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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第6章:糸の結び目(1) ― 蔵書の森にて ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 セント・ジェームズ・スクエアに位置するロンドン図書館は、私の思考にとって、ディオゲネス・クラブとはまた別の種類の静謐を与えてくれる場所だ。クラブの沈黙が「無関心」の壁によって築かれているとすれば、ここの静寂は「知性」の重みによって保たれている。天井まで届く書架に眠る無数の蔵書は、過去から現在に至る人間の思考の集積であり、その一つ一つが、声なき対話を求めているかのようだ。革張りの椅子の軋む音、ページの乾いた囁き、そして古紙とインクの微かな香りだけが、時間の流れを証明している。


 私は、会員専用の最上階にある個室の一つで、窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。約束の時刻は、とうに過ぎている。だが、私は急かされることもなく、ただ待っていた。私の手配した部下たち――表向きはロンドンの街に溶け込む浮浪者や辻馬車屋だが、その実態は私の意のままに動く目と耳だ――からの報告は、すでに馬車で逐一届けられている。昨夜、ミラーズ・コート13号室で起こったことの全てを、私はこの静かな部屋にいながらにして、まるで観劇でもするように把握していた。


 アイリーン・アドラーという女の行動は、私の予測と期待の範囲を、心地よく裏切ってくれた。リズ・ストライドという怯えた情報源から、核心に迫る証言を引き出す手腕。そして、暗殺者の襲撃に対する、驚くほど冷静かつ効果的な応戦。報告書に記された「左大腿部への刺突による反撃」という簡潔な一文は、彼女がただの美しいだけの女でも、舞台の上で喝采を浴びるだけの歌姫でもないことを、改めて証明していた。彼女は、生き抜く術を知っている。それも、極めて実践的な方法で。


 弟、シャーロックならば、おそらく自ら変装してホワイトチャペルの闇に紛れ込み、その混沌の中心でスリルを楽しんだことだろう。彼は謎を解く過程そのものに芸術的な興奮を見出す。だが、私にとって事件とは、解決すべき問題であり、修正すべき国家の不均衡に過ぎない。そのための最も効率的な手段として、私はアイリーン・アドラーという駒を選んだ。しかし、その駒は、盤上で自らの意志を持ち、予想外の動きで局面を打開しつつある。それは、計算を狂わせる危険因子であると同時に、この複雑な方程式を解くための、唯一の変数かもしれなかった。


 不意に、重厚なマホガニーの扉が、控えめにノックされた。

「入れ」

 私の許可を得て入ってきた彼女は、上質なツイードの旅行着に身を包んでいた。昨夜の死線が嘘であるかのように、その装いは完璧だ。だが、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かび、何よりも、その双眸には、ホワイトチャペルの闇と恐怖をその身に浴びた者だけが宿す、鋭く、そしてどこか物悲しい光が湛えられていた。彼女は、私が用意した向かいの椅子に、音もなく腰を下ろした。その動きには、まだ昨夜の格闘で負ったであろう脇腹の痛みを庇う、微かな硬さが見て取れた。


「遅くなりましたわね、ホームズ卿。少々、夜遊びが長引いてしまいまして」

 彼女の口調は、いつものように軽やかで皮肉めいていたが、その声には微かな掠れがあった。

「有益な夜だったようだ。君の『夜遊び』の成果は、すでに私の耳にも届いている」私は、テーブルの上に置かれた紅茶のポットを彼女の方へ滑らせた。「まずは、体を温めることだ。報告はそれからでいい」

 彼女は、私の言葉に少し驚いたような表情を見せたが、素直に頷き、自らカップに紅茶を注いだ。湯気の向こうで、彼女は私の真意を探るように、じっと私を見つめている。彼女は、私が彼女の行動を監視していることを、当然のように理解しているのだろう。そして、その上でなお、このゲームに参加し続けている。


「どこまでご存知で?」カップを両手で包み込みながら、彼女は尋ねた。

「リズ・ストライドという女が、今頃はリヴァプール行きの列車に乗っていること。そして、君が昨夜、ミラーズ・コートで招かれざる客とダンスを踊ったことくらいは」

 私の言葉に、彼女の眉がわずかに動いた。「ダンス、ですって?ずいぶんと物騒なステップでしたわ。相手のリードは、殺意に満ちていましたから」

「だが、君は相手の足を踏みつけ、見事に主導権を奪い返した。そのステップの的確さには感心させられたよ」

「お褒めにいただき、光栄ですわ。ですが、その物騒なダンサーは、どなたが手配なさったのかしら?あなたの差し金ではないと、信じたいものですけれど」

 その言葉は、鋭いナイフのように私の核心を突いてきた。彼女は、私が彼女を試している可能性、あるいは、用済みになれば消す可能性さえも、常に念頭に置いているのだ。

「私が人を消すときは、もっと静かで、確実な方法を選ぶ。昨夜のような、後始末の雑なやり方は私の流儀ではない」私は、事実を淡々と告げた。「あれは、君が嗅ぎまわっている『組織』からの、明確な警告だ」


