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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第2章:女王陛下の不興(5) ― 遊戯の終わりと不在の影 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 翌朝、長く続いた秋雨がようやく小康状態を見せ、ディオゲネス・クラブの私の部屋には、鉛色の雲の隙間からこぼれる、弱々しい光が差し込んでいた。暖炉の火だけが、まるでこの場の緊張を映すかのように、音もなく赤々と燃えている。


 この静寂の聖域は、珍しく複数の人間で満たされていた。外務省の極東課長、陸軍情報部のグレイ大佐、そして私の正面のアームチェアには、昨夜の死闘で負った傷の手当てをされ、清潔なシャツに着替えた加藤武明大尉が、ウィギンズの部下である屈強な男二人に両脇を固められて座っていた。彼の目は、もはや抵抗の光を失い、ただ静かに床のペルシャ絨毯の複雑な模様の一点を見つめている。


 部屋の中央、マホガニーのテーブルには、あの小さな木箱が置かれていた。中から取り出された羊皮紙の巻物はすでに解読され、その翻訳文が私の手元にある。日露間の秘密交渉。これが世に出れば、大英帝国のアジア政策は根底から覆る。女王陛下のご懸念は、まさにこの一点にあった。


「さて、加藤大尉」


 私が静かに口を開くと、彼の肩がかすかに震えた。


「君は殺人犯ではない。それは昨夜の墓地で証明された。ホワイトチャペルで起きた一連の殺人は、君の動きに便乗し、この覚書を横取りしようとした、別の者の仕業だ」


 私の言葉に、加藤は驚いたように顔を上げた。グレイ大佐も意外そうな表情で私を見る。


「では、あの殺人の犯人は…?」と加藤が問う。


「君が始末した、あの辻馬車の男。そしてその背後にいる、真の黒幕だ。レストレード警部は、やがて波止場で発見されるであろう彼らの死体を『犯人グループの仲間割れ』として処理し、この事件は迷宮入りとなるだろう。真実は、闇に葬られる」


 私は続けた。

「君の処遇だが、女王陛下は寛大なご判断を下された。君は、丁重に本国へ送還される。ただし、この覚書は我々が『保護』する。君が祖国でこの一件について何かを語れば、それは大英帝国に対する敵対行為とみなされることを、ゆめ忘れるな」


 それは、勝者のみが示しうる「慈悲」の形をした、冷徹な脅迫だった。加藤はゆっくりと目を伏せ、深く頭を下げた。


「…御配慮、感謝いたします」


 絞り出すような声だった。敗北した兵士にとって、名誉を汚されずに祖国へ帰ること以上の情けはない。彼は、英国の「情報力」と「政治力」をその身に刻み込まれた、生きた警告として帰国するのだ。


「グレイ大佐」と私は隣に座る情報部の男に目を向けた。「この覚書をどう利用するかは、お任せする。私の仕事は、ここまでだ」


「感謝する、ホームズ卿。実に見事な手腕だった」


 グレイ大佐は満足げに頷くと、部下に目配せして覚書を厳重な革のケースに収めさせた。やがて、加藤と政府の役人たちが足音も静かに部屋から退出していく。重厚な扉が閉まる音が、一つの幕引きを告げるかのように、室内に低く響き渡った。


「しかし、ホームズ卿」グレイ大佐が、声を潜めて言った。「まだ終わってはいませんな。あの覚書を狙っていた、もう一人の人物がおります」


「クレイトン公爵、ですかな」


 私の返答に、大佐はこくりと頷いた。

「公爵は王家の血筋。迂闊には手が出せん。今回の件も、公爵の名が表に出ることは決してない。我々もこれ以上の追及は…」


「結構。それは政府の論理だ。私の関心事ではない」


 私は冷ややかに遮った。グレイ大佐は気まずげに咳払いをすると、一礼して部屋を辞した。


 再び、私一人だけの静寂が戻った。


 私は暖炉の前に立ち、揺らめく炎を見つめた。加藤という駒は盤上から去った。だが、私の心に空虚感はなかった。むしろ、より大きく、より厄介な駒が、盤の中央に居座っていることを再認識し、静かな興奮が沸き起こっていた。クレイトン公爵。彼はなぜ、一貴族でありながら、国家間の密約を狙ったのか。彼の目的は、単なる国益の毀損ではない。もっと深く、暗い野望があるはずだ。


 もし、弟がロンドンにいたならば。

 彼は国家の体面など歯牙にもかけず、公爵の罪を暴くため、その巨大な城に正面から乗り込んでいくのだろう。だが、私には私のやり方がある。国家という巨大な機械の歯車を、内部から静かに、だが確実に動かし、敵を追い詰める。


 遊戯は終わったのではない。序章が終わり、本編が始まったのだ。


 私は椅子に深く身を沈め、目を閉じた。

 クレイトン公爵という、女王陛下ですら手を焼く「キング」。その駒を、いかにしてチェックメイトに追い込むか。私の思考は、すでに次なるゲームの第一手を探し始めていた。


 ロンドンの空は、相変わらず厚い雲に覆われている。

 だが、その雲の向こう側で蠢く巨大な影の存在が、私の退屈な日常に、危険な光を投げかけていることだけは確かだった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

いかがでしたでしょうか? 面白いと感じていただけましたら、ぜひブックマークや評価【☆☆☆☆☆】で応援をお願いします!


【次回予告】

次回、「第3章:オペラ座の亡霊」。

どうぞお楽しみに!

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