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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第5章:ホワイトチャペルの囁き(1) ― 泥中の花、闇中の目 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 プリマドンナの残り香が消え失せた楽屋を後にした私は、ペルメル街へと馬車を急がせていた。辻馬車の車輪が敷石の上を転がる単調な音が、思考の背景音として心地よく響く。アイリーン・アドラー…いや、今はアイリーン・ノートン・アドラーと名乗るあの女。彼女という名の、最も鋭利で、最も予測不可能な刃物を、私は自らの手で鞘から抜き放ってしまった。それが帝国に仕える官吏として正しい判断だったのか、それとも単なる知的好奇心に駆られた愚行だったのか。その答えは、まだ霧の彼方だ。だが、私の内なる知性は、この選択が唯一の正解であったと、冷ややかに告げていた。スコットランドヤードの凡庸な警官たちが、熊手で干し草の山をかき回すような捜査を続けている間に、真犯人は次の獲物を定め、その喉元に牙を突き立てるだろう。時間は、なかった。


 ディオゲネス・クラブの重厚な扉が、音もなく私の背後で閉ざされる。外界の喧騒と湿った霧が完全に遮断され、そこには沈黙と、古書の革の匂い、そして蝋と埃の混じり合った独特の空気が満ちていた。私は誰に会釈することもなく、大理石の床に自らの足音だけを響かせながら、クラブの最も奥深く、私だけが使用を許された私室へと向かった。


 部屋の扉を開けると、そこは既に私の戦場と化していた。暖炉の火が赤々と燃え、部屋全体を暖めているが、その熱気とは裏腹に、空気は張り詰めている。部屋の中央に置かれた巨大なマホガニーのテーブルの上、そして床の一部にまで、夥しい数の書類箱が山と積まれていたのだ。茶色いボール紙で作られた箱には、それぞれ「JTR-1888-Casefiles-CLASSIFIED」という、無機質なステンシルの印字が押されている。数年前に英国中を震撼させ、そして公式には迷宮入りとして封印された、「切り裂きジャック事件」に関する、非公開の捜査資料一式。私がクラブに戻るよりも先に、内務省の記録保管庫から運び込むよう命じておいたものだった。


 それは、情報の墓場だった。検死報告書、現場見取り図、何百人もの目撃者(そのほとんどが信頼性に欠ける)からの聞き取り調書、警察に送りつけられた無数の手紙、そして当時の捜査官たちが記した、徒労と混乱に満ちた手記。その一つ一つが、未解決という名の重い墓石の下に埋葬された、無数の事実の断片だった。


 私はコートを脱ぎ、従僕が差し出すガウンを羽織ると、その情報の山の前に立った。アイリーンの言葉が、脳内で反響する。

『犠牲者は無差別ではなかった』

『彼女は、誰よりも耳が良かったの』


 もし、その仮説が正しいとすれば。犯行の動機が、単なる異常な性的サディズムや、娼婦への無差別な憎悪ではないとすれば。この膨大な資料のどこかに、その「選択」の法則性を示す、微かな痕跡が残されているはずだ。当時の捜査官たちが、あまりに膨大で矛盾に満ちた情報の洪水の中で見過ごした、あるいは重要ではないと判断して切り捨てた、ささやかな事実の欠片。それこそが、今、私が探し求めるべき唯一の宝だった。


 弟のシャーロックならば、どうするだろうか。彼はきっと、この混沌の海を前に、歓喜の声を上げたに違いない。バイオリンを掻き鳴らし、コカインに手を伸ばし、その常軌を逸した集中力で、一昼夜のうちに全ての資料を記憶の宮殿に叩き込むだろう。そして、無関係に見える点と点を、誰も思いつかないような閃きの糸で結びつけ、犯人の肖像を鮮やかに描き出してみせるのだ。


 だが、私にその種の天才的な閃きはない。私の武器は、天才ではなく、怪物じみた記憶力と、冷徹極まりない論理の積み重ねだ。感情を排し、可能性を一つずつ吟味し、矛盾を徹底的に排除していく。それは、巨大な機械が歯車を一つずつ噛み合わせていくような、地道で、骨の折れる作業だ。私は、一番上にあった箱の紐を解き、最初の犠牲者、メアリー・アン・ニコルズ――アイリーンが「ポリー」と呼んだ女――の検死報告書を手に取った。羊皮紙の乾いた感触と、インクの古びた匂い。そこに記された無味乾燥な医学的所見の羅列の向こう側に、私は、ホワイトチャペルの闇の中で生きていた一人の女の、声なき声を聴こうとしていた。私の夜は、始まったばかりだった。


