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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第3章:オペラ座の亡霊(5) ― 終幕のカーテンコール ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 王太子殿下をお迎えするコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラハウスは、今宵、その威容を最大限に誇示していた。何千ものクリスタルが光を乱反射させる巨大なシャンデリアの下、ロンドンの社交界そのものが一つの宝石箱に詰め込まれたかのような、目も眩むほどの華やぎと熱気に満ちている。空気は、高価な香水と、ビロードの座席が放つ独特の匂い、そして観客たちの期待に満ちた囁きで飽和していた。


 私は、王太子殿下の隣、フランス大使シャルル・デュポン伯爵の向かいという、この絢爛たる劇場の中心に位置するロイヤルボックスに腰を下ろしていた。劇場内に点在する、ジョーンズが配置した部下たちが、風景の一部となり、その存在を誰にも意識させることなく、全ての死角を監視している。


「ホームズ卿、今宵は君も一緒とは心強い。君がいると、どんな劇も一層興味深く感じられる」

 開演を待つ間、王太子殿下が気さくな笑みで私に話しかけられた。

「恐れ入ります、殿下。私も、殿下とご一緒できるこの夜を楽しみにしておりました」

「殿下、そしてホームズ卿」と、デュポン伯爵が会話に加わる。「フランスを代表し、今宵の公演が両国の友好を深める一助とならんことを願っております。特に、ダ・ポンテ嬢の歌声は、まさに国境を超える芸術ですな」

「ええ、伯爵」と私は応じた。「友好は何よりも『透明性』の上に成り立つものですからな。実に楽しみです」

 私の言葉に込められた微かな棘に、伯爵の完璧な笑みがほんの一瞬、揺らいだ。その時、指揮者のタクトが振り下ろされ、オーケストラが荘厳な序曲を奏で始めた。私たちの間の心理戦は、音楽の奔流の裏で、静かに幕を開けたのだ。


 舞台では、クリスティーナ・ダ・ポンテ嬢が、これまでのどの公演とも比較にならないほどの輝きを放っていた。

「素晴らしい…」王太子殿下が感嘆の息を漏らす。「恐怖を乗り越えた者の持つ強さか。実に気高いな」

 その歌声は、単に美しいだけではない。恐怖という名の鉛を溶かし、自らの魂を鍛え上げた者だけが持つ、鋼のような強さと、一点の曇りもない透明感を兼ね備えていた。彼女は、私が保証した「安全」という見えない盾を信じ、自らの芸術の全てを、今この瞬間に注ぎ込んでいる。


 そして、第一幕が壮大なクライマックスに差し掛かり、クリスティーナのアリアが最高音に達した、まさにその瞬間だった。


 観客席の真上に吊るされた巨大なシャンデリアが、悪意に満ちた、耳障りな軋み音を立て始めた。

「む…!」

 殿下が眉をひそめ、身を乗り出される。数人の貴婦人が甲高い悲鳴を上げ、オペラグラスが手から滑り落ちる音が響く。私は伯爵の横顔を見た。その唇の端に、待ち望んだ瞬間がついに訪れたことを確信した、歪んだ満足の笑みが浮かんでいる。あれが、彼の合図だ。


 次の瞬間、シャンデリアを吊るしていた太い鎖の一本が、轟音と共に断ち切られ、何トンものクリスタルと金属の塊が大きく傾いだ。観客席は一瞬で阿鼻叫喚の渦に叩き込まれる。しかし、破局は訪れない。シャンデリアは、事前にジョーンズが仕掛けておいた鋼鉄製ワイヤーによって、中空でぴたりと静止した。

