第5章:ホワイトチャペルの囁き(5) ― 夜明けの誓い ―
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ジジリ、という金属が擦れる、耳障りな音がした。外から差し込まれた細い針金が、粗末なかんぬきを巧みに持ち上げていく。完全な闇の中、アイリーンは呼吸さえも止めていた。背後で震えるリズの体を片腕で制し、もう一方の手に握ったナイフの冷たい感触だけが、現実との唯一の繋がりだった。
音もなく扉が開き、人影が滑り込んできた。外のわずかな光を背にしたそのシルエットは、背が高く、痩身だった。男は、まるで闇に目が慣れているかのように、淀みなく部屋の中央へ進む。その右手に握られたものが、ランプの残り火に鈍く反射した。メスだ。外科医が使うそれによく似た、鋭利で、冷たい光を放つ刃物。
(始末屋…!)
アイリーンは、男がベッドの位置を特定し、狙いを定めるよりも早く動いた。彼女は床を蹴り、猫のようにしなやかな動きで男の懐へ飛び込む。狙うは、刃物を持つ右腕。闇の中での奇襲は、アイリーンにとって有利なはずだった。
だが、男の反応は彼女の予測を上回っていた。アイリーンのナイフが空を切ると同時に、男は柳のように身をかわし、体勢を崩した彼女の脇腹を、左手の拳で的確に打ち据えた。
「ぐっ…!」
肺から空気が強制的に絞り出される。プロだ。それも、裏社会の暗闘を幾度となく潜り抜けてきた、熟練の暗殺者。男は一言も発しない。ただ、機械のように冷徹な殺意だけが、濃密な闇の中でアイリーンに突き刺さる。
男は即座に反転し、今度こそベッドで身を固くしているリズへとメスを振り上げた。絶望的な状況。アイリーンが体勢を立て直すよりも、刃がリズの喉を掻き切る方が早い。
その瞬間だった。
「いやぁぁぁっ!」
恐怖の絶頂に達したリズが、金切り声を上げながら、ベッド脇の木箱を掴み、半狂乱で男に投げつけた。それは狙いも何もない、ただのパニックによる行動だった。だが、予期せぬ横からの攻撃に、男の注意が一瞬だけ逸れる。メスの先端が、リズの肩を浅く切り裂いた。
その一瞬で、十分だった。
アイリーンは、脇腹の痛みを無視して再び踏み込み、今度は男の足元を狙ってナイフを突き出した。手応えがあった。肉を裂き、骨に当たる感触。男の喉から、初めて苦痛の呻きが漏れた。体勢を崩した男の顎に、アイリーンは渾身の掌底を叩き込む。
好機は一瞬。彼女はリズの腕を掴むと、力任せに引き起こした。
「走れ!」
二人は、もつれるようにして部屋を飛び出した。背後で、負傷した男が体勢を立て直す気配がする。深追いはしてこないかもしれない。だが、確かめる余裕はなかった。
ミラーズ・コートを抜け、ドーセット・ストリートの闇を駆け抜ける。どこへ向かうという当てもない。ただ、この死の匂いが染みついた場所から、一刻も早く離れたかった。不潔な路地をいくつも曲がり、息も絶え絶えになった頃、ようやくスピタルフィールズの市場近くの、比較的開けた場所に出た。
「はぁ…っ、はぁ…」
リズはその場に崩れ落ち、肩の傷を押さえながら激しく咳き込んだ。幸い、傷は深くない。だが、彼女の精神は、もはや限界だった。
「もう、終わりだ…あたしは、もう…」
「終わりじゃない」アイリーンは、荒い息を整えながら、きっぱりと言った。「あんたは、ここから逃げるんだ」
彼女は懐から、マイクロフトに渡されていた活動資金の中から、数枚の紙幣を抜き取ってリズの手に握らせた。それは、リズが運び屋の仕事で得る金額とは比べ物にならない、大金だった。
「夜が明けたら、すぐに駅へ向かえ。リヴァプールでも、グラスゴーでも、どこでもいい。誰もあんたを知らない街へ行くんだ。名前を変え、過去を捨てろ。二度と、ロンドンには戻ってくるな」
リズは、震える手で紙幣を見つめ、それからアイリーンの顔を見上げた。その瞳には、信じられないという色と、かすかな希望の光が灯っていた。
「でも、あんたは…?」
「あたしには、まだやることがある」アイリーンは、静かに言った。「あんたたちが殺され、あんたが命を狙われた理由を、白日の下に晒す。それが、あたしの仕事だ」
アイリーンはリズの肩を一度だけ強く叩くと、彼女に背を向けた。
「行け。そして、生き延びろ。それが、ポリーとマーサへの、あんたなりの弔いだ」
リズは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて嗚咽を漏らしながら立ち上がると、アイリーンの言葉に従い、夜の闇の中へと消えていった。彼女が、無事にこの街を脱出できることを祈るしかなかった。
一人残されたアイリーンは、ゆっくりと空を見上げた。東の空が、わずかに白み始めている。ホワイトチャペルの長い夜が、終わろうとしていた。
彼女は、汚れた手を強く握りしめた。
リズの告白。ヘルメス協会の存在。そして、先ほどの暗殺者。すべてが、マイクロフトの懸念が正しかったことを証明していた。これは、単なる模倣殺人事件ではない。大英帝国の根幹を揺るがしかねない、巨大な陰謀の一端だ。
恐怖はあった。だが、それ以上に、激しい怒りが、そしてある種の興奮が、彼女の心を支配していた。危険であればあるほど、謎が深ければ深いほど、彼女の魂は燃え上がる。
(マイクロフト・ホームズ…あなたのチェス盤の上で、ただ駒として動かされるのは、もう終わりよ)
これは、彼女自身の戦いだ。名もなき女たちのために。そして、真実という、何よりも価値あるもののために。
アイリーンは、報告のために指定された連絡場所へと、足を進めた。夜明け前の冷たい空気が、火照った体を冷やしていく。
約束の場所は、セント・ポール大聖堂が見える、テムズ川沿いのベンチだった。彼女がそこにたどり着くと、一台の黒い馬車が、音もなく近づき、目の前で止まった。
御者ではない。馬車の窓が下ろされ、中から落ち着いた、しかし有無を言わせぬ響きを持った声がした。
「アイリーン・ノートンさんですね。お乗りください」
アイリーンは、警戒しながら馬車の中を窺った。そこに座っていたのは、マイクロフト・ホームズではなかった。口髭をたくわえた、軍人のような厳格な顔つきの、見知らぬ初老の男だった。
「マイクロフト様からの使いの者です。事態は、新たな局面を迎えました。あなたには、直接、彼の下へ来ていただく必要があります」
男の目は、嘘をついているようには見えなかった。むしろ、その瞳の奥には、国家の重大事を担う者だけが持つ、深刻な光が宿っていた。
アイリーンは、一瞬の逡巡の後、決意を固めた。彼女は頷くと、ためらうことなく馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、馬車は静かに走り出す。夜明けの光に照らされたロンドンの街並みを窓から眺めながら、アイリーンは静かに目を閉じた。ホワイトチャペルの囁きは、終わった。だが、これから始まるのは、帝国の中枢で繰り広げられる、声なき戦争の序曲に過ぎない。彼女は、その戦いの最も危険な最前線へと、今、足を踏み入れたのだ。
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【次回予告】
次回、「第6章:糸の結び目」。
どうぞお楽しみに!