<三人称視点>

 その同じ夜、マイクロフト・ホームズがペルメル街の静謐な要塞で過去の記録と対峙している頃、アイリーン・ノートンは、生々しい現在そのものが渦巻く混沌の只中にいた。彼女が馬車を降りたのは、シティの煌びやかなガス灯の光が届かなくなる境界線、ホワイトチャペル・ハイ・ストリートの入り口だった。御者に法外なチップを渡し、口止めと、二度とこの界隈で自分を見かけても声をかけるなという無言の警告を含ませて追い払うと、彼女はふっと息を吐いた。吐く息は白く濁り、たちまち周囲の濃い霧に溶けていった。


 ほんの数時間前まで、彼女はコヴェント・ガーデンのオペラハウスで、カルメンとして喝采を浴びていた。薔薇の香りと上質な絹、そして貴族たちの賞賛に包まれていた。だが今、彼女の身を包むのは、安物のウールでできた、ところどころ擦り切れたショールだけだ。顔には、馬車の車輪からこっそり拝借した油と、路地の壁からこすり取った煤を混ぜたものを巧みに塗りつけ、長年の苦労と不摂生が刻み込んだかのような深い隈と染みを偽装している。指先はわざと荒らし、爪の間には泥を刷り込んだ。姿勢は猫背気味に、歩き方はわずかに足を引きずるように。そして何より、その瞳から、怜悧な知性と女王のような傲慢さを完全に消し去り、代わりに宿したのは、日々の糧を求める不安と、未来への諦観、そして周囲への警戒心が混じり合った、この街の女たち特有の光だった。


 プリマドンナ、アイリーン・ノートン・アドラーは死んだ。今ここにいるのは、マギーという名の、どこにでもいる場末の女だ。


 彼女は、まるでこの街で生まれ育ったかのように、ごく自然な足取りで、狭く、汚物にまみれた路地へと足を踏み入れた。空気は、石炭の煤煙、腐った野菜、そして安物のジンと人間の汗が混じり合った、鼻を突くような悪臭に満ちている。両側の煤けた煉瓦造りの建物からは、怒鳴り声や赤ん坊の泣き声、そして時折、すすり泣きが漏れ聞こえてくる。ガス灯の光は、濃い霧に遮られてぼんやりと滲み、まるで黄泉の国の提灯のように、人々の不安げな顔を不気味に照らし出していた。すれ違う男たちの視線は、品定めをするように粘りつくか、あるいは獲物を探す狼のように鋭い。女たちは、分厚いショールで身を固くし、うつむき加減に足早に通り過ぎていく。恐怖は、この街の霧と同じくらい、濃密に空気に溶け込んでいた。


 アイリーンの目的地は、フラワー・アンド・ディーン・ストリートの角にある、一軒のジン・パレスだった。「ザ・テン・ベルズ」。ポリーもマーサも、そしてこの界隈で夜を生きる女たちのほとんどが、その日の稼ぎを一杯の忘却に変えるために集う場所。そこは、情報の集積地であり、噂の発信源であり、そして同時に、危険な取引が行われる舞台でもあった。


 軋む扉を押して中に入ると、騒音と熱気が彼女を包み込んだ。安物の鋸屑が撒かれた床は、こぼれた酒や吐瀉物でぬかるんでいる。低い天井にはヤニがこびりつき、裸のガス灯が放つ光が、人々の顔に深い影を落としていた。カウンターでは、アイルランド訛りの男たちが大声で言い争い、隅のテーブルでは、体を寄せ合った若いカップルが、つかの間の安らぎを貪っている。そして、壁際に並んだ粗末な長椅子には、ポリーと同じような境遇の女たちが、虚ろな目でグラスを見つめていた。


 アイリーンはカウンターへ行き、震える手つき(もちろん、それも演技だ)で数ペンス銅貨を差し出し、一番安いジンを頼んだ。バーテンダーは汚れたグラスに無造作にそれを注ぐと、一瞥もくれずに次の客に向き直る。彼女はそのグラスを受け取ると、部屋の最も暗い隅、壁際の長椅子に空いていた一角に、そっと腰を下ろした。


