プロローグ:灰色の芝居、不在の王座(1)
はじめまして、作者の双瞳猫と申します!
「小説家になろう」での初投稿、とても緊張しています。
シャーロック・ホームズの物語が大好きで、特にいつも裏で暗躍(?)しているお兄さんのマイクロフトが気になって仕方がありませんでした。
「この人、本当はもっとすごい事件を解決してるんじゃないか?」
そんな妄想が高じて、ついに自分で物語を書いてみることにしました。
本作『マイクロフト』は、そんな私の「if」を詰め込んだ物語です。
文章など拙い部分もあるかと思いますが、作品への愛だけはたくさん込めました。
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それでは、マイクロフト・ホームズの静かなる戦いをお楽しみください。
1892年、6月のロンドンは、まるで未亡人の涙のように陰気な雨に濡れていた。ディオゲネス・クラブの分厚い窓ガラスを、気の滅入るような雨音が単調に叩いている。外の世界で起きているどんな騒動も、このペルメルに佇む石造りの要塞には届かない。沈黙こそが、このクラブの唯一にして絶対のルールだった。私はその沈黙にどっぷりと浸かり、革張りの安楽椅子に巨体を深く沈めていた。ここが私の観測所であり、避難壕であり、そして墓場によく似た仕事場だった。
手にした『ストランド・マガジン』のページは、インクの匂いと湿気でわずかに波打っている。ジョン・H・ワトソン医師が寄稿した追悼記事。タイトルは『最後の事件』。簡潔で、芝居がかっていて、いかにも彼らしい。私は灰色の瞳を細め、その感傷的な文字列をなぞった。
――シャーロック・ホームズ。私が知る限り、最も優秀で、最も賢明な人間。
ワトソンの文章は、上等なブランデーのように人の心を温める。誠実で、飾り気がなく、読んだ者の胸に英雄の姿を焼き付ける力があった。だが、私にとってはただの麻酔だ。痛みを忘れさせるが、傷を治しはしない。この記事がロンドンの話題をさらってから、もう数週間が経つ。人々は天才探偵の劇的な死を嘆き、その好敵手であったモリアーティ教授という悪の巨魁の消滅に安堵した。見事な幕切れだ。大衆が望む通りの、勧善懲悪の物語。
馬鹿馬鹿しい。
私は雑誌を閉じ、サイドテーブルに無造作に放った。ライヘンバッハの滝壺。ヨーロッパを股にかけた犯罪組織の首領との死闘の果て、二人とも激流に呑まれて消えた、か。ワトソンは己が見たままを正直に書いたのだろう。あの男の誠実さに疑いはない。だが、盤上の駒でしかない者が、対局者の真意を測れるはずもなかった。
弟、シャーロックは生きている。
それは、この地球上で私だけが知る事実だった。モリアーティは単なる犯罪者ではない。彼は大英帝国の血管に巣食う癌細胞そのものだった。そのネットワークは警察や政府の深部にまで及び、その触手は大陸の裏社会すべてを絡め取っていた。奴を滝壺に引きずり込むだけでは、この病巣は切除できない。残った転移巣が、いずれ再び帝国を蝕むだろう。だからシャーロックは、自らの「死」を偽装する必要があった。英雄の墓碑銘を隠れ蓑に、残党という名の癌細胞を一つずつ、誰にも知られず切除していくために。
壮大で、孤独で、いかにも奴らしい馬鹿げた計画だ。
私の役割は、その舞台装置を維持すること。スイスの銀行に匿名で開設した口座へ定期的に送金し、彼が「シゲールソン」と名乗るノルウェー人探検家としてチベットの奥地へ向かうための偽の身分証を手配し、ヨーロッパ各地に潜む協力者との連絡網を確保する。英国政府という巨大な機械の歯車を回す傍ら、私はもう一つの、遥かに個人的で厄介な歯車を回し続けていた。弟という名の、あまりに精巧で、あまりに壊れやすいクロノメーターのために。
椅子から重い腰を上げた。分厚いツイードの服が、私の巨大な体躯の上で窮屈そうに軋む。運動は好まない。事件は好まない。人間は、もっと好まない。それが私の信条のはずだった。だが、これから私が向かうのは、人間の感傷と混沌が渦巻く、ロンドンで最も厄介な場所の一つだった。
クラブの重厚な扉を押し開けると、湿った空気が肺腑に流れ込んできた。辻馬車を拾い、御者に短く行き先を告げる。「ベーカー街221B」。
馬車の窓から見えるロンドンは、灰色の水彩画のようだった。煤けた煉瓦の壁、濡れた石畳を叩く馬の蹄の音、傘の海を縫って行き交う無数の人々。弟が愛し、守ろうとしたこの街。彼の目には、この雑踏の一つ一つの顔に、解き明かすべき物語が見えていたのだろう。だが、今の私の目には、ただの統計データで処理されるべき群衆と、雨に煙る灰色の石の集合体にしか映らなかった。シャーロックという強烈な光源が消えた今、この街は本来のくすんだ色を取り戻したに過ぎない。
