第8章:仮面舞踏会(3) ― 獣の書斎 ―
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クレイトン公爵の書斎は、彼の権力と富、そして彼の精神そのものを具現化したような空間だった。廊下の突き当たりにある、重厚なマホガニーの扉を公爵自らが開けると、アイリーンはまず、その匂いに圧倒された。古い革の匂い、羊皮紙の乾いた香り、そして微かに漂う葉巻の芳香と、年代物のブランデーの甘いアロマ。それは、男性的で、知的で、そして何よりも支配的な匂いだった。
部屋は、八角形の形をしており、その壁面は床から天井まで、全てが本棚で埋め尽くされていた。革の背表紙に金文字が輝く書籍が、まるで知識の軍隊のように、整然と、しかし威圧的に並んでいる。部屋の中央には、巨大な地球儀が鎮座し、その横には、ライオンの脚を模した彫刻が施された、巨大な執務机が置かれていた。机の上には、書類が几帳面に整理され、銀のインクスタンドと、数本の羽根ペンが、まるでこれから何かの条約に署名するかのように、行儀よく並べられている。
大広間の喧騒は、厚い扉に遮られて、遠い潮騒のようにしか聞こえない。代わりに、暖炉でパチパチと爆ぜる薪の音だけが、この静寂な空間に響いていた。
「どうかな、マダム。私の仕事場だ」公爵は、アイリーンの腕を放し、部屋の中央へと歩を進めた。「少々、無骨すぎたかな?」
「いいえ…」アイリーンは、感嘆のため息をつくふりをしながら、ゆっくりと部屋を見渡した。「まるで、帝国の司令室のようですわ。この場所から、世界の海図が書き換えられていく…そんな光景が目に浮かぶようです」
彼女の言葉は、完璧な賞賛だった。それは、公爵の自尊心をくすぐる、最も効果的な賛辞。案の定、公爵は仮面の下で満足げな笑みを浮かべた。
「言い得て妙だ、マダム。まさにその通り。この部屋は、私の戦場であり、私の王国なのだよ」
彼は、サイドボードからデキャンタを取り、二つのクリスタルグラスに、琥珀色の液体を注いだ。
「アルマニャックだ。よければ、一杯どうかな? 体が温まる」
「いただきますわ」
アイリーンは、差し出されたグラスを、優雅な仕草で受け取った。彼女は、決して自分から酒を求めないが、勧められれば断らない。それもまた、マダム・ラ・ロシュフコーの人物設定の一部だった。警戒心が強いが、相手の好意を無下にはしない、という絶妙なバランス。
公爵は、自分のグラスを片手に、壁際の一角へと彼女を導いた。そこには、ガラス板がはめ込まれた、平たい陳列ケースが置かれていた。
「さて、お見せしたい地図というのは、これだ」
彼が、ケースの傍らにあるランプの光量を上げると、中に収められた一枚の羊皮紙が、ぼんやりと浮かび上がった。それは、明らかに年代物で、所々がシミや虫食いで傷んでいたが、描かれた線は驚くほど鮮明に残っていた。
「これは…?」アイリーンは、身を乗り出すようにして、その地図を覗き込んだ。
「16世紀の、ポルトガル製海図の写しだ。フランシス・ドレークが世界周航に出るよりも前に、南米大陸の南端、マゼラン海峡の、より南に『未知の航路』が存在することを示唆している、と言われている」
公爵は、まるで大学教授のような口調で、滔々と説明を始めた。
「もちろん、公式の歴史では、そんな航路は存在しないことになっている。だが、この地図は、歴史の裏に隠された、もう一つの真実があった可能性を、我々に教えてくれる。どうだね、マダム。あなたの心をくすぐる物語だろう?」
アイリーンは、地図から目を離さずに、静かに頷いた。彼女は、この地図そのものには、何の興味もなかった。彼女の目的は、この部屋のどこかにあるはずの、別の「紙」だ。しかし、彼女は、心底この地図に魅了された、純粋なコレクターを演じなければならなかった。
「…素晴らしい」彼女は、囁くように言った。「まるで、歴史の囁きが聞こえてくるようですわ。失われた航路、忘れられた冒険…これを手に入れるために、どれほどの対価を?」
「金の話は野暮というものだ、マダム」公爵は、彼女の反応に気を良くしたようだった。「真の価値を持つものは、金では計れん。情熱と、そして、時に少々の『力』が必要になるだけだ」
その言葉の端々に、彼の略奪者としての一面が、鋭い刃のようにきらめいた。アイリーンは、その危険な光を見逃さなかった。
彼女は、アルマニャックを一口だけ、唇に含んだ。その芳醇な香りが、口の中に広がる。毒は入っていない。当然だろう。彼はまだ、彼女という「金のなる木」から、果実をもぎ取ろうとしている段階なのだから。
