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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第3章:オペラ座の亡霊(2) ― 舞台裏の囁きと歌姫の涙 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 最終幕のカーテンコールが終わり、割れんばかりの拍手が潮のように引いていくと、ロイヤル・オペラ・ハウスは再び静寂に包まれ始めた。しかしそれは、私の知るディオゲネス・クラブの静寂とは異質のものだった。観客の熱狂の残滓と、これから始まる裏方の喧騒の予兆が混じり合った、どこか落ち着かない沈黙だ。


「こちらへ、ホームズ卿」


 サリヴァン卿の先導で、私はボックス席から、一般客が決して足を踏み入れることのない領域へと歩を進めた。重厚な扉の向こうは、表舞台の絢爛豪華さとはまるで別世界だった。巨大な書き割りや舞台装置が迷路のように立ち並び、天井からは無数のロープや滑車が、まるで巨大な蜘蛛の巣のように垂れ下がっている。空気は埃と汗、そして油の匂いが混じり合い、薄暗いガス灯の光が、行き交うスタッフたちの疲れた顔に長い影を落としていた。


「『亡霊』が最初に目撃されたのは、あの奈落の近くです」


 サリヴァン卿が指し示したのは、舞台床にぽっかりと口を開けた、闇へと続く階段だった。『ファウスト』でメフィストフェレスが登場する際に使われる昇降装置がそこにある。


「深夜、巡回の警備員が、そこから黒いマントの男が姿を消すのを見たと。もちろん、私は見間違いだと一蹴しましたが、それからなのです。小道具が消え始めたのは」

 彼はため息をつき、舞台袖に積まれた小道具の山を指した。「先日は、ファウストが悪魔と契約を交わすための羊皮紙の巻物が、本番直前に忽然と姿を消しました。幸い、予備があったので事なきを得ましたが…」


 私は奈落の縁に立ち、その暗がりを覗き込んだ。複雑な機械と、どこまでも続くかのような闇。侵入し、身を隠す場所には事欠かない。

「スタッフたちの間で、噂はどのように広がっているのですか?」

「口にするのも馬鹿馬鹿しいのですが…『オペラ座の怪人』の仕業だと。かつてこの劇場の建設に関わり、地下に住み着いたとされる伝説の男です。クリスティーナ嬢に執着し、彼女を自分のものにしようとしているのだ、と」


 陳腐な怪談話だ。だが、集団心理というものは、時に非論理的な物語を強固な真実へと変えてしまう。私は、その物語を裏で操る脚本家の存在を確信していた。


 しばらく舞台裏を検分した後、我々はプリマドンナの楽屋が並ぶ長い廊下へと向かった。その一番奥、ひときわ立派な扉に掲げられた真鍮のプレートには、『クリスティーナ・ダ・ポンテ』と優美な書体で刻まれている。サリヴァン卿がためらいがちに扉をノックすると、中から「どうぞ」という、少し疲れた声が聞こえた。


 楽屋の中は、パトロンたちから贈られたであろう無数の花で埋め尽くされていた。薔薇や百合の甘い香りがむせ返るほどに立ち込めている。舞台の上の華やかなマルグリートとは対照的に、そこにいたクリスティーナは、シンプルなシルクのガウンを羽織った、一人の傷つきやすい若い女性にしか見えなかった。化粧を落としたその顔は青白く、大きな瞳には拭い去れない恐怖の色が浮かんでいる。


「クリスティーナ、こちらがマイクロフト・ホームズ卿だ。我々の…問題を解決するために力を貸してくださる」

 サリヴァン卿の紹介を受け、私は軽く一礼した。

「ホームズと申します、ダ・ポンテ嬢。あなたの素晴らしい歌声は、ロンドンの宝です。その宝が、何者かによって脅かされている事態を、政府は看過できません」


 私の言葉に、彼女の瞳がわずかに潤んだ。

「ホームズ卿…では、信じてくださるのですか? あの…『亡霊』の存在を」

「私は、あなたが恐怖を感じているという『事実』を信じます。それだけで十分です」


 私はサリヴァン卿に目配せして席を外させ、彼女と二人きりになった。部屋の空気が、少しだけ和らいだ気がした。

「『亡霊』は、あなたに何かを要求しているのですか?」

 クリスティーナは震える手で、化粧台の引き出しから一枚の便箋を取り出した。そこには、切り抜いた活字を貼り合わせた、脅迫的な文面が記されていた。


『舞台を去れ さもなくば真紅の悲劇がお前を待つ』


「最初は…私の『音楽の天使』だと思っておりました。壁の向こうから聞こえる、素晴らしい歌の指導…でも、いつからか、それは要求に変わったのです。私に、舞台を降りろと…」

 彼女の声は、囁き声に近くなっていた。


「指導、ですか。それは、フランス大使のデュポン伯爵のことではないのですか? 彼はあなたの熱心な後援者であり、音楽にも造詣が深いと聞いていますが」

 私の問いに、クリスティーナの表情が凍りついた。部屋を埋め尽くす花の甘い香りが、突如として不快なものに感じられる。

「伯爵は…私の偉大な後援者です。彼の支援がなければ、今の私はありません。けれど…」

 彼女は言葉を切り、唇を噛んだ。その仕草が、全てを物語っていた。デュポン伯爵の支援は、今や彼女を縛る金の鎖と化しているのだ。彼の執拗な求愛、楽屋への頻繁な訪問、そしておそらくは、彼女のキャリアさえもコントロールしようとする独占欲。


「伯爵は、あなたが舞台に立つことを、快く思っていない、と?」

「…彼は、私が歌うのは、彼一人のためであるべきだとお考えです」


 これで、盤面は明確になった。

 私はクリスティーナに、身の安全は必ず保証すると約束し、楽屋を辞した。


 一人、オペラハウスの静まり返った廊下を歩きながら、私は思考を整理する。

『亡霊』の目的は、クリスティーナを引退させること。デュポン伯爵は、彼女を独占したいと願っている。ならば、答えは一つ。『亡霊』の正体は、デュポン伯爵、あるいは彼が雇った人間だ。彼はクリスティーナを恐怖で支配し、歌手としてのキャリアを諦めさせ、完全に自分の庇護下に置こうとしている。動機は、嫉妬と独占欲。実に人間的で、そして実に陳腐な筋書きだ。


 だが、本当にそれだけだろうか。フランスの外交官が、一人の歌手のために、王太子が臨席する公演を妨害するリスクを冒すだろうか? その陳腐な筋書きの裏に、もっと大きな、国家間の思惑が隠されている可能性はないか?


 私の思考は、次のターゲットを捉えていた。フランス大使、シャルル・デュポン伯爵。この芝居がかった事件の脚本家と目される男。彼と直接対峙し、その仮面を剥がさねばなるまい。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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