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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第1章:二度目のジャック(1)― 静寂を破る訪問者 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ディオゲネス・クラブの静寂は、古代遺跡のそれとは質が違う。遺跡の沈黙が忘却と風化の産物であるのに対し、ここの静寂は、選び抜かれた人間たちの能動的な意志によって維持される、精巧で冷たいガラス細工のようなものだ。そして今、そのガラス細工に、無遠慮な槌が振り下ろされようとしていた。


 スコットランドヤードのレストレード警部。その男は、まるで嵐そのもののようにクラブの静謐な空間に侵入してきた。執事の制止も聞かず、血走った目で室内を見渡し、私の姿を認めると、一直線にこちらへ向かってくる。周囲のメンバーたちの眉がひそめられ、無言の非難が冷たい空気となって私に突き刺さる。彼らにとって、この闖入者は単なる規則違反者ではなく、自分たちの聖域を汚す野蛮人でしかなかった。


「マイクロフト様、申し訳ございません。いかなる説得にも応じず…」


 蒼白になった執事が私のそばに駆け寄るが、私はそれを手で制した。もはや、取り繕える状況ではない。


「ホームズ卿! どうか話を聞いていただけませんか! 緊急の、そして極めて厄介な事態なのです!」


 レストレードの声は、静まり返った読書室に不釣り合いなほど大きく響き渡った。数人の老紳士が、読んでいた新聞から苦々しげに顔を上げる。私は重い溜息を一つ吐き、安楽椅子からゆっくりと立ち上がった。この騒ぎをこれ以上長引かせるのは、私の流儀に反する。


「警部。ここは貴君のような方が歓迎される場所ではない。用件は外で聞こう」


 私の声は低く、抑揚がなかったが、その中には明確な拒絶が含まれていた。レストレードは一瞬怯んだが、すぐに首を振り、その目に再び必死の色を宿した。


「一刻を争う事態なのです! ホワイトチャペルにて…奴が、現れました!」


 私は無言のまま彼を促し、重厚な扉を通ってクラブの外に出た。十一月の冷たい霧が、まるで亡霊のように私たちを包み込む。ペルメルの街路はガス灯の光が滲み、世界は曖昧な輪郭の中に沈んでいた。


「落ち着いて、順を追って話したまえ。一体、何があった」


「今朝、ホワイトチャペルの路地裏で女の死体が見つかりました。娼婦です。喉が…喉が、二度、深く切り裂かれていました。それだけではありません。腹部も切り開かれ、内臓の一部が…持ち去られていたのです」


 レストレードの声は震えていた。それは恐怖か、あるいは過去の悪夢の記憶が蘇ったことによる混乱か。


「数年前の…切り裂きジャックと、まったく同じ手口です」


 私の脳裏に、数時間前にウィギンズが語った言葉が蘇った。あの少年の直感は、やはり正しかったらしい。だが、私は感情を一切顔に出さず、事実関係だけを確認する。


「模倣犯だろう。手口を真似ただけの狂人か、あるいは愉快犯か」


「ええ、我々も当初はそう考えました! しかし、あまりに手際が良すぎるのです。検死官が言うには、驚くほど正確で、無駄のない刃物の扱いだと。解剖学的な知識というよりは、人体を破壊することに熟達した者の手際…。それに、警部、問題はそこだけではないのです」


 レストレードは声を潜め、周囲を気にするように私に一歩近づいた。その顔には、単なる事件への恐怖とは異なる、政治的な苦悩の色が濃く浮かんでいた。


「目撃情報があるのです。事件の直前、被害者の娼婦と口論していた男がいた、と。そして、その男の身元が…」


 彼は一度言葉を切り、まるでその名を口にすること自体を躊躇うかのように言った。

「日本から来ている軍事視察団の一員…加藤信明大尉。その男である可能性が、極めて高い」


 加藤大尉。私の頭脳は、即座にその名前に関する情報を検索し、統合する。大日本帝国陸軍大尉。日英間の軍事交流の一環として、数週間前にロンドンに到着。最新の火器と軍事戦術の視察が目的。表向きは。そして、裏の評判では、古流の武術、特に短刀術の達人であるとされている。


