第5章:ホワイトチャペルの囁き(4) ― 13号室の告白 ―
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ドーセット・ストリートは、ホワイトチャペルの中でも特に悪名高い、犯罪と貧困の巣窟だった。通りの両脇には、今にも崩れ落ちそうな安宿が密集し、その薄汚れた窓の一つ一つに、絶望に満ちた人生が影のように映っている。空気は、ごみと汚水と、そして人々の諦めが発酵したような、重苦しい匂いに満ちていた。アイリーンが足を踏み入れたミラーズ・コートは、そのドーセット・ストリートからさらに奥まった、狭く不潔な中庭だった。ガス灯の光さえ届かず、四方を高い建物に囲まれたそこは、まるで石造りの井戸の底のようだった。
彼女は、ほとんど光のない暗闇の中を、壁に手をつきながら進んだ。目指すは、13号室。不吉な数字を冠したその部屋の扉は、他の部屋と同様、歪んで 제대로 閉まっていなかった。隙間から、ランプの弱々しい光が漏れている。アイリーンは、音を立てずに扉をそっと押し開けた。
部屋の中は、想像を絶するほど狭く、そしてみすぼらしかった。広さはわずか数畳ほど。壁は剥がれ落ち、湿気で黒い染みが広がっている。家具と呼べるものは、粗末な木製のベッドと、その脇に置かれた小さな木箱だけ。そのベッドの上に、リズ・ストライドが、ショールにくるまって座っていた。彼女は、アイリーンの姿を認めると、びくりと肩を震わせたが、逃げ出すことはなかった。その瞳には、恐怖と、そしてわずかながらの安堵の色が浮かんでいた。この地獄の底のような場所で、一人で夜を明かす恐怖に比べれば、危険な秘密を共有する相手がいることの方が、まだましなのかもしれない。
「…来たのかい」リズが、か細い声で言った。「本当に来るとは、思わなかったよ」
「約束だからね」アイリーンは、静かに扉を閉め、内側から粗末なかんぬきをかけた。気休めにしかならないだろうが、それでも外界からの侵入をわずかにでも拒む壁は必要だった。「それに、あんたも無事だったようで、何よりだ」
アイリーンは、リズの向かい、ベッドの端に腰を下ろした。二人の女の膝が、触れ合いそうなほどの距離。ランプの揺れる光が、互いの顔に深い影を落とす。
「テン・ベルズでの話しの続きをしようか」アイリーンは、単刀直入に切り出した。「あんたは、ポリーとマーサの『仕事』について、何か知っている。違うかい?」
リズは、しばらく沈黙していた。彼女は、ごわごわになった自分の手の甲を、神経質に見つめている。やがて、彼女は観念したように、重い口を開いた。
「…仕事なんて、大層なものじゃない。ただの、お使いさ」
「お使い?」
「ああ。ポリーも、マーサも…そして、あたしも、時々頼まれてた。ある場所から、ある場所へ、小さな包みを運ぶだけ。中身が何かは、知らされない。知ろうとすることも、禁じられてた。ただ、言われた通りに運べば、普通の『仕事』の何倍もの金が手に入った」
その告白は、アイリーンが阿片窟で盗み聞きした情報と、完璧に一致していた。彼女は、リズの言葉を促すように、黙って次の言葉を待った。
「元締めは、ブルーゲイト・フィールズの阿片窟にいる、ウーという名の中国人だ」リズは続けた。「あいつが、運び屋と、荷物の届け先を決める。届け先は、いつも違った。だが、どこもシティの、立派な屋敷やクラブばかりだった。あたしたちは、使用人の出入り口からこっそり入って、決まった相手に包みを渡し、代金を受け取る。それだけのはずだった…」
「はずだった?」アイリーンは、その言葉を繰り返した。
リズの顔が、苦痛に歪んだ。「マーサが、最初にしくじった。あいつは、届け先の紳士と、深い仲になっちまったんだ。ただの客としてじゃない。あの紳士は、マーサに夢中になった。高価な服を買い与え、この薄汚い界隈から出してやると、約束したらしい」
「その紳士の名は?」
「知らない。マーサは、決して名前を言わなかった。『閣下』とだけ、呼んでいたよ。とても身分の高い、政府の人間だって、自慢してた。でも、そのうち、マーサは奇妙なことを口にするようになった。『閣下は、大変な秘密を抱えている』『その秘密が、英国を揺るがすことになる』なんてね。そして、その秘密をネタに、もっと金をせびろうとしていたんだ。あたしは止めたんだよ! でも、あいつは聞かなかった…」
リズの声は、涙で震えていた。
「そしたら、あのざまだ。マーサは殺された。めった刺しにされて、まるで獣みたいに…。警察は、ただの痴情のもつれか、通り魔の仕業だと思ってる。でも、あたしには分かった。これは、見せしめだ。口の軽い女の末路を、あたしたちに見せつけるための…」
