わすれもの
リリは明日、嫁に行く。
リリの住む小さな村の向こう。少し大きな町の、更にその向こう。丘の上にある領主様のご子息である次期様。その、従者にだ。
貴族である領主様の右腕を代々務めるおうちの息子で。つまり、次代の領主様の側近。爵位がないとはいえ本来であればリリなんてお目にかかるのも難しいような階級の方だ。
そんな雲の上…とは言わないまでも遠くに見える丘の上の大きな木の上あたりの人にリリが見初められたのは本当に偶然。
リリが15歳の時。領主様とご子息が各村の視察に回っていたところ、数日の雨でぬかるんでいた道に馬車の車輪がはまっていてしまったのを見つけたリリが村の男衆を呼びに行った。
ただ、それだけのことだった。それ以来、エルネストと名乗ったその人は何かと理由をつけて村に来るようになった。
ある時は今年の収穫の見込みを確かめに。
ある時は村の用水路の水車の様子を見に。
そのたびにリリに声をかけてくれるエルネストを、リリは不思議に思ったものだ。次期様の側近なのにそんなことまでするなんて、大変ね?と。
あれから3年。リリもついに18歳、めでたく成人した。
この領では男も女も成人すると1度だけ領主館にお呼ばれする。1年に1度の成人の夜会…というほど豪奢ではないが、ちょっとした立食パーティーに呼んでいただけるのだ。
そこでは各村や町から来た若者たちが出会いや、職、人脈を得たりする。リリも当然お呼ばれし、ほんの少しだけ素敵な出会いがないかしら?なんて期待を持ったりはしていた。
5年前に村長の娘さんが隣町の大きな商家の息子さんに見初められたのもこの成人パーティーだったのだ。
リリは彼女ほどの美人ではないが、村では可愛いで通っている。なので当然パーティーでもそれなりに声を掛けられたがピンと来ず、適当にお茶を濁してやり過ごした。
面倒な相手は一緒に来ていた同い年の幼馴染トマスがあの手この手で退けてくれた。
そうしてしばらく経ったころ、サプライズで次期様が現れた。後ろには従者服のエルネストが控えている。
赤味がかった金の髪に艶のある緑の瞳。涼やかな目元の次期様は年頃の少女たちの憧れで、ほぼ全ての視線を奪ってしまった。リリと一部の少女を除いて。
黄色い声が上がる中、お腹も膨れてきたしもう帰ろう?とトマスに声を掛けようとしたところ、次期様に何かを耳打ちをしたエルネストがこちらへやって来た。
「こんにちは、リリ。成人おめでとう。その装い、とても似合っているね」
とても綺麗だと目を細めるエルネストに「ありがとうございます」と頭を下げる。何となく周りの視線が痛い気がしてリリは落ち着かなかった。
「トマスも、おめでとう。背が高いからやっぱりそういう服は見栄えがするね」
エルネストが上から下までトマスを眺めて嬉しそうに目を細めた。リリとトマスの今日の装いはエルネストからのお祝いに贈られたものだった。申し訳なくもありがたいことに。
トマスは背が高い。エルネストよりも頭1つくらい、リリよりも頭2つ弱くらい高い。
いつもはよれっとした首元の開いたシャツにだぼっとしたズボンで鍬やら斧やらを担いでいるぼさぼさ頭のトマスも、今日ばかりは綺麗なシャツの首元までしっかりとボタンを締めている。
細めのリボンタイを小さなブローチで留め、細身のスラックスを履いている足は結構長い。少し日に焼けた黒の髪を綺麗に整え背筋を伸ばしてリリの隣に立つ彼をちらちらと見ていた少女も少なくなかった。
「ありがとうございます」
照れくさそうに笑うトマスにエルネストが微笑んだ。出会った頃はまだトマスの視線はエルネストの肩程度だったが、今はエルネストの視線がトマスの肩あたりだ。
そんなトマスを見上げると、エルネストは「大きくなったなぁ…」と嘆息と共に感慨深げに呟いた。そうしてすぐに真面目な顔になり、エルネストはトマスの鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「トマス。リリの手を、僕が預かってもいいだろうか?」
何のことだろう?不思議に思ってトマスの顔を見ると、トマスは少し目を見開いた。それから本当に嬉しそうに目を閉じて笑った。
少しして目を開くとリリをちらりと見て、それから優しい瞳でエルネストの目を真っ直ぐに見つめ返してゆっくりと頷いた。「あなたになら、預けられます」と。
「トマス?」
トマスは微笑んでうん、と一つ頷くとリリの背中をそっと押した。「あとはお願いします」とエルネストに一礼し、リリに「またな」と笑って去ってしまった。
何が何だか分からないままエルネストに手を取られ、チクチクと突き刺さる視線の中をリリはバルコニーへ連れ出された。
そうしてそこで、次期様より少し薄い緑の瞳に真摯な光を宿したその人に跪かれ、リリは婚姻を申し込まれたのだった。
―――ああ、この人、意外と綺麗な顔をしていたのね…。
視線が痛いのも納得だわなどと、あまりの驚きに遠い目になりながら、今更ながらにリリは場違いなことを考えたのを覚えている。
* * * * *
「トマス、いらっしゃい。どうしたの?」
あらかた荷物を詰め終え忘れ物がないかと見まわしていた時、母から来客を告げられた。いつものぼさぼさ頭のトマスだった。
「よう、リリ。忘れ物がないか確認しに来た」
母の後ろにいたトマスが開いたままの扉をとんとんっと叩くと、そのままドア枠に寄りかかり言った。
