第3話 なんとなく
翌朝。
私は憂鬱な気持ちのまま、学校に向かった。
正直、仮病で休もうかとも思った。
なんとなく──一人になりたかった。
彼女たちは、依然、姿を現してくれない。
──その日は、家庭科の授業があった。調理実習だ。
みんな白いエプロン姿で一緒の格好なのが、少しだけ嬉しくて、小さく笑った。
やっと同じ居場所にいる気がした。
カチャカチャと、机の下にある棚から、調理器具を取り出していると、ふと影が差して。
見上げると、真っ先に目に付いたのは笑顔だった。
「小波さん、一緒の班だね」
そう声をかけてくれたのは、昨日トイレで会ったクラスメイトだった。
高柳好美。あの後、名前も覚えてないなんて言われたくなくて、ちゃんと覚えた。……まだ、ちゃんと話せる気はしない。
「あ、え、と、その……、……よろしく、……ぃ……ます」
緊張で声が上手く出せなくて、尻すぼみに小さくなる。
「小波さん固すぎ、そんなんじゃ怪我しちゃうよー?」
「あ、えへ……」
冗談ぽく笑う高柳さんに合わせて無理に笑おうとして、愛想笑いだ。似合わないことはよくわかってた。
「高柳、そのボウルこっちにちょうだい」
「あ、オッケー」
名前を呼ばれて、髪を翻した高柳さん。すごくキレイな亜麻色の髪が光に映えて、眩しい。思わず目を細めていた。
高柳さんはクラスの中心的な人物で、誰とでも分け隔てなく話せる、いい人だ。
高柳さんはその後、班のメンバーと楽しそうに話していた。
その輪の中に、私はいない。
怖くはないはずなのに──ふと、肩身が狭く感じてしまった。
調理実習で、私は包丁担当だった。具材を切って、それを鍋に入れて。
ぼんやり、考え事をしていて。
小説のこと。エリスやビビットのこと。
眠ってるみたいに、何も伝わってこない。
いつもなら、ほら、危ないわよ、なんて言ってくれる気がしたのに──。
「っ!」
それでつい、指を切ってしまった。まずい。
誰にも見られないように、すぐにそばの水道で手を洗うけど、痛くって、痛くって……血が止まらない。
赤がそのシンクを濡らすたび、怖くなって、涙が溢れそうになった。
「ん? ……ちょ! 小波さん!? 大丈夫!?」
私の不自然な様子にすぐ気付いたのは、高柳さんだった。
「あ、は、はい……だいじょう、」
「え、いや全然よくないって! ぱっくりいってるじゃん!」
クラスじゅうの視線が、私たちに集まった。
実習室に広がるざわめき。心配そうに覗き込む顔。
ひゅって声が出て、息が詰まりそうだった。
なにやってるんだろう。
私一人、ぼーっとして。
みんなにも迷惑かけて。
──あぁ。
痛かったのは、指だけじゃない。
私の心も、悲鳴をあげてるんだ。
「保健室、行くよ!」
「だ、大丈夫です、私、一人で行けま……」
「いいからっ! 先生、あたし、小波さんに付き添ってきます!」
そう宣言して、高柳さんは私を連れて、保健室まで一緒に行ってくれた。
「……はい、これで、とりあえずオッケーかな」
「ありがとうございます……」
「いいって。とりあえず、先生戻ってくるまで、安静にしててよ、まだ応急処置だし」
保健室の中は、窓から照る光でほんのり明るかった。
窓際のベッドに案内されて、私はそのまま座る。
保健室の先生は何やら急用で外に出ていたみたいで、高柳さんと二人きりだった。
「……最近元気ないよね。何かあった?」
高柳さんは、私の隣に座って、そう優しく言った。声が柔らかかった。
ドキリとした。思わず顔を伏せてしまう。その時見た自分の指を触る。
絆創膏の上に、包帯までしてくれた指が、固い。
「そう、見えますか……?」
顔が見れなくて、俯いたまま聞いた。高柳さんは気にした風もなく、笑っていた。
「そりゃあ。だって小波さん、ここんとこずっとスマホの画面じぃっと見て、なんかちょっと嬉しそうに笑ってたのに。……今、あんまり笑ってないから」
……なんか恥ずかしい。見られてたんだ……。
「……別に、無理に話さなくてもいいよ。でもさ……」
高柳さんは、ぽつりと続けた。
「小波さん、楽しそうにしてる時の顔の方が、ずっとかわいいからさ」
その言葉が、胸の奥にすうっと入り込んできた。
包帯に巻かれた指が、じんわりと熱を持っていた。
「か、かわいい、なんて……」
「意外とあたし、人を見る目はあるから。……それに」
「暗い顔してる人、あたし苦手だから。どうにかして、笑ってほしくなるの」
顔を見上げると、高柳さんの眼差しが、まるで私の奥を見透かすように真剣だった。少し、顔が熱くなる。
私は、私のことでいっぱいなのに、高柳さんは、周りのことをよく見ていて。
私なんかのことでも、ずっと気にしてくれていたんだ。
「……っていうのは、ちょっと口実も混じってるかなー」
「……口実?」
「なんていうか、小波さんの周りって、空気が違うっていうか。近寄り難いって言うんじゃなくて、なんだろ、世界が違う……みたいな? ……上手く言えないけどさ」
なんだろう、それ。詩的で、ちょっとよくわからなくて。
でも、それを言った高柳さんの目はまっすぐだったから、嘘じゃないんだって思えた。
「……あの、……ありがとうございます」
ちゃんと伝えたくて、ぎこちないけど言葉にする。
高柳さんはちょっと照れくさそうに笑って、
「ん? どういたしまして」
と、軽く肩をすくめた。
その笑顔が、思いのほか柔らかくて。
なんだか、包帯越しに伝わってくる手のぬくもりみたいで。
私は、密かに胸を押さえていた。
──その後、「じゃあ、お大事にね」と別れを惜しむように見つめる高柳さんの顔が、私の目蓋に焼き付いて。
引き止めなきゃ、いけない気がして──。
でも、何て言えばいいのか、わからなかった。
それでも、言わなきゃ。今を逃したら、きっと後悔する──。
「……あっ、あのっ!」
なんとなく。
高柳さんになら。言える気がしたから。
だからつい、言葉が走った。
「私……小説、書いててっ!」