アイリーンの背筋を、冷たいものが走った。「閣下」…政府の高官。マイクロフトが危惧していた、最悪のシナリオが現実味を帯びてきた。
「ポリーは、どうなんだ?」アイリーンは、声を低くして尋ねた。「彼女も、その『閣下』と関わりが?」
「いや、ポリーの相手は別さ」リズは首を横に振った。「ポリーは、マーサの死に様を見て、臆病になってたんだ。でも、金は必要だ。だから、彼女は別の方法を考えた。運び屋の仕事で出入りしていた、別の紳士…芸術家か何かだったらしいが、その男の醜聞を掴んだんだ。男は、若い少年を好む趣味があった。ポリーは、その証拠を掴んで、男を脅し始めた。マーサみたいに、大きなことを望んだわけじゃない。ただ、日々のジン代と寝床代を、安穏と稼げるだけの、ささやかな脅迫だったはずなんだ」
「だが、その『ささやかな脅迫』が、彼女の命を奪った」
「ああ」リズは、力なく頷いた。「ポリーは、殺される数日前、ひどく怯えていた。『やりすぎたかもしれない』『相手は、ただの芸術家じゃなかった』『背後に、もっと恐ろしい何かがいる』って…。そして、あいつも殺された。マーサと同じように、喉を掻き切られて…」
部屋に、重い沈黙が落ちた。なぜ、二つの異なる脅迫事件の被害者が、同じ「切り裂きジャック」の手口で殺されなければならなかったのか? アイリーンの思考が、高速で回転する。
「…リズ」アイリーンは、静かに口を開いた。「あんたは、何も知らなかったのか?」
リズは、顔を覆った。その指の隙間から、嗚咽が漏れる。
「あたしは…臆病者だよ。だから、ただ言われた通りに、荷物を運ぶだけだった。でも、一度だけ…一度だけ、見てしまったんだ」
「何を?」
「運び先の屋敷で、二人の紳士が話しているのを。一人は、マーサが『閣下』と呼んでいた男。もう一人は、ポリーが脅していた『芸術家』。二人は、親しげに肩を叩き合い、笑っていた。まるで、古くからの友人のように…」
その瞬間、アイリーンの中で、全てのピースが嵌った。二つの事件は、繋がっていたのだ。政府高官である「閣下」と、醜聞を抱える「芸術家」。彼らは、仲間だった。
「その二人が、話していた言葉を、何か覚えていないか?」アイリーンは、リズの肩を掴み、問い詰めた。
「知らない…!」リズは、パニックに陥っていた。「あたしは、何も知らない! ただ、二人が話していた言葉の断片を、いくつか耳にしただけだ…『ヘルメス』…『浄化』…『新たな夜明け』…そんな言葉を…」
ヘルメス…。 その単語は、アイリーンの脳内で鋭い警鐘を鳴らした。今回の調査をマイクロフト・ホームズから依頼された際、彼が口にした名だった。
『ヘルメス協会、と我々は呼んでいる』マイクロフトの、あのどこか人を食ったような、それでいて冷徹な声が耳の奥で蘇る。『表向きは、古代の叡智と哲学を探求する、高貴な紳士たちの社交クラブ。しかし、その実態は、大英帝国の腐敗を憂い、社会の“浄化”を掲げる、過激な選民思想家たちの秘密結社だ。メンバーには王室に近い貴族や政府高官、影響力のある芸術家まで含まれている。彼らは自らを新時代の導き手と信じ、目的のためなら非合法な手段も厭わない。我々もその危険な兆候を掴んではいるが、いかんせん相手の社会的地位が高すぎて、決定的な証拠なしには手が出せないのだ』
まさか、こんな場所で、その名を聞くことになるとは。これは、切り裂きジャックという狂人の名を借りた、組織的な口封じ。アイリーンの全身に、これまでとは質の違う戦慄が走った。相手は、一人の狂人ではない。帝国の心臓部で静かに増殖する、巨大で、冷徹な、思想を持った組織なのだ。
その時だった。
中庭の方から、微かな物音が聞こえた。枯れ葉を踏むような、あるいは、濡れた地面を慎重に歩く、ゴム底の靴音。
アイリーンは、咄嗟にリズの口を塞ぎ、ランプの火を吹き消した。部屋は、完全な闇に包まれた。
「誰かいる…」アイリーンは、リズの耳元で囁いた。
靴音は、ゆっくりと、しかし確実に、13号室の扉に向かって近づいてくる。
アイリーンは、息を殺し、闇に目を凝らした。彼女の右手は、スカートの下に隠し持っていた、護身用の小さなナイフの柄を、固く握りしめていた。
罠にかかったのは、リズだけではなかった。彼女を追ってきた、自分自身もまた、この不潔な小部屋という、袋のネズミになってしまったのだ。
扉の向こうにいるのは誰か。
リズの告白を聞き届けた、組織の始末屋か。
それとも、全く別の、第三の存在か。
かんぬきが、外側から、ゆっくりと持ち上げられる、金属の擦れる音がした。
アイリーンの全身の筋肉が、極限まで緊張する。
ホワイトチャペルの夜は、まだ終わらない。本当の恐怖は、今、まさに始まろうとしていた。
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