第6章:糸の結び目(2) ― 過去からの手紙 ―
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アイリーン・ノートンの指摘は、冷たい水滴のように、図書館の静寂に染み渡った。彼女の視線は、私の内面を解剖しようとする外科医のメスのように鋭い。私は、彼女の挑戦を無視することも、はぐらかすこともできた。だが、この局面において、そのような態度は非効率的だと判断した。彼女はもはや、単なる情報収集のための駒ではない。この複雑怪奇な事件の構造を、私とほぼ同等のレベルで理解しうる、唯一の協力者なのだ。限定的な情報開示は、彼女の忠誠心を試すための餌ではなく、より高度な協力を引き出すための、必要不可明な投資である。
「ヘルメス協会」私は、その名を静かに口にした。あたかも、古文書の中から埃をかぶった単語を一つ拾い上げたかのような、無機質な響きで。「表向きは、古代ギリシャの叡智と神秘主義哲学を探求する、高貴な紳士たちのための社交クラブ。会員は、王室縁の貴族、政府の高官、司法界の重鎮、そして君が言うところの『芸術家』たちで構成されている。彼らは、選ばれた者だけがアクセスできる、特別な知識の探求を標榜している」
私は、一度言葉を切り、彼女の反応を窺った。彼女は黙って次の言葉を待っている。その瞳は、ただの好奇心ではなく、この情報の裏にある本質を掴もうとする、知的な探求心に燃えていた。
「だが、その実態は異なる」私は続けた。「彼らは、現代社会、特に大英帝国の『腐敗』を深く憂いている。貧困、犯罪、道徳の退廃…彼らは、これらを社会という身体を蝕む病だと見なし、自らをその病を外科的に切除する、神に選ばれた医師だと信じ込んでいる。彼らの言う『浄化』とは、社会の不要な部分、すなわち、彼らの基準で価値がないと判断された人間を排除すること。『新たな夜明け』とは、その先に訪れる、彼らの理想とするエリートによって統治された、秩序ある世界の謂いだ」
「つまり、優生思想を信奉する、過激な秘密結社…ということですわね」アイリーンは、私の説明を簡潔に、そして的確に要約した。「そして、ホワイトチャペルの貧しい女たちは、彼らにとって真っ先に『浄化』されるべき対象だった、と」
「その通り。だが、今回の事件の動機は、思想的な『浄化』とは少し違うようだ。君がもたらした情報によれば、これはもっと個人的で、切迫した理由…すなわち、口封じが目的だ。協会のメンバーである政府高官と芸術家が、それぞれ個人的なスキャンダルを抱え、それをネタに脅迫された。組織にとって、メンバー個人のスキャンダルは、組織全体の存在を危うくする病巣に他ならない。故に、彼らはその病巣を、最も手酷いやり方で『切除』した。切り裂きジャックという、ロンドン中を恐怖させた亡霊の名を借りて」
アイリーンは、深く息を吸い込んだ。彼女の思考が、今や私と完全に同期しているのが分かった。
「見せしめ…」彼女は呟いた。「他の運び屋たち、そして、組織の末端にいる者たちへの、裏切り者に対する無慈悲な制裁の宣言。だからこそ、あれほど残忍な殺し方をする必要があったのですわね」
「そうだ。そして、その見せしめは、同時にスコットランドヤードの捜査を攪乱する煙幕にもなる。世間と警察が『切り裂きジャックの再来』という劇場型の恐怖に目を奪われている間に、彼らは静かに目的を達成する。実にクレバーで、そして悪趣味なやり方だ」
そこまで語ったところで、私は立ち上がった。そして、部屋の隅にある、鍵のかかった書棚へと向かった。そこは、この図書館の公式な蔵書ではなく、私が個人的に保管を許可させている、機密資料のアーカイブだった。私は小さな鍵で扉を開け、中から一冊の、分厚い革張りのファイルを取り出した。表紙には、何のタイトルも記されていない。ただ、中央に『1888』という年号が、金文字で型押しされているだけだ。
私はそのファイルを、テーブルの上に静かに置いた。アイリーンは、そのファイルが持つ不吉なオーラを敏感に感じ取ったのか、わずかに身を強張らせた。
「これは?」
「数年前にロンドンを震撼させた、オリジナルの『切り裂きジャック』に関する、すべての公式・非公式記録の写しだ」私は答えた。「警察の捜査資料、検死報告、目撃証言、そして…政府が闇に葬った、数々の報告書も含まれている」
私は、手袋をはめた手で、慎重にファイルを開いた。中には、黄ばみ始めた書類、おぞましい現場写真、そして、被害者たちの顔写真が収められていた。メアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウッズ…そして、最後に惨殺されたメアリー・ジェーン・ケリー。彼女たちの虚ろな瞳が、まるで過去から我々に何かを訴えかけているかのようだった。
