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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第4章:乾いた同盟(2) ― 退屈という名の病 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

「仕事?」

 アイリーンは、まるで子供が初めて聞く奇妙な単語を反芻するかのように、その言葉を繰り返した。彼女は面白そうに片眉を吊り上げると、化粧台の銀のシガレットケースから、細身の上等な紙巻煙草を一本、抜き取った。その指先は、舞台でカスタネットを打ち鳴らした時と同じ、しなやかさと正確さで動く。侍女がすかさず差し出したマッチの炎にそれを近づけ、深く吸い込むと、紫煙が細い筋となって彼女の赤い唇から吐き出された。その煙が、ガス灯の光の中で青白く揺らめき、ゆっくりと部屋の空気に溶けていく。その一連の仕草は、これから始まるであろう交渉の主導権を握るための、無言の儀式のようにも見えた。


「私がなぜ、あなたの“仕事”とやらに興味を抱くとお思いになって? ホームズ卿」

 彼女の声は、先ほどの皮肉を含んだ響きから一転し、甘く、しかしどこか相手を試すような響きを帯びていた。彼女は立ち上がり、カルメンの衣装である、赤いスカートの裾を軽く揺らしながら、部屋の中をゆっくりと歩き始める。その動きは、檻の中を歩く優雅な、しかし飢えた獣を彷彿とさせた。


「それに、あなたの依頼には聞き覚えがございますわ。ホワイトチャペルの忌まわしい殺人鬼…ですが、あの事件は、あなたが鮮やかに解決なさったのではなくて? 新聞はこぞって、大英帝国の頭脳の勝利を讃え、見事な幕引きだったと書き立てておりましたけれど。まるで…出来の良いオペラの筋書きのようでしたわね」


 彼女の言葉は、賞賛を装った、極めて鋭利な刃だった。彼女は「幕引き」という言葉を使い、事件の解決が、捜査の結果ではなく、政治的な演出であった可能性を的確に指摘してきたのだ。彼女は、公式発表の裏に隠された私の作為を、初めから見抜いていた。


「公式には、な」

 私は、苦々しさを隠しもせずに短く応じた。この女の前では、下手な取り繕いは無意味どころか、侮蔑の対象にしかならない。

「国家間の微妙なバランスを保つため、我々は『犯人』を必要とした。極東の島国から来た軍人を、切り裂きジャックとして裁くわけにはいかなかったのでな。それは、あまりにも厄介な外交問題を引き起こす」


 私の告白に、アイリーンの歩みが止まった。彼女の瞳の奥で、好奇心の光が驚きと、そしてそれを上回る歓喜の色に変わった。彼女は、私が自ら手の内を明かしたことに、最高の娯楽を見出しているのだ。


「そこで、我々は『物語』を用意した」と私は続けた。「元外科医で、無政府主義思想にかぶれた男。経歴も、動機も、解剖学の知識も、すべてが完璧に当てはまる『犯人』を仕立て上げた。彼は、我々が用意した脚本を雄弁に語り、世間は安堵し、政府は胸を撫で下ろした。私は大英帝国の平和という大義のために、一つの『真実』に蓋をし、より都合の良い『真実』を世に示したのだ」


 それは、私自身が行った、最も大規模で、そして最も危うい情報操作だった。私は自らの知性を、真実を暴くためではなく、隠蔽するために使った。その事実が、今も私の内側で、鉛のような重しとなっている。


「だが…その取引は、欺瞞だった」

 私は一呼吸置き、この交渉における最も不利な、しかし最も重要な事実を告げた。

「一週間前、全く同じ手口で、新たな犠牲者が出た。場所も同じ、ホワイトチャペルだ」


 部屋の空気が、再び凍りついた。

「ヤードの連中は、これを『最初の犯人に影響された、悪質な模倣犯』として処理したがっている。一度解決した事件を蒸し返し、自らの、そして私の『手柄』に泥を塗り、国民の不安を再び煽ることを恐れてな。だが、私は違うと確信している」


 私は一歩、彼女に近づいた。薔薇の香りに混じって、彼女の肌から発散される微かな熱と、上質な香水の匂いが鼻腔をくすぐる。

「手口は巧妙で、現場には計算され尽くした痕跡しか残されていない。これは、私が蓋をしたはずの真実が、より悪質な形で棺の隙間から溢れ出してきたということだ。私が逃した『本物』からの、この私個人に対する、冷たい嘲笑なのだよ」


 私の言葉は、もはや単なる依頼の説明ではなかった。それは、大英帝国のインテリジェンスの長である私自身の、致命的な失敗の告白だった。


「公式の捜査網は、もはや機能しない。なぜなら、彼らは私が作り上げた『嘘』という土台の上に立っているからだ。この事件を追うことは、政府の、そして私の欺瞞を暴くことに繋がる。光の中では、誰も動けん」

 私は、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「必要なのは、影の中を自在に動き、人の心の奥底に潜む嘘や秘密を、その声色や瞬き一つから暴き出せる人間だ。娼婦にも、貴婦人にも、自在になりすますことができる…あなたのような、ね」


 アイリーンはふっと、まるで自嘲するかのように笑みを漏らした。だが、その目には笑いの色は微塵もなかった。

「おだてても何も出ませんわよ、ホームズ卿。私はもう、そんな危険なゲームは卒業したのです」


 その言葉が、彼女自身が必死に守ろうとしている、脆い虚構であることは、私には痛いほど分かっていた。彼女の瞳の奥で、一瞬だけ揺らめいた光。それは、満ち足りた人間のそれではない。それは、あまりにも長く続いた安逸な日々に、その鋭敏すぎる知性が蝕まれつつあることへの焦燥。獲物を求めることを禁じられた肉食獣の苛立ち。そして何よりも、極度の退屈という名の、魂の病に苦しむ者の輝きだった。


 大英帝国の頭脳、マイクロフト・ホームズの失敗。国家ぐるみで隠蔽したはずの真実。そして、その欺瞞を嘲笑うかのように現れた、正体不明の殺人鬼。これ以上に、この女の魂を揺さぶる、魅惑的な「事件」があるだろうか。彼女は、この豪華な鳥籠の中で、ゆっくりと死につつある。そして今、その鳥籠の扉を開けるための、最高にスリリングな鍵が、私の手によって差し出されたのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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