第4章:乾いた同盟(1) ― 楽屋裏の対峙 ―
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晩秋。ロンドンの夜は、冷たい霧と石炭の煙が混じり合った、灰色の帳に支配されていた。コヴェント・ガーデンの石畳は湿った光を鈍く反射し、行き交う馬車の蹄鉄の音と、辻馬車の御者が客を呼び込む声だけが、濃密な静寂に時折、鋭い亀裂を入れる。その中心に、ロイヤル・オペラ・ハウスはまるで巨大な宝石箱のように鎮座していた。ガス灯の光を浴びて白く浮かび上がるコリント式の列柱は、この街の富と権威、そしてその内側で繰り広げられる絢爛たる虚構を象徴しているかのようだった。
私は、その虚構の殿堂の最上階に近いボックス席で、一人、舞台を見下ろしていた。ディオゲネス・クラブの沈黙に慣れた耳には、オーケストラの奏でる激しい旋律も、熱狂した聴衆のため息や感嘆の声も、ただの耳障りな雑音でしかない。私の興味は、音楽にも、ビゼーが描いた情熱的な物語にもなかった。私の視線はただ一点、今まさにドン・ホセの刃に倒れ、舞台の中央で息絶えようとしている女――カルメンを演じるプリマドンナに注がれていた。
私の怜悧な弟が、ただ一度だけ、その知謀において出し抜かれ、「あの女」と敬意を込めて呼ばわった唯一の存在。
彼女の死の演技は、圧巻だった。崩れ落ちる身体の軌跡、虚空を掴もうとして力なく垂れる指先、そして絶望と自由への渇望が入り混じった最後の視線。それは、芸術の域にまで高められた、完璧な嘘だった。やがて幕が下りると、劇場は割れんばかりの喝采と「ブラヴァ!」という賞賛の嵐に包まれた。人々は、この見事な虚構に心を奪われ、現実の憂さをしばし忘れる。だが、私の思考は、この華やかな世界の対極にある、別の現実へと向いていた。ホワイトチャペルの薄汚い路地裏で、虚構ではなく、本物の血を流して息絶えた女たちの姿だ。
このオペラハウスに渦巻く熱狂と、イースト・エンドに澱む絶望。二つの世界は同じロンドンの空の下にありながら、決して交わることはない。だが、今、その二つを繋がなくてはならない。この虚飾の舞台で喝采を浴びる女の「嘘」を見抜く能力こそが、裏町の「真実」を暴くための、唯一の鍵となり得るからだ。弟が不在の今、その役目を果たせるのは、彼女しかいなかった。
カーテンコールが繰り返される中、私は静かに席を立った。この茶番に付き合う時間は、もうない。政府という巨大な機械の歯車である私が、自らこの喧騒の渦中に足を運んだのだ。それは、事態がそれほどまでに深刻であり、そして、私がこれから動かそうとしている駒が、それほどまでに危険で扱いにくいということを示していた。弟が関わった女に、その兄が頭を下げに来る。運命とは、かくも皮肉な脚本を書くものらしい。
ビロードのカーテンが揺れるボックス席の出口を抜け、私は人々の流れに逆らうようにして、舞台裏へと続く薄暗い通路へと歩を進めた。光の世界から影の世界へ。空気が一変する。金箔と真紅で彩られた客席の甘美な雰囲気は消え失せ、埃と汗、油彩のドーラン、そして古い木材の匂いが混じり合った、生々しい空気が鼻をついた。舞台監督の怒声、衣装係の慌ただしい足音、巨大な舞台装置が軋む音。ここにあるのは、芸術という名の幻想を作り出すための、無慈悲なまでの機能性だけだ。私の好む世界に近い。
目指す楽屋の扉の前には、既に人だかりができていた。十年は優に盛りを過ぎたであろう肥満体の貴族、金融街で財を成したであろう成り上がりの実業家、そして次の選挙での地盤固めに彼女の名声を利用したいと目論む若い政治家。彼らは皆、高価な花束を抱え、女王への謁見を待つ臣下のように、どこか落ち着かない様子で扉が開くのを待っていた。彼らの目に映るアイリーン・ノートン・アドラーは、庇護すべき芸術家であり、手に入れたいトロフィーであり、利用すべき資産なのだろう。誰も、彼女の爪の鋭さには気づいていない。