 その言葉で、二人の間の探り合いは終わった。我々は、共通の敵を持つ、乾いた同盟者であることを再確認したのだ。

 アイリーンは、カップを置くと、その背筋を伸ばした。彼女の目が、再び舞台女優のそれに戻る。これから語られるのは、彼女が命がけで手に入れた、物語の核心だ。


「リズ・ストライドは、すべてを話してくれました。殺されたポリー・ニコルズとマーサ・タブラム…彼女たち三人は、運び屋だったそうです」

「運び屋…」私は、その言葉を反芻した。私の脳内では、瞬時にロンドンの裏社会における非合法な物流ネットワークのデータが検索され、フィルタリングが開始される。

「ええ。ブルーゲイト・フィールズの阿片窟を拠点とする、ウーという中国人が元締め。彼から、小さな包みを受け取り、シティの富裕層へ届けるだけの簡単な仕事。ただし、報酬は破格だったと」

「中身は阿片か? それとも、さらに違法性の高い薬物か…」

「おそらくは。ですが、問題はそこではありませんでした」アイリーンは、身を乗り出した。「マーサ・タブラムは、届け先の紳士と深い仲になった。彼女はその男を『閣下』と呼び、政府の高官だと吹聴していたそうです。そして、その『閣下』の秘密をネタに、強請ろうとした」

「愚かな真似を」

「ええ、命知らずの愚行ですわ。そして、彼女は殺された。一方、ポリー・ニコルズは、別の届け先の紳士を脅迫した。こちらは『芸術家』だったとか。その男には、少年愛という、世間に知られてはならない趣味があった」


 私は、黙って彼女の言葉を聞いていた。私の思考は、すでに別の次元で高速回転を始めていた。「閣下」…政府高官。そのキーワードに該当する人物は数十人。だが、ホワイトチャペルの女と密会するようなリスクを冒す人物となれば、その数は一気に絞られる。「芸術家」…王室や貴族の庇護を受ける著名な芸術家もまた、リストアップは可能だ。


「そして、ここからが重要ですわ」アイリーンの声が、わずかに低くなった。「リズは、偶然見ていました。マーサを囲っていた『閣下』と、ポリーが脅していた『芸術家』が、親しげに語らっている姿を。二人は、仲間だったのです」


 その瞬間、二つの独立した点に見えた事件が、一本の線で結ばれた。これは、二人の女がそれぞれ別の相手を脅迫した結果、偶然にも同じ犯人(あるいは組織)によって殺害された、という構造だ。口封じ。それも、極めて残忍な見せしめを伴う。


「その二人が、何か話しているのを聞いたと?」私は、核心を突いた。

「ええ。断片的にですが、リズは覚えていました」アイリーンは、一呼吸置くと、まるで呪文を唱えるかのように、その言葉を口にした。「『ヘルメス』…『浄化』…そして、『新たな夜明け』、と」


 ヘルメス。


 その単語が私の耳に届いた瞬間、この図書館の重厚な静寂に、見えない亀裂が入ったような気がした。私の表情筋は、長年の訓練によって完璧な無表情を保っていたはずだ。だが、アイリーン・アドラーという女は、その仮面の奥にある、ほんの僅かな動揺の波紋を、見逃しはしなかった。彼女の唇の端が、微かに吊り上がったのを、私は確かに見た。彼女は、自分が投げた石が、私の築いた静かな水面に、どれほど大きな波紋を広げたのかを、正確に理解したのだ。


「…その固有名詞について、何かご存知のようですわね、ホームズ卿」


 彼女の問いかけは、もはや質問ではなかった。それは、確信に満ちた指摘であり、私をこの事件の単なる依頼人ではなく、より深いレベルの当事者として引きずり出すための、次なる一手だった。私は、ゆっくりと指を組み、彼女の挑戦的な視線を、正面から受け止めた。蔵書の森の静寂の中で、二つの糸の端が、今、確かに結ばれようとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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