なのは、それらをいかに効率的に処理し、正しい文脈の中に配置するかだ。
現場写真。検死報告書。聞き込み記録。加藤大尉の経歴。すべてがデータとして脳内にインプットされていく。十分ほどで、私はすべての資料に目を通し終えた。私がファイルを閉じたのとほぼ同時に、レストレードが紅茶のカップを手に、おずおずと部屋に戻ってきた。
「何か…何か分かりましたでしょうか?」
私は彼の差し出した紅茶には目もくれず、ただ静かに口を開いた。
「警部。君たちは切り裂きジャックの『再来』という劇的な物語と、日本人容疑者という分かりやすい標的に目を奪われ、この事件の本質を見誤っている」
「本質、でございますか?」
「第一に、これだ」
私は現場写真の一枚を指差した。被害者の頭の横に、何か四角く折り畳まれた布が置かれている。
「これは被害者のショールだな。報告書によれば、彼女はこれを常に羽織っていたとある。だが、なぜこれが、まるでハンカチのように几帳面に畳まれ、遺体の枕のように置かれている? 過去のジャックの犯行は、激情と混沌の表れだった。だが、この犯人には、冷たい『儀式』への執着が見える。これは西洋的な激情の発露ではない。むしろ、軍隊的な規律や、あるいは東洋の武士が持つような、ある種の様式美へのこだわりを感じさせる」
レストレードは写真を覗き込み、はっとした顔になった。「軍隊的…東洋の…まさか、やはり加藤が…」
「断定はするな。第二に、動機だ。聞き込み記録によれば、目撃された男――君の言う加藤大尉と思われる人物――は、被害者と金銭ではない、何らかの『情報』を巡って口論していたとある。なぜ日本の軍人が、ホワイトチャペルの娼婦から情報を買う必要がある? 彼女は何を掴んでいた? これは単なる猟奇殺人ではない。何らかの取引が決裂した結果と考えるのが妥当だろう」
「情報…取引…?」
「そして第三に、手口だ。検死官は『人体破壊に熟達した者の手際』と評したが、それは正しい。だが、同時に致命的なミスを犯している。犯人は、被害者の懐から一つの小さな住所録を持ち去り忘れている。もし犯人が本当に情報を求めていたのなら、これこそ真っ先に奪うべきものだろう。あまりに不自然だ。まるで、わざと捜査の目を別の方向へ向けさせようとしているかのように」
私の指摘の一つ一つが、レストレードの顔から血の気を奪っていく。彼は自分たちの捜査がいかに表層的であったかを、今更ながらに思い知らされているのだ。
「分かったかね、警部。この事件は、切り裂きジャックの模倣に見せかけた、極めて計算高い犯行だ。そして、全ての状況証拠が、まるで舞台装置のように、一人の日本人を指し示している。あまりに…出来すぎているとは思わないかね?」
私の最後の問いかけの含意を、レストレードは理解できなかったようだ。彼の頭の中では、儀式、軍人、東洋、情報取引といった単語が、加藤大尉という容疑者像に結びつき、より強固なものになっているに違いなかった。それでいい。今は、まだ。
「私の仕事はここまでだ。まずは加藤大尉の身柄を確保し、慎重に話を聞け。だが、決して決めつけるな。同時に、被害者が持っていた住所録を徹底的に洗え。彼女が誰と接触し、何の『情報』を扱っていたのかを突き止めるんだ。それが、この芝居がかった殺人の、本当の動機に繋がる鍵だ」
矢継ぎ早の指示に、レストレードはただ呆然としながらも、懸命にメモを取っている。私は彼に背を向け、部屋の出口へ向かった。
「ホームズ卿、お待ちください! 貴方は…貴方は、一体何者なのですか…」
彼の呟きに、私はドアノブに手をかけたまま、わずかに振り返った。
「私は、大英帝国政府という、巨大な機械の部品に過ぎんよ。そして今、その機械の中に、誰かが意図的に『異物』を混入させたのを見つけた。ただ、それだけのことだ」
スコットランドヤードの喧騒を後にし、辻馬車に乗り込む。霧はさらに深まり、ロンドンは完全にその灰色の帳の中に姿を隠していた。
馬車の振動に身を任せながら、私は思考を巡らせる。几帳面に畳まれたショール。見過ごされた住所録。そして、あまりに都合よく目撃された日本人大尉。これは、単なる狂気の沙汰ではない。加藤大尉を犯人に仕立て上げ、スコットランドヤードの目を引きつけている間に、本当の目的を遂げようとしている者がいる。その目的とは何か。そして、その黒幕は誰か。
これは、ロンドンの暗がりで起きた一つの殺人事件ではない。大英帝国の心臓部を狙った、冷徹な知性による情報戦の幕開けだ。そして犯人は、私というプレイヤーがこの盤面に気づくことすら、計算に入れていたのかもしれない。
不愉快な遊戯が、始まった。
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