第5章:ホワイトチャペルの囁き(2) ― 震える蜘蛛の糸 ―
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リズと名乗った女――エリザベス・ストライドの目は、濁ったジンが注がれたグラスの中で揺らめく、哀れな二つの灯火のようだった。その光は、アイリーンが差し出した救いの手(に見せかけた罠)と、その背後に潜むかもしれない未知の危険との間で、激しく揺れ動いている。この街で生きるということは、差し伸べられた手が温かい慈悲によるものか、それとも獲物を絡めとるための粘ついた罠なのかを、瞬時に見極める術を身につけることと同義だった。そして、今のリズには、その判断力さえもが、長年のアルコールと絶え間ない恐怖によって麻痺しているように見えた。
「仕事…」
リズの唇から、か細い煙のようにその言葉が漏れた。彼女はアイリーンの顔を見ようとせず、ただテーブルの濡れた染みを、骨張った指先でなぞっている。その仕草は、心の動揺を隠そうとする無意識の抵抗だった。
「そんなもの、あるもんかい。あたしたちにある仕事なんて、一つしかありゃしない。体を売って、その日の寝床と一杯のジンを手に入れる。それだけさ。ポリーだって、そうだったはずだ…」
その声は震えていたが、アイリーンは聞き逃さなかった。語尾に込められた、微かな疑問符を。「そうだったはずだ」。それは、彼女自身が信じようとしている、あるいは信じ込まされている「事実」に過ぎないという告白だった。アイリーンは、さらに一歩踏み込むことにした。彼女は身を乗り出し、周囲に聞かれないよう、声を潜めた。その口調は、秘密を分かち合う共犯者のそれだった。
「本当にそうかい? リズ、あたしは見たんだ。数週間前、ポリーが、身なりのいい紳士と話しているのを。場所はここじゃない、もっとシティに近い、小綺麗なパブだった。ポリーは、いつもの汚れたショールじゃなくて、上等とは言えないまでも、新しい帽子をかぶっていたよ。そして、紳士から何か小さな包みを受け取っていた。金だよ、あれは。間違いなく、ただの一夜の値段じゃない、まとまった金だ」
もちろん、それは完全な作り話だった。だが、その嘘は、リズの心に突き刺さる真実の棘となるように、計算し尽くされていた。アイリーンは、ポリーが「情報屋」であったという自らの仮説に基づき、最もありそうな情景を、あたかも目撃したかのように語ったのだ。重要なのは、それが事実かどうかではない。リズがそれを「あり得ることだ」と感じるかどうかだった。
案の定、リズの顔色が変わった。彼女は弾かれたように顔を上げ、初めてアイリーンの目を真正面から見据えた。その瞳の奥で、恐怖と疑念が渦を巻いている。
「紳士…? どんな男だい?」
「顔まではよく見えなかった。背が高くて、仕立てのいいツイードのコートを着ていた。山高帽を目深にかぶって、口髭をたくわえていたかな。それだけさ。でも、ポリーのあの嬉しそうな、それでいて怯えたような顔は忘れられない。まるで、悪魔と取引でもしたみたいだった」
アイリーンは、わざと曖昧な描写に終始した。具体的な特徴を挙げれば、リズの知る人物と食い違った場合に嘘が見破られる。だが、曖昧な描写は、聞き手の記憶や想像力を刺激し、相手自身に「犯人像」を補完させる効果がある。リズはゴクリと喉を鳴らし、アイリーンから受け取ったジンを、まるで薬でも飲むかのように一気に呷った。アルコールが、固く閉ざされた彼女の心の扉を、少しずつ溶かし始める。
「…あいつは、口が堅いようで、軽かったからね」リズは、誰に言うともなく呟いた。「耳聡いのは、生まれつきだった。誰と誰が揉めているとか、どこの店の主人が帳簿をごまかしているとか、そんな下らない噂話を集めるのが得意でね。それがちょっとした小遣い稼ぎになることも、知っていた。でも、まさか…そんな大物と繋がっていたなんて…」
「大物?」アイリーンは、聞き返す。あくまで、何も知らない純粋な好奇心を装って。
リズは、はっと我に返ったように口をつぐんだ。そして、再び周囲を警戒するように見回す。ジン・パレスの喧騒は、少しも変わらない。だが、彼女には、その全てのざわめきが、自分たちの会話を盗み聞きしている密告者の囁きに聞こえるようだった。