「…厄介なことになったな」と、私は独り言のように呟いた。


「厄介どころの話ではありません!」レストレードが悲鳴に近い声で応じた。「もし彼が犯人だとしたら? 下手に手を出せば外交問題に発展しかねない。かといって、このまま放置すれば、新聞が嗅ぎつけて『警察は外国人に及び腰だ』と書き立てるでしょう。どちらに転んでも、我々は終わりです。しかも、彼の動機が全く読めない。言葉も通じぬ東洋の軍人が、なぜロンドンの娼婦を、あのジャックの手口で殺す必要があるのです? 不気味で、何もかもが分かりません!」


 レストレードは頭をかきむしり、その目は助けを求めるように私を捉えた。

「警察内部はパニックです。ジャックの悪夢と外交問題の板挟みで、誰もが思考停止に陥っている。我々だけでは手に負えません。ホームズ卿、どうかお力をお貸しください。もしシャーロック君が生きていてくれたなら…しかし、彼はもうおりません。今、私どもが頼れるのは、ホームズ卿、貴方様しかいないのです!」


 弟の名が出た瞬間、私の胸の奥で、冷たい何かが微かに軋んだ。ワトソン医師が作り上げた英雄譚のせいで、弟は死後もなお、人々の期待という重荷を背負わされている。そしてその不在のツケが、今こうして、外交問題という極めて面倒な付加価値を付けて私の元へ回ってきた。


「警部、私は探偵ではない。私の仕事は、国家という機械が円滑に動くよう調整することだ」


 それは本心だった。だが、レストレードの次の言葉は、その本心をねじ伏せるに十分な重みを持っていた。


「まさに、その通りです! これはもはや、単なる殺人事件ではありません! 国家間の関係をも揺るがしかねない、極めて繊細な『調整』が必要な案件なのです! このような事態を放置すれば、社会不安は増大し、政府も警察も信頼を失う。それは、ホームズ卿が維持されようとしている帝国の『秩序』が、足元から崩れ去ることを意味するのではありませんか!」


 レストレードの叫びは、霧の中で悲痛に響いた。その言葉は、図らずも私の思考の核心を突いていた。そうだ。これは、シャーロック・ホームズという強力な抑止力が失われたことによって生じた力の真空が、最も厄介な形で噴出した現象だ。これは、弟の代わりをすることではない。これは、私の仕事だ。


 私は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「……分かった。警部。状況は理解した」


 その一言に、レストレードの顔から緊張が抜け、深い安堵の色が浮かんだ。


「ただし、誤解してもらっては困る。私は弟のように、泥の中を這い回る趣味はない。私がするのは、あくまで情報の分析と、そこから導き出される論理的な結論の提示だけだ。行動するのは君たちだ」


「はっ、もちろんです! それで十分すぎるほどです! 貴方のお知恵さえお借りできれば…!」


 私は空を見上げた。ガス灯の光を浴びて鈍く光る霧は、まるでこの街に巣食う病の膿のように見えた。これから始まるであろう、面倒で、陰鬱な日々を思い、私は心の底から深い溜息をついた。


「辻馬車を拾いたまえ、警部。まずは、その日本人大尉に関する情報と、君たちの言う『手際の良すぎる現場』とやらに関する、全ての資料を見せてもらうとしよう。スコットランドヤードへ案内してもらおうか」


 私の静かな声に、レストレードは力強く頷いた。彼は慌てて大通りへ走り、辻馬車を呼び止める。その背中を見ながら、私は弟が愛したこの混沌の街を、そして彼が不在となったこの舞台で私が演じなければならない役割の重さを、改めて感じていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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