プロローグ:灰色の芝居、不在の王座(2)
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数ヶ月が過ぎ、ロンドンは冬の腕に抱かれていた。11月の霧は、まるで街全体を包む巨大な灰色の毛布のようだった。それは人々の肺腑に染み込み、思考を鈍らせ、世界の輪郭を曖昧にする。ディオゲネス・クラブの窓から見えるペルメルの街並みも、淡いインクで描かれた幽霊画のようにぼやけていた。
私は政府の仕事に没頭していた。インド副王からの緊急電信、バルカン半島における勢力均衡の再計算、海軍の次期主力艦の予算策定。私の思考の宮殿では、大英帝国という巨大な機械を構成する無数の歯車が、休むことなく回転し続けている。私はその設計者であり、整備士であり、そして唯一の監視者だ。一つの歯車の僅かな狂いが、やがて帝国全体を揺るがす大音響へと繋がることを、私ほど熟知している人間はいない。
だが、その巨大な機械の片隅で、些細だが無視できない異音が聞こえ始めていた。それは、ロンドン警視庁から毎週提出される犯罪統計報告書の、ごく僅かな数字の変動だった。暴行事件の検挙率の微減。原因不明の失踪者数の漸増。未解決のまま放置される些末な窃盗事件の山。一つ一つは取るに足らない、新聞の三面記事にも載らないような小さな澱みだ。だが、それらが集積したデータは、私に一つの冷厳な事実を突きつけていた。
街の浄化作用が、確実に低下している。
シャーロックは、犯罪という病巣を外科的に切除する名医だった。彼のメスは、警察組織の鈍重な手続きや、役人たちの縄張り意識を飛び越え、常に的確に患部を捉えた。彼は公式の捜査官ではなかったが、その存在そのものが、ロンドンの裏社会に対する強力な牽制として機能していた。悪党どもは、いつ自分の背後にあの痩身痩躯の影が忍び寄るかと怯えていたのだ。
その影が消えた今、街の暗渠に潜んでいたネズミたちが、そろそろと巣穴から顔を出し始めている。私の脳裏に広がるロンドンの地図の上で、黒い染みがじわりと広がっていくのが見えた。それはまだ、政府の要人たちが眉をひそめるような規模ではない。だが、放置すればいずれ壊疽を起こし、この帝都の足元を腐らせていくだろう。弟が守ろうとしたこの街の、見えない部分が静かに蝕まれていくのを、私はただデータとして観測することしかできなかった。
*****
その夜、ホワイトチャペルの路地裏は、まるで巨大な獣の喉笛のように暗く、湿っていた。ガス灯の頼りない光は、濃い霧に飲み込まれ、数ヤード先までしか届かない。メアリー・アンは、擦り切れたショールの襟をきつく合わせ、凍えるような空気から身を守るようにして壁際を歩いていた。酒場で得た僅かな稼ぎを、固く握りしめる。背後で微かに聞こえる足音が、彼女の心臓を氷の指で鷲掴みにした。
振り返る勇気はない。この界隈では、好奇心は命取りになる。彼女はただ、足を速めた。濡れた石畳の上で、自身の靴音と、それについてくるもう一つの靴音が、不気味な二重奏を奏でる。それは獲物をいたぶる猫のように、一定の距離を保ったまま、執拗に後をつけてきていた。
角を曲がれば、自分の塒にしている安宿はすぐそこだ。あと少し。そう自分に言い聞かせた瞬間、背後の足音がふっと消えた。安堵と、それ以上の恐怖が入り混じった奇妙な感覚。メアリー・アンは思わず足を止め、ゆっくりと振り返った。
霧の向こうに、黒い人影が立っていた。シルクハットを被り、長いコートを纏った、背の高い男。顔は見えない。ただ、その手の中で、何か鈍い光を放つものがきらめいたように見えた。男は一歩、また一歩と、音もなく距離を詰めてくる。声にならない悲鳴が、彼女の喉の奥で凍りついた。それは恐怖というよりも、抗うことのできない運命を前にした、絶対的な諦念に近かった。
霧は、その夜ホワイトチャペルで起きたすべてを、その灰色のヴェールの下に隠した。ただ、翌朝、牛乳配達の少年が発見することになるおぞましい光景の、最初の目撃者となっただけだった。
*****
ディオゲネス・クラブの静寂は、時として墓場よりも深く、重い。私がいつもの椅子で目を閉じ、思考の海に深く潜っていた時、不意に気配を感じて目を開けた。給仕が、無言のまま一枚のカードを差し出している。そこには、乱暴な筆跡で一つの名前だけが記されていた。
