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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第8章:仮面舞踏会(2) ― 糸と蜘蛛 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 クレイトン公爵の短い挨拶は、儀礼的で、中身のない言葉の羅列だった。だが、その声に含まれる絶対的な権威は、広間に満ちたざわめきを完全に鎮め、全ての視線を彼一人に集めるには十分だった。挨拶が終わると、オーケストラが再び華やかなポルカを奏で始め、人々は解放されたように、再び仮面の下の会話と笑い声の渦へと戻っていった。


 公爵は、踊り場から静かに階下へ降り立つと、数人の取り巻き――政府高官や、太った銀行家たち――に囲まれ、当たり障りのない会話を交わし始めた。しかし、その態度はどこか上の空で、仮面の奥の瞳は、常に周囲を鋭く観察しているのが見て取れた。彼は、この華やかな饗宴の主催者でありながら、同時に、自らの領域に侵入者がいないかを見張る、油断のない監視者でもあった。


 一方、アイリーンは、計算通り、喧騒から逃れるようにして、大広間から続く廊下の一つへと、その身を滑り込ませていた。この廊下は、公爵の私的な領域である書斎や応接室へと繋がっている。当然、そこかしこに、客人の立ち入りを無言で制止する、屈強な従僕たちが立っていた。しかし、彼女は、彼らの監視の目を、まるで存在しないかのように、優雅に、そして自然にかいくぐっていく。彼女は、廊下に飾られた巨大なタペストリーの前で足を止め、まるでその精緻な織物に心底感銘を受けたかのように、うっとりと見入るふりをした。


 彼女が演じているのは、社交界に不慣れで、人の群れよりも芸術品に安らぎを見出す、内気な未亡人。その完璧な演技は、従僕たちの警戒心を鈍らせるのに十分だった。彼らは、この物憂げな貴婦人を、迷子になったか、あるいは人いきれに疲れただけの、無害な存在だと判断したようだった。


 タペストリーに描かれているのは、ギリシャ神話の一場面、「アラクネとアテナ」だった。自らの織物の腕を過信し、女神に挑戦した結果、蜘蛛に変えられてしまう人間の娘の物語。アイリーンは、その寓話を、今の自分の状況に重ね合わせていた。自分は、この国の権力という「神」に挑む、傲慢なアラクネなのか。それとも、巧妙な糸を張り巡らせ、獲物を待つ蜘蛛そのものなのか。


 その時だった。背後から、低い、しかし威厳のある声がかけられた。

「そのタペストリーに、何か特別な興味でも?」


 アイリーンは、ゆっくりと振り返った。心臓が、一瞬、氷の指で掴まれたかのように冷たくなる。しかし、彼女の顔(仮面)には、驚きと、わずかな怯えだけが浮かんでいた。マダム・ド・ラ・ロシュフコーとして、完璧な反応だった。


 そこに立っていたのは、黒豹の仮面をつけた、クレイトン公爵その人だった。彼は、いつの間にか取り巻きを振り払い、ただ一人で、彼女の背後に立っていた。まるで、音もなく獲物に忍び寄る、本物の肉食獣のように。


「…申し訳、ございません。あまりに見事で…つい、我を忘れてしまいましたわ」

 アイリーンは、マダム・ラ・ロシュフコーの声で、か細く、しかし凛とした響きを込めて答えた。彼女は、軽くカーテシーをしながら、視線を伏せた。相手に、自分の瞳の奥にある闘志を読ませないためだ。


「構わんよ」公爵は、鷹揚に言った。「我が家のコレクションを褒めていただけるのは、主人として嬉しい限りだ。あなたは、今夜の招待客リストにはなかったお顔のようだが…失礼ながら、お名前を伺っても?」


 その言葉は、丁寧な問いかけの形を取りながら、その実、鋭い尋問だった。彼は、自分のテリトリーに現れた「未知の存在」を、即座に識別しようとしていた。


「ヴィルジニー・ド・ラ・ロシュフコーと、申します。閣下」アイリーンは、顔を上げずに答えた。「先日、大陸から参りましたばかりで、ロンドンの社交界には、まだ不慣れでして…」


「ラ・ロシュフコー…」公爵は、その名前を、舌の上で転がすように繰り返した。「フランスの、あの名門の?」

「遠縁に、あたると聞いております」


 公爵は、数秒間、沈黙した。その沈黙は、値踏みをするような、探るような、重苦しい沈黙だった。アイリーンは、彼の視線が、自分のドレスの生地から、指に光る指輪(もちろん、マイクロフトが用意した小道具だ)まで、全てを分析しているのを感じた。