やがて馬車は、見慣れた通りの一角で止まった。ベーカー街221B。下宿屋の平凡なファサードが、まるで旧友の遺影のように静かに私を見つめている。ノッカーを握る指が、一瞬、ためらわれた。私がここに来ることは、あの茶番劇の筋書きをわずかに乱す。だが、確かめておくべきことがあった。王が不在となった城が、どうなっているのかを。
重いノックの音に応えてドアを開けたのは、案の定、マーサ・ハドスン夫人だった。黒いドレスに身を包んだ彼女の顔には、気丈さと、隠しきれない疲労が刻まれている。その瞳が私を捉えたとき、深い悲しみの中に、わずかな警戒心がよぎるのを私は見逃さなかった。無理もない。私は彼女にとって、あの風変わりで厄介な下宿人の、さらに輪をかけて風変わりで近寄りがたい兄でしかないのだから。
「ごきげんよう、ハドスン夫人。変わりはないかな」
私の口から出たのは、帳簿を確認する会計士のような、乾いた声だった。
「……マイクロフト様。ようこそおいでくださいました。ええ、私は……私は、大丈夫でございます。ただ、この家はすっかり静かになってしまいまして」
彼女の震える声が、この家に漂う空虚を物語っていた。家賃の支払いは、私が代理人を通して滞りなく手配してある。だが、金で埋まらない穴というものは、この世にいくらでも存在する。金は、不在の人間を連れ戻してはくれない。
「少し、弟の部屋を見ても?」
「ええ、もちろんですとも。あの子が……あの方が、いつひょっこり帰ってきてもいいように、何一つ変えずにそのままにしてありますから」
その言葉が、小さなガラスの破片のように私の胸を刺した。彼女はまだ、信じている。ワトソン医師が書いた悲劇の結末の、その先に在るはずのない奇跡を。
軋む階段を一段ずつ上る。この音も、弟の足音を記憶しているのだろうか。2階の奥、あの部屋のドアノブに手をかける。冷たい真鍮の感触。ドアを開けると、懐かしい混沌が、まるで主の帰りを待っていた忠犬のように私を迎えた。
鼻をつく、酸っぱい薬品の匂いと、上等なバージニア葉の香り。暖炉のマントルピースには、相変わらずジャックナイフで手紙が無造作に突き立てられている。部屋の隅には、解決済み、あるいは未解決の事件に関する新聞の切り抜きや書類が、地層のように積み重なっていた。ペルシャスリッパにぎっしりと詰め込まれたパイプタバコ。床には、持ち主の荒々しい情熱を物語るかのように、いくつもの擦り傷がついたヴァイオリンケースが転がっている。
すべてが、あの男の不在を雄弁に物語っていた。この部屋は、天才の脳味噌をそのままひっくり返してぶちまけたような場所だった。一見、無秩序の極み。だが、その混沌の奥には、シャーロック・ホームズという男だけの法則と秩序が、確固として存在していた。私がディオゲネス・クラブの静寂の中で思考の宮殿を構築するように、奴はこの薄汚れた部屋の混沌の中から、真実という名の細く、しかし強靭な糸をたぐり寄せていたのだ。
私は部屋の中をゆっくりと歩いた。指先で、埃の積もった化学実験用のフラスコをそっとなぞる。弟の思考の残骸。それは、私にとって理解し難い異国の言語で書かれた、世界で最も刺激的な書物にも似ていた。
私は国家という巨大な船の設計図を描き、その航路を定める。それが私の仕事だ。一方、シャーロックは、その船底に巣食うネズミを狩り、船体に空いた小さな穴を見つけて塞ぐ役割を担っていた。どちらが偉いという話ではない。役割が違う。それだけのことだ。
だが、その俊敏で獰猛な猫は、もういない。
窓辺に立ち、外を見下ろした。雨はいつしか小降りになり、灰色の雲の切れ間から、気まぐれな陽光がベーカー街の濡れた石畳を照らし始めている。傘を閉じた人々が、何事もなかったかのように行き交う。彼らは知らない。自分たちの平凡な日常を守っていた風変わりな探偵が、今この瞬間も、世界のどこか遠い場所で、文明社会の見えない敵とたった独りで戦い続けていることを。そして、彼の不在によって空いた穴を、埋める者が誰もいないという事実を。
ワトソン医師は、その誠実なペンで弟を伝説の英雄に仕立て上げた。結構なことだ。だが、英雄が舞台から去った後、その舞台装置を片付け、観客が気づかぬうちに壊された背景を修繕するのは、一体誰の仕事になる?
答えは、分かりきっていた。
私は静かに部屋を出た。階下で、ハドスン夫人に事務的な言葉で別れを告げ、再びロンドンの灰色の霧の中へと戻っていく。背後で閉ざされた221Bのドアの重い音が、これから始まる長い不在の時間の、不吉な序曲のようにいつまでも耳の奥で響いていた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
作者の双瞳猫です。
『マイクロフト』第1話、いかがでしたでしょうか。
静かなクラブの一室から、巨大な事件の駒を動かす彼の姿を、少しでも魅力的に描けていれば幸いです。
どうぞ、引き続きお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。




