第8章:仮面舞踏会(1) ― 偽りのマダムと狩人の城 ―
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その夜、ロンドンは仮面を被っていた。メイフェアの壮麗な邸宅群は、降り注ぐガス灯の光を浴びて、霧の海に浮かぶ宝石箱のようにきらめき、その実態である石と煉瓦の冷たさを隠していた。そして、マイクロフト・ホームズが用意した秘密の隠れ家の一室で、アイリーン・ノートンもまた、新たな仮面を身につけようとしていた。
鏡の前に座る彼女は、もはやホワイトチャペルの洗濯女でも、オペラ座の歌姫でもなかった。マイクロフトの配下である、感情の読めない侍女の手によって、彼女は一人の人間から、一つの完璧な虚構へと、丹念に作り上げられていく。
まず、髪。彼女の豊かな黒髪は、熟練の手つきで結い上げられ、無数のピンで固定されて、当時の流行とは一線を画す、大陸風の複雑で優雅な髪型に変わった。うなじにかかる数本の計算され尽くした「後れ毛」が、禁欲的な気品の中に、ほのかな官能性を漂わせる。
次に、化粧。肌は、まるで磁器のように滑らかで白い鉛白で覆われ、頬にはごく淡い臙脂が差される。眉は細く、くっきりとした弧を描き、目元にはアイシャドウが巧みに施され、彼女の瞳の輝きを、よりミステリアスなものに変えていた。それは、アイリーン・アドラーの挑発的な美しさとは異なる、近寄りがたい、憂いを帯びた美しさだった。
そして、ドレス。マイクロフトがどこから手配したのか、それは芸術品と呼ぶにふさわしい逸品だった。深夜の海の色を思わせる、深い藍色のシルクベルベット。光の加減で、黒にも、紫にも見える複雑な色合いを持つ生地は、彼女の身体の線を、女神の彫像のように滑らかに、しかし決して露骨ではなく描き出す。胸元や袖口には、星屑を撒いたかのように、極小のダイヤモンドが繊細な刺繍と共に縫い付けられており、彼女が動くたびに、控えめながらも確かな光を放った。
彼女は、マイクロフトから渡された、羊皮紙に記された「経歴書」を、心の中ですでに数百回となく反芻していた。
『マダム・ヴィルジニー・ド・ラ・ロシュフコー。フランスの名門貴族の末裔にして、南米の銀山で財を成した大富豪の若き未亡人。夫の死後、その莫大な遺産を相続し、ヨーロッパの旧世界に安住の地を求めてやってきた。社交界には疎いが、芸術、特に古地図の収集に並々ならぬ情熱を注いでいる。性格は、内向的で、物憂げ。しかし、自らの興味を惹く対象に対しては、時に子供のような探求心を見せる…』
声のトーンは、少し低く、常にヴェールを一枚隔てたような、どこか遠い響きを持たせる。視線は、決して人と長く合わせず、ふと、誰も見ていない虚空を見つめる癖をつける。指先の動き一つ、スカートの裾を捌く仕草一つに至るまで、彼女は「マダム・ド・ラ・ロシュフコー」という人間を、その魂の芯に至るまで、自らに憑依させていた。
最後に、侍女がビロードの箱を差し出した。中には、白鳥の羽根と銀の細工で飾られた、優美な仮面が鎮座している。顔の上半分だけを覆う、ヴェネチアンスタイルのその仮面は、彼女の正体を隠すための道具であると同時に、この危険な舞台の幕開けを告げる小道具でもあった。
アイリーンは、その仮面を手に取った。ひやりとした感触が、指先から伝わる。鏡に映る自分は、もはや見知らぬ女だった。美しく、謎めいて、そして孤独な女。彼女の唇の端に、ごく微かな、しかし紛れもない笑みが浮かんだ。それは、恐怖でも不安でもない。最高の役を与えられた名優が、舞台袖で出番を待つ瞬間にだけ見せる、純粋な歓喜と興奮の現れだった。
「…悪くない」彼女は、マダム・ラ・ロシュフコーとして、初めての言葉を、静かに呟いた。「実に、悪くないわ」
マイクロフトが手配した、紋章の一切ない、黒塗りの豪奢な馬車は、音もなくメイフェアの街路を滑り、やがて、ひときわ巨大な邸宅の前で、その長い行列の最後尾に加わった。クレイトン公爵邸。それは、城と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。闇夜に浮かび上がる白亜の壁、規則正しく並んだ窓から漏れる無数の灯り、そして、鉄柵の門から玄関まで続く、松明に照らされた長いアプローチ。今夜、ロンドンの権力と富が、この場所に集結していた。
馬車を降り、冷たい夜気に身を晒したアイリーンは、一瞬、天を仰いだ。星は見えず、ロンドン特有の、煤と霧が混じり合った厚い雲が、空を覆っている。彼女は、深呼吸一つで、アイリーン・ノートンとしての最後の感傷を吐き出し、完璧なマダム・ド・ラ・ロシュフコーとして、大理石の階段を上り始めた。