『ウィギンズ』
私は小さくため息をついた。ベイカー街遊撃隊。弟が手足のように使っていた、ストリートチルドレンの情報網。そのリーダーであるウィギンズが、私に何の用だ。シャーロックの不在後、私は彼らの活動が立ち行かなくならぬよう、匿名でささやかな資金援助を続けていた。だが、直接接触してきたのは初めてのことだった。
クラブの規則では、部外者との面会は禁じられている。私は給仕に目顔で合図し、裏口から出る旨を伝えた。分厚いコートを羽織り、ペルメルの裏通りに出る。約束の場所は、セント・ジェームズ・パークの、人通りの少ないベンチだった。
霧の中に、小柄な人影が浮かび上がった。数年前に見た時よりも背が伸び、子供のそれではない、鋭い光を目に宿している。だが、私を前にしたその顔には、隠しようのない緊張が張り付いていた。
「……マイクロフト様」
「何の用だ、ウィギンズ君。君が私の前に姿を現すということは、よほどのことなのだろう」
私の声は、冬の空気のように冷たく響いた。彼はごくりと喉を鳴らし、懐からくしゃくしゃになった新聞の切り抜きを取り出した。三流ゴシップ紙の、扇情的な見出しが目に飛び込んでくる。
「イーストエンドで、噂になっていやす。切り裂きジャックが、帰ってきたんじゃねえかって」
「馬鹿げた噂だ。大衆は常に刺激的な物語を求める」
「ただの噂じゃねえ。俺の仲間が、昨日の晩、ホワイトチャペルで妙な男を見たって。上等な身なりの旦那が、女の後をつけてた。霧が深くて、そいつが誰かは分からなかった。けど、今朝になって、その女が死体で見つかったんでさ」
ウィギンズの声には、単なる噂話ではない、肌で感じた恐怖が滲んでいた。
「警察の仕事だ。我々が首を突っ込むことではない」
「旦那様がいねえ今、あそこの連中の話にまともに耳を貸すお巡りなんていやしねえ。みんな、ただの娼婦殺しだって、すぐに忘れちまう。でも、手口が……手口が、昔のジャックとそっくりなんだと。これは、何か違う。俺には分かるんでさ」
その言葉に、私はわずかに眉をひそめた。弟は、この少年の直感を高く評価していた。混沌とした街の底で生き抜いてきた彼らの嗅覚は、時としてスコットランドヤードの組織力よりも鋭く真実に迫ることがある。
「分かった。情報は受け取っておこう。だが、君たちは深入りするな。これは子供の遊びではない。分かったな」
「……へい」
不満そうな、しかし逆らえないという諦観を滲ませた返事を聞き、私は彼に背を向けた。切り裂きジャックの再来。おそらくは、過去の事件に触発された模倣犯だろう。だが、私の脳裏には、先ほど見た犯罪統計の数字が再び浮かび上がっていた。弟の不在が作り出した力の真空が、ついにロンドンの最も暗い場所で、新たな怪物を呼び覚ましてしまったというのか。
ディオゲネス・クラブに戻ると、先ほどまでの静寂が嘘のように乱れていた。数人のメンバーが、忌々しげな表情で入り口の方を見やっている。その視線の先で、クラブの厳格な執事が、必死の形相で一人の侵入者を押しとどめようとしていた。
「ですから、規則で……! 会話は一切禁じられております!」
「規則が人殺しを捕まえてくれるのか! いいから、マイクロフト・ホームズ氏に会わせろ! 緊急事態なんだ!」
その切羽詰まった声には聞き覚えがあった。スコットランドヤードのレストレード警部。彼の顔は蒼白で、額には汗が滲み、その目は血走っていた。彼は私を見つけると、執事を振り払い、ずかずかとこちらへ歩み寄ってきた。その足取りは、まるで溺れる者が藁を掴むかのようだった。
クラブのメンバーたちの非難がましい視線が、槍のように私に突き刺さる。私は重い溜息を一つ吐き、安楽椅子からゆっくりと立ち上がった。
11月のロンドンは、まるで使い古した雑巾のように冷たく湿っていた。ディオゲネス・クラブの窓ガラスを叩く霧雨の音だけが、この街にまだ脈があることを教えてくれる。レストレード警部が持ってきた話は、その雑巾から絞り出された最後の汚水のような代物だった。
そして私は、どうやらそれを飲まなければならないらしい。
私の静かな日々は、今、終わりを告げた。
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