紺碧の狂犬
ここはスラム街。どんな街かと言うと、地獄だ。
日常的に盗みや暴力事件が起こり、毎日のように負傷者や死人が出ている。
街の隅では死体を集めておく死体専用の置き場所があるくらいで、そこは凄まじい死臭で包まれていた。
しかし慣れとは恐ろしいもので、最近は子供たちの遊び場になることが多くなっていた。
変な匂いはするが、大人が少なくて子供の数もあまりない。そんな場所は子供たちにとって非常に都合の良い場所だった。
今日も、そこで子供が集まっている。
「二人とも、あまり遠くに行っちゃだめだよ」
子供ながら、落ち着いた声。その持ち主は幼いマーレイだった。今より少し短い青髪を揺らして、弟たちに注意を呼びかけている。
「はーい!」
それに元気な声で答えたのは幼いサーレイ。右手をマーレイに大きく振って、左手には幼いハーレンの手を握っていた。
「は、はーい……!」
ハーレンも続けて答える。サーレイと反して消えてしまいそうな小さい声。それでもマーレイに届くように、精一杯声を張っていた。
マーレイは近くのドラム缶に腰掛けて、服のほつれを直しはじめる。彼女の視界の端では愛しい弟二人が仲良さそうに遊び回っていた。
「見てハーレン!なんか面白いやつ見つけた!」
サーレイはハーレンに駆け寄る。サーレイは何かを握るように両手を合わせている。
しかしハーレンは思わず後ずさりをした。なぜなら彼の手の中から何かが蠢くような音がする上に、指の間から細長いものが見え隠れしている。
ハーレンの顔が真っ青になる。無邪気に手を出すサーレイに反して、ハーレンは震える体でマーレイに助けを求めて彼女の方を見る。
マーレイはハーレンの異変に気づき、呆れたようにため息をついて二人の方へ歩いていった。
「どうしたのハーレン?顔が真っ青よ」
「あ、あう……姉ちゃん……」
ハーレンはサーレイの手の中を力なく指差した後、さっとマーレイの背中に隠れた。当時のハーレンは小柄だったため、少女であるマーレイの背中にもすっぽり入った。
「姉ちゃんも見る!?ほらこれ!」
自信満々にサーレイが合わせていた手を解く。
その瞬間、幾千もの虫がサーレイの手や腕を伝って地面に落ちる。
「っ……!」
「ぁ―――!?」
声にならない悲鳴が体の中で響く。
マーレイとハーレンは同時にサーレイから距離を取った。だがサーレイはしょんぼりとした顔でこちらを見つめるため、虫がある程度いなくなった後にまたサーレイに近づいた。
サーレイはまだ手を開いたままだ。その手の中に、気になるものがあった。
紫色の、宝石。
それは禍々しい光を放ち、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。
「綺麗じゃない?」
サーレイは嬉々とした顔で二人を見る。マーレイの心臓がドクンと跳ねる。心臓の音が耳を劈く。マーレイは心の隅で嫌な予感がしたが、この予感が外れているように願った。
宝石を見つめるサーレイの目が、赤色ではなく紫色に見えるのは、気の所為だろう。そう思わないと、マーレイはどうすることもできない。
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あの日から、数年が経った。三人はその時もバイトや盗みを繰り返して細々と生きていた。良い生活ではないが、それでも幸せだった。
しかし、サーレイの様子がおかしくなった。きっとあの宝石を拾った日を境に。サーレイは今でもその宝石を大切に保管している。
どんな風におかしくなったのかは、一言で言えば人間味がなくなった。
躊躇なく虫を踏み潰したり、前は罪悪感であまりできないと言っていたはずの窃盗ができるようになったり、前は正義感が非常に強かったはずが今は泣く子供に小さく舌打ちをするようになった。
「に、兄ちゃん、大丈夫……?」
ハーレンがサーレイの裾を軽く掴んで尋ねる。サーレイはいつもと変わらない笑顔を浮かべてハーレンの頭を撫でた。
「んー?どうしたのハーレン?」
サーレイの目は赤色。あの紫ではない。
しかしこちらを見るサーレイが、ハーレンには怖く写った。いつも通りの優しい兄の姿のはずなのに、サーレイがサーレイじゃなくなるような感じがした。