 やがて、公爵は、満足したかのように、わずかに頷いた。

「なるほど。道理で、ロンドンの煤けた空気にはない、洗練された気品をお持ちだと思った。ようこそ、我が家へ。そして、ロンドンへ、マダム・ラ・ロシュフコー」


 彼の口調から、警戒の色がわずかに薄れたのを、アイリーンは敏感に感じ取った。第一段階は、クリアした。彼女という存在は、彼の「警戒対象」のリストから、「興味深い獲物」のリストへと、移されたのだ。


「ところで、マダム」公爵は、会話を続けた。「あなたは、タペストリーがお好きなようだ。あるいは、織物そのものに?」

「いいえ、閣下」アイリーンは、ここで、マイクロフトが仕込んだ「餌」を投げることにした。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、初めて、仮面越しに公爵の目をまっすぐに見つめた。「私が、本当に心惹かれますのは…物語を織りなす糸、そのものではございません。世界そのものを描き出す、インクの線…古い、地図にございます」


「地図、だと?」

 公爵の反応は、アイリーンの予想通りだった。彼の声に、隠しきれない興味の色が浮かんだ。それは、単なる社交辞令の興味ではなかった。コレクターが、希少な獲物を見つけた時の、本能的な反応だった。


「ええ」アイリーンは、憂いを帯びた微笑みを浮かべた。「新しい土地、未知の航路…そして、歴史の闇に消えた、伝説の場所。一枚の羊皮紙の上に広がる世界は、どんなタペストリーよりも、雄弁に物語を語ってくれますわ。亡き夫が、そう教えてくれました」


 彼女は、ここで再び視線を伏せ、亡き夫を偲ぶ未亡人を完璧に演じてみせた。その仕草が、彼女の「古地図収集」という趣味に、感傷的で、無害な背景を与えた。


 公爵は、完全に彼女の術中にはまっていた。彼は、自らが蜘蛛であり、獲物を巣に誘い込んでいるつもりでいるだろう。だが、実際には、彼自身が、アイリーンとマイクロフトが張り巡らせた、より巨大で、見えない糸に絡めとられようとしていた。


「それは、実に興味深い趣味だ」公爵は、満足げに言った。「実を言うと、私も、ささやかながら地図を収集していてね。特に、大英帝国の栄光の礎となった、初期の探検家たちが描いた海図には、目がないのだよ」


 嘘だ、とアイリーンは心の中で断じた。マイクロフトの情報によれば、公爵の収集対象は、絵画と彫刻が主であり、地図への関心は薄いはずだ。彼は、彼女に取り入るため、彼女の資産を手に入れるための足掛かりとして、即座に「共通の趣味」を捏造したのだ。


「もし、ご迷惑でなければ」公爵は、芝居がかった、紳士的な仕草で、腕を差し出した。「私の書斎に、一枚、面白い地図がある。おそらくは、あなたの興味を惹く品だと思うが…少し、喧騒を離れて、ご覧になる時間はあるかな?」


 チェックメイト、とアイリーンは心の中で呟いた。あまりにも、教科書通り。あまりにも、容易い誘い。彼は、自分の権力と魅力に、絶対の自信を持っている。だからこそ、疑うことを知らない。


「…閣下のご親切、感謝いたします」アイリーンは、ためらいを見せる演技を数秒間した後、おずおずと、その差し出された腕に、自らの指先をそっと重ねた。「ですが、皆様をお待たせしては…」


「構わんさ」公爵は、彼女の指を、力強く、しかし優しく握った。「今夜の主役は、私なのだからな」


 その言葉と共に、彼はアイリーンを伴って、廊下の奥へと歩き始めた。従僕たちが、恭しく道を開ける。彼らが向かう先は、この城の心臓部。全ての秘密が眠る場所。クレイトン公爵の書斎だった。


 アイリーンは、公爵の腕に引かれながら、一瞬だけ、大広間の喧騒を振り返った。仮面をつけた人々が、音楽に合わせて踊り狂っている。彼らは誰も、この廊下の奥で、今、国家の運命を左右するかもしれない、危険なゲームが始まろうとしていることなど、知る由もなかった。


 彼女は、再び前を向いた。公爵の横顔を、仮面越しに盗み見る。その唇には、獲物を手に入れたと確信する、満足げな笑みが浮かんでいた。


 アイリーンもまた、仮面の下で、静かに微笑んだ。

 どちらが、本当の狩人なのか。

 その答えは、もうすぐ明らかになる。蜘蛛の巣の中心へと、彼女は、自らの足で、踏み込んでいく。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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