「私は、君がホワイトチャペルで情報を集めている間、これらの資料を再検討していた。何百回と読み返した記録だ。だが、今回は、新たな視点…ヘルメス協会というフィルターを通して、すべてを見直した」
私は、ページをめくり、ある一枚の書類で指を止めた。それは、最後の被害者とされるメアリー・ジェーン・ケリーに関する、担当刑事の個人的な手記の写しだった。
「公式記録では、ジャックによる犯行はメアリー・ケリーで終わっている。だが、本当にそうだろうか?」私は、アイリーンに問いかけた。「この手記によれば、ケリーの事件から数週間後、もう一人、彼女と非常に親しかったアリス・マッケンジーという名の娼婦が、酷似した手口で殺害されている。だが、この事件は、当時の警察上層部と内務省からの強い圧力により、ジャックの犯行とは公式に結びつけられなかった。模倣犯によるものとして、早々に捜査は打ち切られている」
「なぜ、圧力が?」アイリーンの声は、緊張を帯びていた。
「理由は二つ考えられる。一つは、長引く連続殺人に対する市民のパニックを、これ以上煽りたくなかったという政治的判断。もう一つは…」私は、手記の一節を指でなぞった。「このアリス・マッケンジーという女が、ある大物貴族の落胤であり、その貴族のスキャンダルを隠蔽するためだった、という説だ。もちろん、これは当時の捜査官が記した、根拠のない憶測に過ぎない。だが…」
私は、別の書類を彼女の前に置いた。それは、今回の第一の被害者、マーサ・タブラムの簡単な経歴書だった。マイクロフトの情報網が、ごく短時間で作成したものである。
「今回の被害者、マーサ・タブラム。彼女は、数年前まで、殺されたアリス・マッケンジーと同じ安宿に暮らし、行動を共にすることが多かった、数少ない友人の一人だった」
アイリーンの目が、大きく見開かれた。彼女の美しい顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「まさか…」
「そう。点と点が、繋がり始めた。数年前のジャック事件は、公式に発表されたメアリー・ケリーで終わったのではない。その裏で、闇に葬られた『最後の被害者』アリス・マッケンジーが存在した。そして、今回の新たな事件は、そのアリスの友人であったマーサ・タブラムから始まっている。これは、偶然だろうか?」
私は、彼女に思考の時間を与えた。図書館の静寂が、まるで重力を持ったかのように、我々の間に沈み込んでくる。過去の亡霊が、現在にその長い影を落としている。切り裂きジャックという事件は、終わってなどいなかったのだ。それは、ただ、休眠期間に入っていたに過ぎない。そして、何者かが、その眠りを覚ましたのだ。
「復讐…?」アイリーンが、か細い声で呟いた。「友人を殺され、その死さえも闇に葬られたことに対する、マーサ・タブラムの復讐…?」
「あるいは」私は、彼女の言葉を引き取った。「マーサは、友人の死の真相を知ってしまったのかもしれない。アリスを殺し、その事実を隠蔽したのが誰であるかを。そして、それをネタに、脅迫を…」
「ヘルメス協会を」アイリーンが、私の言葉を完成させた。
その通りだ。もし、アリス・マッケンジーの殺害と隠蔽に、ヘルメス協会が関わっていたとしたら? そして、マーサがその事実を掴んで脅迫に及んだとしたら? すべての辻褄が合う。彼女たちが、なぜあれほど残忍に殺されなければならなかったのか。なぜ、犯人がジャックの手口を模倣したのか。それは、数年前の事件の真相を知る者に対する、究極の口封じだったのだ。
「糸の結び目が、見えてきましたわね」アイリーンは、顔を上げた。彼女の瞳には、もはや恐怖の色はなかった。そこにあるのは、この巨大で邪悪な謎を解き明かさんとする、狩人の光だった。
「ああ。だが、まだ結び目は一つだ」私は、ファイルを静かに閉じた。「この糸をたぐり寄せれば、さらに多くの結び目が見つかるだろう。そして、その先には、糸を操る人形師がいるはずだ。我々の仕事は、その人形師の正体を暴き、その指を断ち切ることにある」
私は、窓の外に目をやった。空は依然として、鉛色の雲に覆われている。だが、私の頭の中では、すでに次の一手を打つための、無数のシミュレーションが開始されていた。過去からの手紙は、読まれた。今や返信を書く時が来たのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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