「閣下は、素晴らしい収集家でいらっしゃるのですね」アイリーンは、グラスを置き、再び公爵に向き直った。「絵画や彫刻だけでなく、このような歴史の断片まで…」
「ああ。美しいもの、力強いもの、そして、物語を持つもの。それら全てが、私を魅了してやまないのだ」
公爵は、執務机の方へ歩きながら言った。「例えば、あそこにある書類の束。あれもまた、一つの『物語』だ。インドの藩王国との、新しい貿易協定に関するものだがね。これを結ぶことで、何千人もの人間の運命が変わり、帝国の富はさらに増大する。これもまた、一つの壮大な冒険譚だとは思わんかね?」
アイリーンは、その言葉を聞きながら、心の中でマイクロフトの言葉を反芻していた。
『書斎には、必ず鍵のかかった引き出しがあるはずだ。公的な書類ではなく、彼の“個人的な”記録が保管されている場所。ジャック事件に関するものがあるとすれば、そこ以外にはあり得ない』
彼女の視線が、自然な動きを装って、巨大な執務机へと向けられた。机には、いくつもの引き出しがある。そのほとんどは、鍵がかかっていないように見える。だが、一番右端の、一番下の引き出しだけが、他とは違う、真鍮の、複雑な鍵穴を持っていた。
あれだ。
目標を特定した瞬間、彼女の思考は、氷のように冴えわたった。問題は、どうやって、公爵の目を盗み、あの引き出しを開けるか。鍵は、おそらく公爵自身が持っているはずだ。
「…閣下のお話は、本当に刺激的ですわ」アイリーンは、わずかに頬を上気させ、少しだけ潤んだ瞳で、公爵を見上げた。それは、知的な男性の話に心酔する、純真な女性の表情だった。「私のような、世間知らずの未亡人には、目も眩むような世界です」
彼女は、わざと、ふらつくような仕草を見せた。
「少し、お酒が回ってしまったようですわ…」
「おっと、大丈夫かね?」
公爵は、待ってましたとばかりに、彼女の腕を支えるために、素早く近づいてきた。彼の仮面の奥の瞳が、欲望の色にギラリと光るのを、アイリーンは見逃さなかった。
「申し訳ありません…少し、夜風にあたらせていただければ、すぐに落ち着くと存じます」
彼女は、か弱い声で言った。書斎には、フランス窓に通じる小さなバルコニーがあった。
「もちろんだとも」
公爵は、喜んで彼女をバルコニーへと誘った。彼にしてみれば、二人きりで夜の闇に包まれる、絶好の機会だ。
二人がバルコニーに出た瞬間、冷たい夜気が、火照った(ように見せかけた)アイリーンの肌を撫でた。眼下には、公爵邸の広大な庭園が、闇の中に広がっている。
「気分はどうかな?」
「ええ、少し…楽になりましたわ」
アイリーンは、手すりに寄りかかりながら、ロンドンの空を見上げた。そして、彼女は、この瞬間のために用意していた、次の一手を打った。彼女は、ドレスの袖に隠し持っていた、極小の、しかし鋭い針を、自分の指先に、ごくわずかに突き立てた。
「あっ…」
彼女は、小さく声を上げた。
「どうした、マダム?」
「いいえ、何でも…」彼女は、慌てて手を隠すふりをした。「ドレスの刺繍の金糸が、少し、指に…」
その瞬間、彼女は、計算通り、バランスを崩した。よろめき、公爵の胸に、倒れ込むように寄りかかる。
「申し訳…」
公爵は、予想通りの反応を示した。彼は、その好機を逃さず、彼女の細い腰を、力強く抱き寄せた。
「大丈夫だ、マダム。私が、支えている」
彼の吐息が、すぐ近くで感じられる。葉巻とアルマニャックの匂いが、彼女を包み込む。
その、わずか数秒の接触。
しかし、その数秒は、アイリーン・ノートンという、超一流の詐欺師、そしてスリにとって、十分すぎるほどの時間だった。
彼女の右手は、公爵の胸に寄りかかるふりをしながら、彼のベストのポケットを探っていた。そして、彼女の指先は、目的のものを、確かに捉えていた。
冷たい、金属の感触。複雑な形状の、小さな鍵。
彼女は、公爵から身を離すと、恥じらうように顔を伏せた。
「…失礼いたしました、閣下。もう、大丈夫ですわ」
彼女の手の中には、今、獣の書斎の最も深い秘密を解き放つための鍵が、確かに握られていた。
あとは、この鍵を使い、そして、何食わぬ顔で元に戻すための「時間」を、どうやって作り出すか。
彼女は、再び書斎の中へと視線を戻した。暖炉の火が、まるで悪魔の舌のように、ゆらゆらと揺らめいていた。
ゲームは、まだ終わらない。むしろ、ここからが、本番だった。
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