ハーレンの背筋が冷え、そして伸びた。
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「おい!あいつらだ!」
聞き慣れた怒号に耳を塞ぎながら路地を駆け回る。暗い路地に二つの青い髪が揺れた。
「こんな簡単に盗めるんだから、対策したらいいのに」
「あはは、そんな脳あいつらにないんだよ」
ハーレンがそうぼやくと、サーレイは重なるようにしてそう言った。
二人は今日の食料を手に入れるため、色々な屋台からパンやら果物やらワインやらを盗んでいた。
もう常習犯で店主にも顔が覚えられている。しかし二人があまりにも慣れた手つきなので捕まえることができないでいた。
「姉さん、元気かな」
走りながらハーレンはそう呟く。
二人が食料調達をしている間、マーレイは臨時で作られた学校に通っている。学校といっても、地面に座って教科書を広げて授業をする簡易的なものだ。
マーレイがその授業の様子を見て目を輝かせていたのを弟たちが見逃すわけがない。渋るマーレイを押して授業に参加させたのはいい思い出だ。
「姉ちゃんは勉強していい生活送って貰うの。汚いことは僕らでしなくちゃ」
そう言うサーレイの顔は真っ直ぐで明るい。いくら人間味がなくなったといえど、家族への愛情はなくなっていなかった。
ハーレンは何も言わずに頷いた。
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そんなことを毎日続けているものだから、スラム内でもサーレイとハーレンの名が知られるようになっていった。
犯罪を繰り返す、不良兄弟。二人のほかにも盗みをする子供は何人もいたが、二人は頭飛び出て手癖が悪かった。
最近は食料の他に他人の衣服やアクセサリーなんかも盗みの対象になっていた。衣服はそのまま着て、アクセサリーは商人に売り払ってなんとか生計をたてている。
そうしてついに、二人の前に友達はいなくなった。
もしあいつらに関わったら身ぐるみ剥がされる。と恐れられて近づく人はいない。
二人は、一人であった。しかし、孤独ではなかった。
「兄さん、二人でいれば怖くない……よね?」
ハーレンはサーレイの服の裾を掴んで不安そうにサーレイを見あげる。
「……」
サーレイは何も言わなかった。ハーレンの方を見ずに、ただ前だけを見ている。
「に、兄さん……?」
ハーレンが目にしたのは、紫色の瞳の兄の姿だった。
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ある日のスラム街。サーレイとハーレンは最近盗みに出過ぎたため休憩がてら公の場にでないでいた。二人が動けないので今日の食料担当はマーレイ。
二人が世間話をして暇をつぶしていると、マーレイが歩いてくるのが見えた。
「ただいま二人とも。今日はご馳走だよ!」
マーレイが腕いっぱいにパンを抱えて帰ってきた。陽の光に照らされた袋からは、香ばしい匂いが漂い、蒸気がほのかに立ち上っている。
彼女は嬉しそうに笑っていた。足取りは軽く、目尻には柔らかな皺。
するとサーレイは真剣な面持ちでマーレイを見た。
マーレイの顔が笑顔から真顔になり、パンの袋を掲げていた手がゆっくりと下がる。
「……何?」
そう言うマーレイの声は冷たかった。
サーレイは怖気づいた様子はない。ただ淡々と、言葉を並べる。
「ラルヴィ聖騎士団に行きたいんだ」
その場だけ、凍ったように寒かった。寒い時期ではない、夜でもないのにだ。
「だめ。今サーレイがいなくなったら、誰がハーレンを見るの?」
マーレイは必死に感情を押し殺していたが、声が震えていた。
このスラムで、弟たちと生きることを選んできた。その選択を裏切るようなサーレイの言葉に、胸がざわつく。
この言葉は姉としての義務だった。
「……」
サーレイは何も言わない。
「……なんとかいいなさい!」
マーレイは初めて弟に手を上げた。バチンと乾いた音がゴミの山でこだまする。
それでも、サーレイの口は開かない。マーレイは怒りや焦り、そして寂しさを含んだ声でサーレイに怒号を浴びせる。
