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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第4章:乾いた同盟(3) ― 価値ある報酬 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 私の告白は、狙い通り、彼女という名のストラディヴァリウスの最も深く、そして最も共鳴しやすい弦を、力強く弾いたようだった。アイリーン・ノートンは、もはや芝居がかった退屈さを装うことすらしなかった。カルメンの仮面が剥がれ落ち、その下から現れたのは、怜悧な知性そのものだった。彼女の瞳は、まるでこれから始まる最高のスペクタクルの詳細を問いただす支配人のように、私を射抜いていた。部屋の空気が、彼女の放つ緊張感で密度を増していくのが分かった。


「つまり、こうですのね」


 彼女はゆっくりと、銀のシガレットケースを閉じた。カチリ、という硬質で乾いた音が、薔薇の甘い香りが充満する楽屋に不釣り合いに響き渡る。それは、交渉の第一幕の終わりと、本題の始まりを告げる冷たい合図のようだった。


「大英帝国の頭脳ともあろうお方が、まんまと一杯食わされた上に、国家ぐるみでその事実を隠蔽した。そして今、その醜聞が露見する前に、この私に尻拭いをしろ、と。…面白い。実に面白い冗談ですわ。あなたの弟さんなら、もっと気の利いたアプローチをなさるかと思ったけれど、あなたはずいぶんと単刀直入なのね」


 彼女はくすくすと喉を鳴らして笑ったが、その声に楽しげな響きは微塵もなかった。むしろ、獲物の喉元に牙を突き立てる寸前の、捕食者の満足げな唸りに近かった。その笑みは、私の弱点を正確に見抜いたという、絶対的な自信に裏打ちされていた。


「ですが、ホームズ卿。ゲームに参加するには、それ相応の賭け金が必要なものよ。あなたの賭け金は、その地に落ちかねない『名声』と、大英帝国の『体面』。どちらも、私にとっては大した価値のないものだけれど、あなたにとっては命よりも重いのでしょうね。では、私がこの安全な玉座から降りるリスクに見合う、あなたからの『報酬』は何ですの? まさか、私の愛国心に訴えるなどという、陳腐な手は使いませんわよね? 私はもう、誰かのために我が身を犠牲にするような、純粋な娘ではございませんのよ」


「君が金や宝石に興味がないことは知っている」

 私は、彼女の挑戦的な視線を正面から受け止めて答えた。「君は、すでにそれらを望むだけ手に入れている。だが、君が真に渇望しているのは、もっと別のものだ。形がなく、燃えることも盗まれることもない、それでいて魂を満たす何かだ」


 私は上着の内ポケットに手を入れ、一枚のカードを取り出した。それは、どこの国の紋章も、何の飾りもない、ただ象牙色の最高級紙に私の紋章だけが黒々とエンボス加工された、私個人の名刺だった。それを、彼女の目の前の、磨き上げられたマホガニーのテーブルに、滑らせる。それはまるで、ポーカーテーブルに最後の切り札が置かれたかのような、決定的な静寂を伴っていた。


 アイリーンの視線が、私の手からテーブルの上のカードへと、ゆっくりと移る。ガス灯の光が、カードに刻まれた紋章の凹凸にかすかな影を落としていた。


「私が提供するのは、『情報』だ。そして『力』だ」


 私の声は、静かだが部屋の隅々まで響き渡った。

「このロンドンの、いや、欧州中の権力者たちの寝室で交わされる囁きから、閣議で決定される前の最高機密まで。君が『知りたい』と望む、あらゆる真実を私の権限で提供しよう。君がかつて追い求めたゴシップとは次元が違う。世界を動かす歯車の、その設計図そのものだ。そして、万が一、君の身に何かが起きた時…たとえ相手が王侯貴族であろうと、このカードは君を守る絶対的な盾となる。大英帝国のインテリジェンスが、君の『保証人』となるということだ」


 それは、金銭には換算できない、究極の報酬だった。この腐敗と陰謀渦巻くロンドンで、彼女が手に入れた富や名声など、権力者の一存でいつでも奪われかねない砂上の楼閣に過ぎない。彼女自身、それを誰よりも理解しているはずだ。だが、私の約束は違う。それは、彼女という存在そのものに、国家という名の絶対的な裏付けを与えることを意味していた。


 アイリーンは、しばらく黙ってカードを見つめていた。その瞳の中で、激しい思考の火花が散っているのが見て取れた。やがて彼女は、まるで貴重な美術品を扱うかのように、そのカードを指先でつまみ上げた。そして、ふっと吐息を漏らすように笑った。それは、先ほどの冷たい笑いとは違う、心からの満足と興奮が入り混じった、真実の笑みだった。

「素晴らしいわ、ホームズ卿。真実ほど価値があり、力ほど魅力的な宝石はございませんものね。ええ、これなら私の魂も、少しは満たされるかもしれない」


 彼女はすっくと立ち上がると、部屋の隅で息を殺していた侍女に向かって、しかし私に聞かせるようにはっきりとした声で命じた。

「マリア、もう舞台衣装はたくさんよ。クローゼットから、一番動きやすくて、目立たない、それでいて上等な生地の外出着を持ってきてちょうだい。色は、夜の闇に溶けるような濃紺がいいわ。それから、先日仕立てたばかりの、あの黒い乗馬帽もね」


 プリマドンナ、アイリーン・ノートンが、その役を終えようとしていた。侍女が慌ただしく衣装部屋へ消えるのを横目に、彼女は私に向き直った。その顔にはもう、カルメンの情熱も、寵姫の傲慢さもなかった。ただ、極めて怜悧で、冷徹な分析者の光だけが宿っていた。


「では、始めましょうか。この退屈な街で、ようやく胸の躍るような新しい演目が始まりそうだわ」

 彼女はそう言うと、私が差し出したカードを、胸元のドレスの深い谷間へと、ゆっくりと滑り込ませた。肌に直接触れる、冷たい紙の感触を確かめるかのように。その仕草は、契約書への署名よりも、よほど確かな誓約に見えた。

 握手も、契約書もない。ただ、互いの瞳に映る冷徹な知性と、共有された危険な秘密だけを証人として、私たちの「乾いた同盟」は、静かに成立した。


「それで、最初の犠牲者は?」

 彼女は、まるで芝居の配役を尋ねるかのように、ごく自然に切り出した。その声には、死者への感傷など一片も含まれていなかった。


 私は、用意していた書類の束から、一枚の、お世辞にも鮮明とは言えない写真を抜き出し、彼女に手渡した。それは、事件現場で撮影された、濡れた石畳の上に横たわる哀れな女の姿だった。粗末なボンネットがずれ、虚ろな目が夜空を睨んでいる。


「メアリー・アン・ニコルズ。表向きは日雇いの洗濯婦。裏では…まあ、君の想像通りだ」


 アイリーンは、その陰鬱な写真を眉一つ動かさずに覗き込んだ。彼女は、無残な遺体の様子ではなく、その顔と、身に着けていた粗末な衣服の僅かな特徴、そして固く握られた手の形を、食い入るように見つめていた。数秒の沈黙の後、彼女は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。その瞳には、予期せぬ発見をした者の驚きと、パズルのピースがはまった瞬間の閃きが浮かんでいた。


「…この子、知っているわ」


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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