数年前、彼女はヨーロッパを騒がせた「あの女」だった。ボヘミア王を相手に鮮やかな勝利を収め、我が弟シャーロック・ホームズを唯一出し抜いた女性。その後、彼女は愛する弁護士ゴドフリー・ノートンと結婚し、過去を捨ててアメリカ大陸へと渡ったはずだった。誰もが、彼女の物語はそこで幸福な結末を迎えたのだと思っていた。私自身も、そう聞かされていた。
だが、運命は彼女に安住を許さなかった。新大陸での新婚生活は、夫の不慮の事故死によって、あまりにも唐突に幕を閉じた。失意の中、彼女は「ノートン夫人」という穏やかな名を捨て、再び「歌姫アイリーン・ノートン・アドラー」としてヨーロッパの舞台へと舞い戻ったのだ。そして今や、ロンドンの社交界で最も喝采を浴びる歌姫として、その名を不動のものにしていた。
「素晴らしい舞台だった、ノートン夫人」
予告なく響いた重厚な声に、侍女の手が止まる。アイリーンは鏡越しに、楽屋の入口に佇む、山のように大きな男の姿を捉えた。ディオゲネス・クラブの主、大英帝国のインテリジェンスそのもの、マイクロフト・ホームズ。その人が、なぜここに。
「これはこれは、ホームズ卿。あなたのような方が、オペラなどという俗な娯楽にお時間を割かれるとは、驚きましたわ」
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がると、カルメンの衣装である、情熱的な赤いスカートの裾をさばき、優雅に一礼してみせた。その声には、上流階級の人間だけが使いこなせる、洗練された皮肉が込められていた。
「それとも、あなたのお目当ては、私の歌ではなく、この楽屋裏で交わされる醜聞の方でして?」
「君の歌も、そして君という存在そのものも、実に興味深い観察対象だ」
私は、彼女の挑発には乗らず、静かに答えた。「アメリカでの短い結婚生活を終え、あなたは再びこの霧深いロンドンに戻られた。そして、かつてのスキャンダラスな冒険家ではなく、誰もが称賛する芸術家としての地位を築き上げた。富も、名声も、望むがままに。…だが」
私は一歩、彼女に近づいた。薔薇の香りに混じって、彼女が放つ、警戒心という名の鋭い香りが鼻をつく。
「あなたのその瞳は、少しも満たされていない。まるで、豪華な鳥籠の中で、かつて大空を駆け巡ったスリルを忘れられずにいる、鷲のようだ」
私の言葉に、アイリーンの瞳の奥で、何かが鋭く閃いた。それは、核心を突かれた者だけが示す、一瞬の動揺だった。
「昔の話ですわ。それに、私はもう『ノートン夫人』ではございません。今の私は、ただの歌い手。危険なゲームは、とうの昔に卒業いたしましたの」
「そうかな?」
私は、彼女が弄ぶ扇の動きを注意深く見つめながら言った。「我が弟シャーロックは、最後まで君のことを『あの女』と呼んだ。彼にとって、君はただ一人、敗北を認めさせた、永遠の好敵手だった。その君が、喝采と薔薇の花束だけで、本当に満足できると? その類稀なる知性と度胸を、舞台の上で役を演じるためだけに使い、魂がすり減っていくのを感じてはいないか?」
楽屋の空気が、ピンと張り詰めた。侍女は、二人の間に流れる見えない火花に気圧され、息を殺して部屋の隅に控えている。
アイリーンは、ふっと息を吐くと、扇を閉じた。パチン、という乾いた音が、まるで勝負のゴングのように響き渡る。彼女の顔からは、先ほどまでの芝居がかった皮肉の色が消え、冷徹な分析者の光が宿っていた。
「…ご本題を伺いましょうか、ホームズ卿。あなたほどの多忙な方が、わざわざ私の楽屋まで足を運び、昔語りや感傷に浸るためだけに来たわけではないでしょう。あなたとあなたの弟さんは、いつもそうだわ。目的のためなら、人の心の最も柔らかな部分に、躊躇なく踏み込んでくる」
その通りだった。彼女は、私がこれから切り出すであろう「依頼」が、決して生易しいものではないことを、すでに正確に予見していた。
「仕事の話だ」
私は、懐から一枚の書類を取り出した。「君の『退屈』という名の病を、完治させるに足る、極上の仕事が一つある」
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