「……ふざけないでよ!」
「誰がここまでの状況を作ったと思ってるの!?私がどれだけ犠牲にしてきたか、あんたなら知ってるでしょう!?ハーレンを置いて、自分だけ“正義”を選ぶの!?騎士団に行って、何がしたいの!?誰のために戦うの!?私たちは……家族は、もうその中に入らないの!?」
もうマーレイは自分を見失っていた。持っていたパンの袋が地面に落ちて、パンは新品だったのに汚れてしまった。
ボロボロと涙をこぼして、サーレイの胸ぐらを掴む。
「……僕は、弱い。弱いから強くならないといけない」
サーレイは落ちたパンを拾いあげて笑みを浮かべる。その笑顔は家族が愛した、優しい笑顔だった。
「大丈夫だよ姉ちゃん。家族を守れるような男になって、戻ってくるから」
そう言い放ち、力が抜けていたマーレイの手を優しく外してその手にパンを置き、この場を去った。
「っ……!待ちなさい!」
マーレイは追いかけようと足を踏み出そうとする。しかしバランスを崩して汚い地面に膝をついた。
ハーレンは体を動かすこともできなかった。彼の愛したなんてことのない日常が、音をたてて崩れ落ちた。
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2年後、また日常が壊れる音がした。
サーレイが去ったあと、マーレイは持ち前のカリスマ性でスラムの頂点となった。
今の彼女に人情なんてものはない。それを捨てないと、スラムでは生きていけない。
だから拷問や暴行、窃盗にも躊躇がなくなり、やがて周りからは“スラムの女王”と飛ばれ恐れられていた。
そんな姉の姿を、ハーレンは一番近くで見ていた。
ハーレンもスラムの一員なのだから、治安の悪い行動もよくしていた。もちろん罪悪感なんてなかった。ハーレンはスラムのどこかで自分が“スラムの番犬”なんて呼ばれているのを耳にしたことがある。その名前の由来は、”女王“に付き従っているからだろう。
それでも、ハーレンの中でサーレイのことが引っかかる。
兄は正義を求め、外に出た。自分は、このままで良いのだろうか。姉に縋って姉の後をついて行くだけで良いのだろうか。
どうやら、姉に対しての罪悪感は残っていたようだ。サーレイのように真っ直ぐ伝えても反対されるのは分かっていた。
だから、マーレイの知らない時間にこっそりスラムを出ることにした。
最後に、マーレイへの置き手紙を残していこう。
……もう、この廃れた景色をみることもなくなるだろう。
ハーレンはこの景色を目に焼き付け、地上へと続く長い階段を上がっていった。
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ハーレンが去った次の日、マーレイはハーレンの手紙を握り潰した。
拝啓、愛する姉へ。
まずは、勝手な行動をしたことを許してください。私は、貴女のやり方に賛同できない。だから止める義務が私にはありました。だけど私も弱かったようです。また貴女の怒号を聞くくらいなら、逃げてしまいたかった。私も騎士団に行って強くなります。時が来たら、また話し合いましょう。もちろん兄も一緒に。私は、貴女の弟で幸せでした。愛しています。
ハーレン
マーレイは、怒り狂うことはなかった。ただ、静かに涙を流して小さく呟いた。
「ハーレン、貴方も私を置いていくのね……」
この声は、スラムの蒸気音にかき消された。
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騎士団で再会した兄は、もはや別人だった。
あの明るい兄はどこにいってしまったのだろうか。目の前で『サーレイ』と名乗る人物は口を一直線に繋いでこちらを見つめていた。
俺が騎士団に来た時には、入隊試験があった。試験と言っても、ただ模擬戦を行って成績の高い順に合格するというシンプルなものだ。
それの試験官が、兄貴だった。これは団長が仕組んだのか分からないが、多分意図的な配置だ。
「試験を、始めます」
聞いたことのない声色だった。聞き慣れた声よりだいぶ低く、酷く無機質で、恐怖を煽られる。