「…大事に至らず何よりだ。しかし、一体何が…? ホームズ卿、これは…」

 安堵のため息をつかれた殿下が、説明を求めるように私に視線を向けられた。

「おそらくは、老朽化した設備の不具合かと。後ほど、劇場側に厳重な調査を命じさせます。ご心配には及びません、殿下」

 私は冷静に申し上げ、殿下の不安を鎮めた。その混乱の最中、天井桟敷の暗がりで、一つの人影が素早く身を翻すのが私の目に入った。『亡霊』の実行犯だ。しかし、その逃走経路は、既にジョーンズの描いた地図の上にあった。物陰から影のように現れた二人の男が、音もなく実行犯を取り押さえる。全ては、ほんの十数秒の出来事だった。


 観客の動揺がまだ収まらぬ中、私は隣で凍りついているデュポン伯爵に、プログラムを差し出すふりをしながら、劇場内の誰にも聞こえぬよう、囁くように告げた。

「残念でしたな、伯爵。どうやらあなたの書いた脚本は、少々手直しが必要だったようだ。クライマックスが、これでは盛り上がりに欠ける」


 伯爵の顔から、まるで血という血が全て抜き取られたかのように、色が消えていく。

「な、何のことですかな。私は、この恐ろしい事故に心を痛めて……」

「おや、ご存じない? あなたが買収した哀れな整備士が、今頃、私の部下たちに事の次第を洗いざらい話している頃合いですよ」

 私はプログラムの間に挟んでおいた一枚の紙片を、彼の震える膝の上に、木の葉を置くようにそっと滑らせた。それは、伯爵がフランス本国の反英勢力と交わした暗号電文の写し。クリスティーナ嬢が偶然耳にし、その命が狙われる原因となった、国家を揺るがす密約の、動かぬ証拠だ。

「ゲームセットです、伯爵。あなたの外交官としてのキャリアは、今、この瞬間、終わったのです」


 私は静かに立ち上がると、王太子殿下に一礼した。

「殿下、申し訳ございません。デュポン大使が急な体調不良を訴えられております。この騒ぎで、ひどく気分を害されたご様子。私が責任をもってお送りいたします」

 殿下は心配そうに蒼白な伯爵を一瞥された。

「そうか、それは気の毒に。大事ないことを祈ると伝えなさい。ホームズ卿、あとは頼んだぞ」

「はっ。では、これにて失礼いたします」

 伯爵は、私の部下に両脇を支えられ、まるで操り人形のように、誰にも気づかれることなく静かに劇場を後にした。


 全てが終わり、舞台では何事もなかったかのようにカーテンコールが始まっていた。万雷の拍手に応えるクリスティーナ嬢の姿をしばし見届けた後、私は誰にも告げずにその場を離れた。


 楽屋に通じる薄暗い廊下で、舞台衣装のままのクリスティーナが私を待っていた。

「ホームズ様」その声には、心からの安堵が満ちていた。「これで、もう『亡霊』に怯える夜は終わりました。本当に、何とお礼を申し上げたら……」

「礼を言う必要はありません。私は、英国の利益のために動いただけです。あなたの才能が、このような下劣な策略によって葬り去られることは、我が国にとっての損失ですから」

 私は、いつものように感情を排して答えた。「これからも、あなたの歌を人々のために。それだけで、私の仕事は報われる」

 彼女は深く一礼した。その瞳には、再び芸術家としての誇り高い光が力強く宿っていた。


 私は彼女に背を向け、夜のロンドンへと続く出口に向かった。一つのゲームが終わり、また次のゲームが始まる。私の仕事に、カーテンコールは存在しない。冷たい夜気が、舞台の熱気で火照った私の思考を静かに冷やしていく。大英帝国という巨大な船が、今夜もまた、見えざる嵐を一つ、乗り越えた。その事実だけが、私の魂に重く、そして確かな手応えとして残る、唯一の報酬だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

いかがでしたでしょうか? 面白いと感じていただけましたら、ぜひブックマークや評価【☆☆☆☆☆】で応援をお願いします!


【次回予告】

次回、「第4章:乾いた同盟」。いよいよ「あのひと」が登場予定です。

どうぞお楽しみに!

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