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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第3章:オペラ座の亡霊(3) ― 仮面の外交官 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 翌日の昼下がり、私はハイドパークの南、ナイツブリッジに壮麗な姿で佇むフランス大使館の門をくぐった。私の乗る馬車が砂利を踏む音が、やけに大きく響く。ロココ調の優美な建物は、それ自体が一つの芸術品のようであったが、その白亜の壁はどこか冷ややかに、英国政府からの訪問者を迎え入れているように感じられた。


 シャルル・デュポン伯爵との面会は、表向きは「王太子殿下をお迎えする特別公演の警備に関する、仏英両政府間の最終確認」という名目だ。しかし、私の真の目的は、この芝居がかった事件の脚本家と目される男の、その仮面に隠された素顔を暴くことにあった。


 通された応接室は、壁一面に高価な絵画が飾られ、ルイ15世様式の家具が寸分の狂いもなく配置されている。部屋全体が、主の完璧主義と洗練された趣味を雄弁に物語っていた。やがて、音もなく扉が開き、デュポン伯爵その人が姿を現した。


 歳の頃は五十代半ばだろうか。銀髪を綺麗に撫でつけ、よく手入れされた口髭をたくわえている。その物腰は洗練の極みにあり、外交官というよりは、むしろ高名な芸術評論家といった風情だ。

「ようこそ、ホーム-ズ卿。あなたのような大英帝国の『頭脳』と、こうしてお会いできるとは光栄ですな」

 伯爵は流暢な英語で、しかしフランス語特有のアクセントを隠さずに言った。その瞳は、値踏みするような鋭い光を湛えている。


「光栄は、こちらこそ。伯爵。王太子殿下と、そしてフランスを代表するお客様であるあなたをお迎えするにあたり、万全を期すのが私の務めですので」

 当たり障りのない挨拶を交わし、我々はソファに腰を下ろした。テーブルには、最高級のダージリンが用意されている。


 警備に関する形式的な打ち合わせが数分で終わると、私はカップを置き、本題へと切り込んだ。

「ところで伯爵、最近オペラハウスで、少々厄介な噂が流れているのをご存知ですかな?」


「噂、ですか?」伯爵は小首を傾げ、興味深そうに眉を上げた。「芸術家たちの想像力は、時に舞台の上だけに留まりませんからな。何か面白い話でも?」


「面白い、と片付けるには、少々物騒な話でして。『オペラ座の亡霊』が、プリマドンナに脅迫状を送りつけている、と」

 私は、伯爵の目を真っ直ぐに見据えた。彼の瞳が一瞬、ほんのわずかに揺らいだのを、私は見逃さなかった。


「ほう、それは初耳ですな。痛ましいことです。クリスティーナ嬢は、類稀なる才能の持ち主。そのような下劣な嫌がらせに、心を痛めていることでしょう」

 彼は驚きを装い、心から同情しているかのような表情を作った。見事な演技だ。だが、その声には、隠しきれない満足の色が滲んでいた。


「ええ。彼女はひどく怯えている。引退さえ考えている、と」

 私は、さらに言葉を続けた。

「才能ある若き芸術家が、心ない者の嫉妬によってその道を閉ざされるのは、社会にとって大きな損失です。特に、あなたのような偉大な後援者パトロンにとっては、さぞご心痛のことでしょう」


「後援者」という言葉を、私は意図的に強調した。私の言葉は、もはや単なる事実の確認ではない。それは、彼の聖域に踏み込むための、宣戦布告に他ならなかった。


 伯爵の表情から、笑みが消えた。

「ホームズ卿。あなたは、私が彼女の後援者であることをご存知の上で、何をおっしゃりたいのか」

「偉大な才能というものは、時に、それを愛する者を深く悩ませるものです。独占したい、という抗いがたい欲求に駆られることもある。しかし、その才能が世界に開かれることを望む声もまた、大きい」


 私の言葉は、彼の個人的な感情と、大使という公的な立場との間に、鋭い楔を打ち込んだ。クリスティーナを独占したいという彼の欲望は、フランス大使として、英仏友好の象徴たる公演の成功を願う立場と、明らかに矛盾している。


「…卿のおっしゃる意味が、よく理解できませんな」

 伯爵は、手に持ったティーカップをソーサーに戻した。その指先が、ほんのわずかに震えている。彼の完璧な仮面に、初めて亀裂が入った瞬間だった。


「ご理解いただく必要はありません。ただ、一つだけ。王太子殿下の御前で、万が一にも『亡霊』による『悲劇』が起きた場合、それは単なる劇場の醜聞では済みません。フランス政府の威信に関わる外交問題へと発展する可能性も、考慮に入れねばなりますまい」


 それは、恫喝だった。大英帝国の名を背負った、静かな、しかし絶対的な恫喝だ。


 デュポン伯爵は、しばらく黙って私を見つめていたが、やがて、ふっと息を吐いて再び余裕の笑みを浮かべた。

「ご忠告、感謝いたします、ホームズ卿。ですが、ご心配には及びません。芸術の女神は、必ずや我々に微笑むでしょう」


 面会は、そこで終わった。

 大使館を後にする馬車の中で、私は目を閉じ、思考を巡らせていた。デュポン伯爵が『亡霊』の黒幕であることは、もはや疑いようがない。彼の動揺が、何よりの証拠だ。目的は、クリスティーナを恐怖で舞台から降ろし、自分の金糸雀として籠の中に囲うこと。


 だが、腑に落ちない。それだけの、陳腐な独占欲のために、これほどのリスクを冒すだろうか? フランスの外交官が、自国の威信を損ないかねない危険な賭けに出るだろうか?


 いや、違う。彼の仮面の下には、単なる嫉妬よりも、さらに深く、暗い動機が隠されているに違いない。この事件は、痴情のもつれという安直な脚本では終わらない。


 私の脳裏に、クリスティーナの怯えた瞳と、伯爵の冷たい瞳が交錯する。二つの瞳の間に横たわる真実を、私は白日の下に晒さねばならない。王太子が臨席する、その日まで。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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