「何よそれ、あんたいつから私の母さんになったのよ」
ふふふと笑うと、トマスも笑った。
「リリは昔っからしっかりして見えてそそっかしいからな。絶対、何か忘れる」
間違いない、としかめつらしい顔で腕を組みうんうんと首を縦に振るトマスにリリもわざと眉をひそめて見せる。
「間違いないわ。私ったらピクニックにお弁当を忘れるくらいだものね」
目を見合わせると、二人は破顔した。
「本当だよ、弁当持たずにどうやってピクニックをするつもだったんだよ」
「ちゃんと袋には詰めてたわ!摘んだベリーを帰りにどううまく持って帰るかばかり考えて袋を籠に入れ忘れたの!」
「大差ないだろ…。まぁ、そんなことだろうとアニーとジルが多めに持ってきてたけどな」
その時の情景を思い出したのか眉を下げてトマスが呆れたように笑う。もさもさと目にかかる黒の癖毛の下、鳶色の瞳が優しく細められそばかすの目立つ鼻筋にくしゃっとしわが寄った。
もう!と怒るふりをして、リリは口元に手を当ててふふふと笑った。リリの春空のような薄い青の瞳が楽しそうに細められるのを見て、トマスがまぶしそうな顔をした。
「本当にさ、ちゃんと確認しろ………もう俺たちがすぐに助けてやることはできないんだから、さ」
ぐっと、リリは詰まった。苦虫を噛み潰したようにどんどんと顔が険しくなっていく。
「…わかってるわよ、そのくらい」
不機嫌そうに言うリリに、トマスの眉尻が下がった。それはそうだろう。領主の館はその物理的な距離も心の距離も遠い。
代々側近の家系であるエルネストの家族はお屋敷の離れを住居としてもらっている。離れと言ってもそこは貴族の領主の館。リリたちの暮らす家が5個も6個も…もしかしたらそれ以上入るくらいの、小ぶりなお屋敷とも言える大きさで。
結婚後は、離れにある部屋のいくつかがリリたち夫婦の部屋として与えられることになっていた。
「………リリ」
「なーに?」
口をとがらせそっぽを向いたリリに、トマスが淡々と、静かに言った。
「幸せになれ」
はっとして、リリは顔をトマスに向けた。
困ったように下がった眉尻と少しだけ上がった口角。鳶色の瞳に宿るのは、ただただリリを気遣う優しい色。
「トマス…」
呟いたリリの眉も下がる。少しだけ、泣きたい気持ちになった。
物心ついた時には側にいた。気が付いたら、いつも一緒だった。お互いに男女の情は無い。だけど、共にあるのが当たり前だった。大切な、大切な人。
家族でもない、恋人でもない、でも、ただの友達でもない。本当に大切な。何物にも代えがたい、大切な絆だった。
嵐におびえ、手をつなぎ共に眠った幼い夜もあった。
祭りの日、はしゃぎすぎてうっかり転び、おろしたてのワンピースを泥まみれにしてなぜかトマスも一緒に叱られた。
村一番の美人だった村長の家のお姉さんが隣町に嫁ぐとき、淡い初恋に涙するトマスにリリも一緒に泣いた。
ほんの一時村を訪れただけの冒険者に熱を上げ、うっかり身を捧げようとしたリリに自分を大切にしろ!と初めて見る剣幕で叱ってくれた。
そんな小さな幸せの記憶が。リリの大切な思い出のかけらが。通り過ぎてはリリの柔らかいところをぎゅっと締め付けていく。トマスはいつだって、リリのそばにいてくれたのだ。
西日の差すリリの部屋。開け放たれたドアから、けれど部屋へは入ってこない。これが今のリリとトマスの距離だ。もう二度と、直接触れ合うことはないのだろう。
―――それでも。
心はしっかりと繋がっている。自分を見つめるトマスの温かな瞳の色に、そう、強く信じることができた。
本当は、リリも怖かったのだ。もっと、この家に居たかった。もっとこの村に居たかった。トマスのそばで、みんなのそばで、当たり前に生きて死ぬんだと思っていた。
領主様の館なんて遠い世界のお話で。そんな場所に、自分が行くなんて思ってもみなかったから。覚悟なんて本当は全然できていなかったのだ。もう、明日なのに。
―――トマスには、お見通しだったのね。
思わず目を閉じると、ちらりと脳裏にエルネストの微笑がよぎる。
逃げてもいいと、優しく頷いてくれた人。
村で生まれ育ったリリにとって、平民とはいえそれなりに上流の新しい暮らしは窮屈で辛いものかもしれない。辛くなったら逃げていい。どんな君でも、僕は受け入れるから。そう言って、リリの手を握ってくれた人。
何度も何度も会いに来て、何度も何度もリリの目を見て。時間の許す限りリリの言葉に耳を傾けてくれた人。明日、リリの手を取り生涯の伴侶になる人。
窓から入る黄昏の淡い光を受け、黙ってしまったリリを優しく見守る幼馴染に。閉じた瞼の裏に映る、穏やかな、けれど確かな熱を湛えたかの人の瞳の面影に。
―――ああ、そうか…。
すとん、と、リリの中で何かが落ちていった。
リリは、何も捨てなくていいのだ。何も忘れなくていい。リリは全てを持っていけるのだ。わざとここへ忘れて行かねばならないものなど何一つとして、ない。
リリの目頭が熱くなる。眉根が寄ったのは一瞬。リリはゆっくりと目を開くと、静かに頷いた。
「大丈夫よ。私はぜったい幸せになるわ」
大丈夫だと、やっと本当に思うことができた。やっと、気が付くことができた。だからリリは真っ直ぐにトマスを見て、くしゃりと、歯を見せて笑った。無理も気負いもない、リリの本当の笑顔で。
リリは明日、丘の上へ嫁に行く。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。