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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第3章:オペラ座の亡霊(4) ― 盤上の推理と静かなる駒 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ディオゲネス・クラブの私室は、いつものように完璧な静寂に支配されていた。暖炉の炎が音もなく揺らめき、壁一面の書架に並ぶ人類の知性の集積が、沈黙のうちに私を見下ろしている。私は一人、象牙と黒檀でできたチェス盤を前に、思考の海に深く沈んでいた。


 盤上のキングは、フランス大使、デュポン伯爵。その隣で、強大な力を持つがゆえに敵の標的ともなるクイーンは、歌姫クリスティーナ。そして、斜めに盤上を支配し、キングに王手をかけようと狙うビショップが、私自身だ。


 デュポン伯爵が『亡霊』を演じる脚本家である。そこまでは、ほぼ間違いない。彼の動揺、クリスティーナへの執着、そして彼女を舞台から降ろそうとする動機。ピースは揃っている。しかし、どうにも盤面がしっくりこない。駒の配置が、美しくないのだ。


 なぜ、彼はこれほどまでに粗雑で、芝居がかった手口を選ぶのか?

 一人の女性を独占したいのであれば、もっと洗練された方法があるはずだ。彼の財力と地位をもってすれば、彼女の契約を買い取り、パリの邸宅にでも囲うことは容易いだろう。脅迫状や舞台装置への細工といった、露見すればスキャンダルになりかねない危険な橋を渡る必要がどこにある?


 特に、王太子殿下が臨席される公演を前にして、だ。これは単なる個人の痴情のもつれで説明するには、リスクとリターンの均衡を著しく欠いている。彼の執着は、恋愛感情を装った、冷徹なリスク管理なのではないか。クリスティーナ嬢は、デュポン伯爵の公にできない活動――例えば、英国政府高官との密会や、非公式な諜報活動――を偶然、見聞きしてしまった。伯爵は、彼女がその情報を誰かに漏らすことを恐れている。だから、彼女を社会的に孤立させ、精神的に追い詰めて支配下に置こうとしているのだ。


 この仮説ならば、彼の行動原理に一本の筋が通る。


 そこまで思考が至った時、私はようやく、このゲームにおける自分の役割と、そして、現場で動かすべき駒の必要性を理解した。あの愚かで、しかし時に役立つ弟がいれば、この手の謎解きを喜んで引き受けたことだろう。だが、彼は今頃、大陸のどこかで放浪の旅を続けている。当てにはできない。


 ならば、私が持つ、より信頼でき、そして「制御可能」な駒を使うまでだ。

 私は静かにベルを鳴らし、入室したボーイに一枚のカードを渡した。そこにはただ一言、「ジョーンズを、今すぐここに」とだけ記されている。


 十分と経たず、私室の扉が音もなく開かれ、一人の男が入ってきた。

 彼の名は、ジョーンズ。それ以上でも、それ以下でもない。歳の頃は四十前後。平凡なツイードのジャケットに、何の変哲もないトラウザーズ。その容貌は、驚くほどに特徴がなかった。一度会っただけでは、翌日にはもう思い出せないだろう。ロンドンの雑踏に紛れれば、水に溶けるインクのように姿を消してしまうに違いない。彼は、意図的に「記憶されない」ことを極めた男だった。


 しかし、私の目は、その完璧に構築された平凡さの奥にある、無数の特異点を捉えていた。

 彼の靴はよく磨かれているが、その爪先の擦れ方は、屋根の瓦や石壁の突起を頻繁に利用する者のそれだ。ジャケットの袖口は僅かに硬く、これは銃油が染みた布で何度も拭った痕跡だろう。そして何より、彼の瞳。その灰色の瞳は、感情というものを一切映さず、ただそこにあるものを情報として処理するためだけに存在する、磨き上げられたレンズのようだった。彼は、私の影であり、私の手足。大英帝国という巨大な機械を円滑に動かすため、その内部に巣食う病巣を静かに、そして正確に切除する、名もなき外科医なのだ。


「お呼びにより、参上いたしました」

 ジョーンズは、部屋の空気を少しも揺らさずに言った。その声には抑揚がなく、まるで機械が紙に文字を印字するかのように、事実だけを伝えてくる。


 私はチェス盤から目を離さぬまま、口を開いた。

「オペラハウスの亡霊騒ぎは聞いているな」

「概要は」

「黒幕はフランス大使、シャルル・デュポン伯爵。動機はプリマドンナ、クリスティーナ・ダ・ポンテ嬢への執着を装った、口封じの可能性が高い。彼女が、伯爵の何らかの秘密を握っていると見るべきだ」


 私は盤上のビショップを一つ進め、キングの逃げ道を塞ぐ。

「君に三つの任務を与える。第一に、デュポン伯爵の周辺を洗え。特に、クリスティーナ嬢と親しくなって以降の、非公式な金の流れと接触人物を全てだ。第二に、オペラハウスの物理的な構造を完全に把握しろ。『亡霊』が使い得る全ての抜け道、隠し部屋、奈落の構造を地図に落とすのだ。そして第三に、王太子殿下が臨席される公演当日、『亡霊』を捕獲する作戦を立案し、準備を整えよ」


 私の言葉に、ジョーンズは微動だにしない。彼の静寂は、無関心ではなく、与えられた情報を寸分の狂いもなく記憶し、処理している証拠だった。

「亡霊は、必ず現れると?」

「ああ、現れる。クリスティーナ嬢が舞台に立ち続ける限り、伯爵は彼女を黙らせるための『悲劇』を演出しなければならないからな。我々は、その舞台で主役を奪うだけだ」


「承知いたしました」

 ジョーンズは短く答えると、音もなく一礼し、まるで最初からそこにいなかったかのように部屋から退出していった。


 一人残された部屋で、私は再び盤上を見つめる。ジョーンズという信頼できるポーンを得て、私の戦略は最終段階へと移行する。

「さて、デュポン伯爵。君が書いた陳腐な脚本は、私が書き換えてやろう。結末は、君が望むものとは少し違うものになるがね」

 暖炉の炎が、私の顔に静かな影を落としていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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