兄貴の持つ剣が、俺に向けられる。野外で行っているため、太陽の光が剣に反射して眩しい。ただその光は、絶望を知らせる合図のように思えた。
模擬戦の制限時間は3分。短いように聞こえるが、当事者にとっては自分より格上の攻撃を避け続けなければならない。
俺はできるだろうか。もし試験が不合格だったら、城下町で野垂れ死ぬか、スラムに戻って姉に殺されるかのどちらかだ。
兄貴がこちらに走ってくる。その時俺は幼い時の記憶を思い出してしまった。兄貴は今のと同じように、俺に向かって駆け寄ってきた。懐かしい。あの時は虫を持ってて、姉貴と一緒にビビったっけ。
そして、兄貴がおかしくなったのもその日からだったな。
俺が騎士団に来た目的の一つに、兄貴を連れ戻すというのがある。最優先なのは強くなることだが、姉貴と話す機会を作りたい。そのために兄貴が必要なのだ。
剣の刃が俺の目の前まで来た時、ある声でピタッと止まった。
「あっごめん!その子は特別に合格だよー!」
明るくてひょうきんな声。日々血が飛び交う騎士団に似合わない。
小走りでこちらに走ってくる人物には、見覚えがあった。訓練場に来る途中、廊下に肖像画が飾ってあった。
名前は確か、ラルヴィ・ロビン。ラルヴィ聖騎士団の設立者であり、現団長だ。
「いやーせっかくの再会を邪魔してごめんね?」
ラルヴィは笑顔で俺の腕をブンブンと振って握手をした。
「団長、そうなら早く言ってくださいよ」
そう言うのは冷静な女性の声。
「プラエ!」
プラエ・グランド。団長補佐で試験の総監督だ。
「ハーレンくんね。貴方はこちらにいらっしゃい」
そうプラエに言われて俺はその場を後にした。
横目でみる兄貴の顔が、見れなかった。兄貴を怖いなんて感じたのは初めてだ。
姉貴、ごめん。兄貴とは帰れないかもしれない。
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ああ、痛いな。苦しいな。
背中に剣が深く刺さって地面に赤い水たまりを作る。
ここには誰もいない。助けを呼ぶこともできない。フィラデルフィアから遠く離れた郊外で、僕は一人で死のうとしている。
しくじったなぁ。人形を一体逃しちゃった。
僕は最期までどこにも、何も貢献できなかった。大口叩いてスラムを出て騎士団に入れたはいいものの、結局下っ端止まりだった。
やっと弟と再会できたと思ったら何故か体が言う事を聞いてくれなくて、冷たい態度をとってしまった。
まるで、人形になって操られているような感覚に襲われたんだ。
踏んだり蹴ったりだ。姉にも、弟にも合わせる顔がない。いっそのこと、ここで死んでしまったほうが楽なのかもしれない。
そういえば、昔天界は存在するという絵本を読んだ気がする。姉さんに読み聞かせて貰ったっけ。ああ、優しい声だったな。
タイトルは……そうそう『星を食べた鳩』だった。餓死寸前の鳩が、星をお腹いっぱい食べる夢を見て、天界に旅立つ話。
僕はその絵本が大好きだった。僕もお腹いっぱい、星を食べてみたかったな。
死んだら、天界に行きたいな。そして姉さんやハーレンが寿命で死ぬまで見守るんだ。
もう視界がぼやけていく。そろそろ、僕は死ぬんだ。でも、最期に思い出すのが良い記憶で良かったな。
「少し、逝くのは待ってくれないか」
低くて、落ち着いた声。痛みで顔が上げられないが、声の主の靴をみる限り貧乏な身分ではないことは確かだ。
「君には素質がある。どうか私の実験に協力してはくれないだろうか」
声の主は僕に手を差し伸べた。大きくて、まるで父のような手。まあ、父との記憶なんてほぼないのだけれど。
「……死にたく、ない」
これは心からの叫びだった。先程は天界やら何やらと言っていたが、やはり死ぬのは怖い。可能なら、もっと生きていたい。家族の隣に立てるような人になりたい。
声の主の手を取ると、体の痛みが消え去った。体が戻るどころか、元気が湧いてくるほどだ。
「ありがとう。私はオフィリア・エルフィード。よろしく頼む」
オフィリアと名乗る人物は緑色の翼を生やして頭に光輪を浮かべ、瞳には星が煌めいていた。
天使のような見た目。一瞬、天界に来てしまったのではと錯覚した。