エントランスホールでは、白髪の執事が、機械のような正確さで客を迎えていた。アイリーンが、マイクロフトから渡された本物の招待状を差し出すと、執事はそれに一瞥をくれ、そして、朗々と彼女の偽名を張り上げた。
「マダム・ヴィルジニー・ド・ラ・ロシュフコー!」
その声が、彼女をこの虚構の世界へと完全に固定する、最後の楔となった。
一歩、大広間に足を踏み入れた瞬間、彼女は光と音の洪水に包まれた。天井からは、数千本の蝋燭が灯された巨大なシャンデリアが三基も吊り下がり、その眩い光が、磨き上げられた床や、壁に飾られた金縁の鏡、そして人々が身につけた宝飾品に乱反射して、空間全体をダイヤモンドダストのようにきらめかせている。オーケストラが奏でる甘美なワルツの調べが、人々の楽しげな(あるいは、楽しげに見せかけている)会話のざわめきと混じり合い、むせ返るような香水の匂いや、上質なシャンパンの香りと共に、彼女の五感を満たした。
誰もが、仮面をつけていた。鳥の嘴を模した不気味なもの、宝石で飾り立てた華麗なもの、道化師のような滑稽なもの。だが、アイリーンには分かっていた。本当の仮面は、その下に隠された、彼らの素顔そのものであるということを。
彼女は、給仕が差し出す盆からシャンパンのグラスを一つ取ると、喧騒の中心から少し離れた、巨大な柱の陰へと移動した。そこは、広間全体を見渡せる、絶好の観察場所だった。彼女は、グラスを口に運ぶふりをしながら、その鋭い観察眼で、獲物を探す雌豹のように、群衆の中を舐めるように見渡した。
仮面の下で交わされる、無意味な世辞。扇の陰で交わされる、密やかな噂話。一瞬の視線の交錯に込められた、欲望と嫉妬。ここは、大英帝国の縮図。美しく飾り立てられた、巨大な偽善の劇場だ。
やがて、彼女の耳に、目指す男に関する囁きが届き始めた。
「…ご覧なさい、公爵閣下よ。今夜も、まるで王様のようなご威光だわ」
「ああ。だが、彼の事業のやり方は、少々血の匂いがする。植民地での彼の評判は、お世辞にも良いとは言えない」
「お黙りなさい。壁にも耳があるわ。それより、彼の新しいコレクションの話は聞いた? また、どこぞの没落貴族から、とんでもない値で絵画を買い叩いたそうよ…」
アイリーンは、その会話を、風の音を聞くように聞き流しながら、視線を巡らせた。そして、ついに、その男を見つけた。
音楽が、ちょうど一曲の終わりを告げ、次の曲が始まるまでの、ほんのわずかな静寂の瞬間。広間の奥、大階段の踊り場に、一人の男が姿を現した。壮年を過ぎた、しかし、その背筋は軍人のようにまっすぐに伸び、その体躯には、贅肉のかけらも見当たらない。彼は、黒豹を象った、シンプルだが威圧的な黒い仮面をつけていた。だが、その仮面ですら、彼の全身から放たれる、圧倒的な存在感と、冷徹な支配者のオーラを隠しきることはできていなかった。
クレイトン公爵。
彼は、手すりに片手を置き、まるで自らの領地を見渡す王のように、眼下の喧騒を睥睨していた。その仮面の奥の瞳が、何を考えているのかは分からない。だが、アイリーンには、その瞳が、今夜この場所に集まった全ての人間を、自らの目的のための駒としてしか見ていないことが、直感的に理解できた。
公爵が、短い歓迎の挨拶のために、静かに口を開く。その声は、バリトンの、よく響く声だった。しかし、その響きの底には、鋼のような冷たさと、一切の情を排した非情さが潜んでいた。ホワイトチャペルに送られた刺客たちに命令を下したのも、この声なのだ。
アイリーンは、シャンパンのグラスを静かに置いた。
ゲームが、始まる。
彼女の胸中で、恐怖と興奮が入り混じった、奇妙な高揚感が渦を巻いた。マイクロフト・ホームズは、彼女を『クイーン』と呼んだ。ならば、クイーンらしく、振る舞うまで。ただ待つのではなく、自ら、この盤面の王に、仕掛けていく。
彼女は、柱の陰から、そっと一歩を踏み出した。そして、まるで何かに引き寄せられるかのように、書斎へと繋がる廊下の方向へと、偶然を装って、ゆっくりと歩き始めた。彼女の計算では、公爵は挨拶の後、一度書斎に戻り、重要な客人と密談を行うはずだ。その動線上に、自らの存在という「予期せぬ変数」を置く。
それが、彼女の打つ、最初の一手だった。偽りのマダムは、今、狩人の城の最も危険な場所へと、自らの意志で足を踏み入れていく。仮面の下で、彼女の瞳は、獲物を見つけた狩人のように、鋭く、そして妖しく輝いていた。
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