「…もういい。忘れとくれ」リズは、震える手で空になったグラスを置くと、席を立とうとした。「あたしは、何も知らない。知りたくもない。あんたも、深入りしない方がいい。ポリーみたいになりたくなければね」
その背中に、アイリーンは最後の、そして最も強力な一撃を放った。
「マーサも、そうだったのかい?」
リズの足が、床に縫い付けられたかのように止まった。マーサ・タブラム。ポリーよりも前に殺された、最初の犠牲者。リズは、まるで錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。その顔は、もはや恐怖を通り越し、絶望の色に染まっていた。
「あんた…いったい何者なんだい…?」
「言ったろ、マギーだよ」アイリーンは、静かに微笑んだ。その笑みは、この薄汚れた酒場の隅にはおよそ似つかわしくない、絶対的な自信に満ちていた。「ただの、明日の寝床を心配してる、あんたの仲間さ。でも、あたしは犬死にはごめんだ。もし、ポリーやマーサが、何か特別な『仕事』のせいで殺されたんなら、あたしはそれを知りたい。危険を避けるためにね。そして、もしその『仕事』が、まだ残っていて、危険に見合うだけの儲けになるなら…あたしは、それを引き継いでもいいとさえ思ってる」
狂気。リズの目には、アイリーンの言葉がそう映ったに違いない。死んだ仲間と同じ轍を踏もうというのだ。だが同時に、その狂気じみた度胸は、このどん底の生活から抜け出すための、蜘蛛の糸に見えたかもしれない。恐怖は、人を臆病にさせるが、極度の恐怖と絶望は、時として人を無謀な賭けに走らせる。
リズは、しばらくの間、アイリーンの顔をじっと見つめていた。値踏みするように、探るように。そして、やがて、長く、諦めたようなため息をついた。
「…ここじゃ話せない。人が多すぎる」
彼女は、アイリーンにだけ聞こえる声で囁いた。「今夜、夜更けに、ドーセット・ストリートの安宿に来な。ミラーズ・コートの13号室だ。あたしの寝床さ。そこなら…少しは話せるかもしれない。だが、期待するんじゃないよ。あたしが知ってることなんて、たかが知れてる。それに、あんたが今夜、そこまで生きてたどり着ける保証も、どこにもないんだからね」
そう言い残すと、リズは今度こそ、人ごみの中に紛れるようにして姿を消した。まるで、汚れた水たまりに落ちたインクの染みが、あっという間に拡散して見えなくなるように。
アイリーンは、一人残されたテーブルで、ゆっくりと自分のグラスに残ったジンを口に含んだ。舌を刺すような安物のアルコールの味。だが、彼女の心は、獲物を罠にかけた狩人のように、冷たく澄み渡っていた。ミラーズ・コート13号室。それは、数年後、切り裂きジャック最後の犠牲者とされるメアリー・ジェーン・ケリーが、無残な姿で発見される場所だった。運命の糸は、彼女が想像していた以上に、複雑で、そして不吉な模様を描きながら、過去と未来を結びつけている。
彼女はグラスを置くと、音もなく立ち上がった。リズの後を追うことはしない。それは、相手を不用意に警戒させるだけだ。約束の時間までには、まだ間がある。彼女には、それまでに済ませておくべき、もう一つの「調査」があった。
アイリーンは、再びホワイトチャペルの湿った闇の中へと踏み出した。今度の目的地は、テン・ベルズのような騒がしいジン・パレスではない。もっと暗く、もっと静かな場所。阿片窟だ。そこは、現実から逃避したい者たちが、甘い煙の中に沈み込む、生ける屍の巣窟。そして、金さえ払えば、どんな秘密でも囁かれる、情報のもう一つの交差点でもあった。ポリーやマーサのような女たちが、時には客として、時には運び屋として、その甘美で危険な巣に出入りしていたことを、アイリーンは知っていた。
彼女は、ショールの襟をさらに深く引き寄せ、顔を隠した。霧はますます濃くなり、まるで街全体が、巨大な秘密を隠すための、灰色のヴェールに覆われているかのようだった。アイリーンの足音が、湿った敷石の上に、静かに、しかし確かなリズムを刻んでいく。一歩、また一歩と、彼女は帝国の最も暗い心臓部へと、躊躇なく進んでいくのだった。
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