彼が、僕の英雄だった。
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その日、スラムは今までで一番荒れていた。
銃声は鳴りやまない。悲鳴も絶えず聞こえる。
「サー……レイ……」
スラムの女王は、ある封筒を持っていた。
白い、無機質な封筒。
その封筒の中には、サーレイの死が記された紙が入っていた。
風もないのに、紙が揺れる。いや、揺れていたのは彼女自身だった。
目を通すたびに、「死」の文字だけが強調されて浮かび上がる。
内容は冷静で、事務的だった。サーレイの最期の言葉も、目撃者の名も、何一つそこにはなかった。
「……あの時、止めてたら何か変わったかな」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
その場に立ち尽くす彼女の周囲では、銃声がまだ鳴っていた。
ずっと自分の手の中にいた“家族”が、またひとついなくなった。
涙はもう出なかった。もう乾いてしまった。
握りしめた白い紙が、ぐしゃぐしゃに潰れる。
その時だった。背後から誰かが声をかけてきた。
「……姐さん、敵、こっちに来てます。指示を」
振り返る。仲間のはずのその男が、ほんのわずかに目を逸らす。
ああ、情けないところを見られた。
彼の言葉で、マーレイの中の何かが静かに切り替わる。
「……下がらせて。皆、一度後退。再編して、こちらから逆襲する」
命令を発した瞬間、背筋が伸びる。目にはいつもの冷たい光が宿る。
“スラムの女王”が、戻ってきた。
だが胸の奥では、砕けた紙片がまだ刺さっている。
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マーレイは、そっとポケットに紙を押し込んだ。
捨てられなかった。たとえ何度見ても、何も返ってこなくても。
「……サーレイ。どうせ戻らないなら、せめて誰のために死んだかくらい教えてくれたらよかったのに」
そう呟いて、マーレイは背を向けた。
銃声の鳴る方向へと、歩き出す。
その足取りに、迷いはない。
ただ、背中がひどく、孤独だった。
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ある日、俺の元に封筒が届いた。白く、無機質な封筒。
封筒に入っていた紙に書かれていたのは一行のみ。
サーレイ、戦死。
これだけだった。俺は騎士団に怒りさえ覚えた。騎士団の仲間が死んだんだぞ?戦力が減ったんだぞ?何故そんなに無感情でいられる?
俺は知らないうちに紙を握っていたようだ。紙の端がクシャクシャになっていたが、文字のところは皺一つない。それほど紙には余白があった。
これから、俺はどうしたらいい?姉貴にどんな顔して会えばいい?
俺は、何を原動力にして生きていけばいいんだ?
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―――きっと、姉貴も同じ選択をしただろう。自分の気持ちを押し殺して、なんてことのない顔で日常に戻る。
「ハーレンせんぱぁい、どうせ暇でしょ?買ってきてほしいのがあるんだよねー」
ライルの気の抜けた声が俺を現実に戻す。
「だから先輩には敬語を使えって……はぁ」
目の前にいるのは後輩のライル。名の知られた商人貴族の出身のくせに、貴族らしい言動は一切しない。まあ、そっちの方が気が楽だから構わないが。
「この街のー……これこれ!ここのお肉食べたい!」
ライルが地図を指さす。そこは小さな街で、ハーレンも何度か買い出しに行ったことのある場所だった。たしかにここの食べ物は絶品だ。
「分かった分かった。優しい先輩に感謝しろよ」
時間ができたらここで買い食いでもしよう。自分へのご褒美だ。
ライルに見送られて俺は買い出しに出かけた。
今思えば、このライルの頼みが転機だったのかもしれない。これがなかったら、彼と出会わなかったのかもしれない。
まるで太陽のような明るい金髪に、包み込むような緑の瞳。
のちに英雄になる彼は、呑気に肉を食べていた。