 彼女は飲まない。ただ、ジン特有の杜松の実の匂いが立ち上るグラスを、冷たくなった両手で包み込むように持つだけだ。彼女は、聞く。全身を耳にして、この混沌とした空間を飛び交う、あらゆる音の断片を拾い集める。

「…またジャックだ。警察ピーラーの旦那方は、てんで役に立ちゃしねえ」

「ポリーまでやられるなんてな。あいつは、うまく立ち回ってる方だと思ってたが…」

「次は誰の番だい? あんたかい、それともあたしかい…」

「静かにしろ! 下手な噂を口にすると、ジャックが聞きつけるぞ…」


 恐怖、憶測、そして諦め。だが、アイリーンが探しているのは、それだけではなかった。彼女は、女たちの会話の中に、ポリーとマーサの名前が囁かれるたびに、その声の調子、視線の動き、そして周囲の反応を注意深く観察していた。ほとんどの女は、純粋な恐怖と哀れみを示している。だが、何人かは違う。特に、アイリーンの斜め向かいに座る、痩せこけて骸骨のように目の落ち窪んだ女。彼女は、ポリーの名前が出るたびに、びくりと肩を震わせ、まるで背後に亡霊でも見たかのように、素早く周囲を見回すのだ。その怯え方は、尋常ではなかった。


(あの女…)


 アイリーンは目星をつけた。あの女は、何かを知っている。ただの恐怖ではない。具体的な、身に迫る危険を知る者の恐怖だ。アイリーンは、ゆっくりと時間をかけて、グラスの中のジンを半分ほど飲み干したふりをした。そして、わざと千鳥足でよろめきながら立ち上がると、計算し尽くした角度で、その女の座るテーブルに体をぶつけた。


 ガシャン、と音を立てて女のグラスが床に落ちて割れる。

「おっと、すまないね!」

 アイリーンは、呂律の回らない口調で謝った。「ああ、なんてこった。あんたの大事な一杯を…。本当にごめんよ」

 女は、一瞬、鋭い敵意の目でアイリーンを睨んだが、そのみすぼらしい姿と、酔って焦点の定まらない(ように見える)瞳を見ると、すぐにその敵意を諦めに変えた。

「…いいさ。どうせ、もう味も分からなくなってたところだよ」

「そんなこと言わずに。お詫びに一杯、奢らせてくれないかい? 私も、今夜は一人じゃ怖くてたまらないんだ。あんたもだろ? ポリーがあんなことになっちまって…」


 アイリーンは、ごく自然に「ポリー」の名前を出し、同情と共感を込めた眼差しを女に向けた。女の警戒心が、ほんの少しだけ揺らぐのが分かった。

「あたしはマギー。あんたは?」

「…リズ」

 女は、リズと名乗った。ポリーと最も親しかったとされる、エリザベス・ストライド。後に、ジャックの新たな犠牲者となる女だった。


「リズ、かい。いい名だね」アイリーンは、カウンターで新しいジンを二杯買い求めると、リズの隣に腰を下ろした。「ねえ、リズ。ポリーは…最近、何か変わったことはなかったかい? あいつ、少し羽振りがいいように見えたんだけど…何か、いい『仕事』でも見つけたのかと思ってたんだ」


 アイリーンが核心に触れる言葉を投げかけると、リズの顔からさっと血の気が引いた。彼女は、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、震える声で囁いた。

「…あんた、それをどこで…」

「ただの勘さ」アイリーンは、リズの手に自分のグラスを押し付けた。「さあ、飲んで。体を温めなきゃ。話は、それからだ。あたしもね、何か稼ぎのいい仕事を探してるんだよ。このままじゃ、いつ路上で凍え死ぬか、ジャックに喉を切られるか、分からないからね…」


 リズは、疑いと恐怖、そしてわずかな期待が入り混じった目で、目の前の女――マギーと名乗る見知らぬ同業者――を食い入るように見つめた。彼女が差し出すジンは、毒か、それとも救いの杯か。ホワイトチャペルの闇の中で、二人の女の乾いた同盟が、静かに始まろうとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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