月曜日 3
「……荻原、さん?」
「……何、メグちゃん」
何でこんな朝早くの時間に――四階へと続く踊り場に――荻原さんがいるのかわからなかったんだけど、とりあえず話しかけたら、荻原さんは私と目を合わさずに応じてくれた。その姿を見て、胸がキリキリと痛みつけられるのを感じる私。
やっぱり……私って気持ち悪いのかなぁ……?
女の子が女の子を好きになるって、本当に『間違い』なのかなぁ……?
そう思いながら視界が滲み始めたんだけど、今は早く雄二がいるらしい屋上に行かなきゃ駄目だよね。わかってる。わかってる……うん。だから私は右手で無理矢理拭き取って、荻原さんに「ごめん、荻原さん。そこ通してくれない?」って聞いた。荻原さんを素通りすることも可能だったけど、荻原さんの私への反応が知りたかった。金曜日の告白以来喋ってないからさ、荻原さんと。私が気持ち悪いのかもしれないけど……やっぱり、荻原さんともう一度喋りたいし。
「め、メグちゃんも……屋上に行くの?」
すると荻原さんはこんなことを言ってきた。
メグちゃんも……ってことは、荻原さんも?
「そうだけど……荻原さんも屋上に?」
「う、うん。……あーちゃんに、行けって言われたの。行かないと上履き隠されちゃう……から……」
「え? 上履きって……スリッパのことなら、今履いてるじゃん、荻原さん」
「え、あ……そうだった」
そう言って「ハハ……」って私に苦笑いしてくる荻原さん。そしてその直後に俯くと、そのまま階段を昇り始めた。その姿を見て、「ちょ、ちょっと待って! 屋上は駄目!」って荻原さんの肩を掴んで止めようとする私。
屋上には多分……雄二がいる。
二十分、姿を見せない危ない状態の雄二が。
そんな危険な場所に荻原さんを行かせない為にとった行動だったんだけど、荻原さんは「キャア!」って悲鳴をあげて勢いよく私の手を払いのけてきた。
「あ……」
「ご、ごめんメグちゃん。ごめん、なさい……」
階段の上の段から私を見下ろしながらお辞儀をして謝る荻原さん。その言葉には、恐怖しか残っていなかった。女の子が好きな女の子に触られるっていう――恐怖しか。
「…………あーちゃんに行けって言われてるから」
そう言うと踵を翻して階段を二段飛ばしで上へと向かう荻原さん。私が慌てて「駄目! 屋上は危ないから!」って忠告を大声でしたんだけど、多分荻原さんは……私の方が危ないって感じたんじゃ……ないかな。……ネガティブだね、今の私。駄目なのよ、ホント。荻原さんの姿を見る度に、さっきの――黒板の文字が頭に蘇るの。気持ち悪いって。私は気持ち悪いんだって。
「……何なのよ、もう」
言いながら私は気が付いた。というより、思い出した。
荻原さんは、私と同じクラス。
てことは荻原さんは――私の名前が書かれた黒板を見たってこと?
「荻原さん。ねえ。黒板……見た?」
私が言葉足らずの疑問を発したのはもう四階を通り過ぎた時。私の目には、小さい背を見せながらぴたりと止まった荻原さんと――光りが少ししか届かない暗い空間にある――屋上へと続く扉しかなかった。 私の声が聞こえたのか止まった荻原さんは、ゆっくりと振り返ると、私の顔を見ながらこう言ってきた。
「うん……見たよ、私。あの黒板に書かれた……芽救ちゃんの……」
「……あれ見て、どう思った?」
この時私が言うべき言葉は、本来なら「いいから早くドアからどいて」とか「そう。わかった」とかだったのかもしれないね。雄二のことが心配なのは確かだし、時間は着実に――他の生徒が来るかもしれない時間は――着実に近付いていたから。
でも、私は敢えて言った。酷いことかもしれないね。ていうか酷いよ、私。
私……優しい荻原さんならきっと……「あんなの書いた人、許せない、よね」とか言ってくれると思ってる。それを聞いて、少しだけ心を軽くしようとしてる。
傷心状態の荻原さんに……私はそんな安易なことを期待していた。
でも。
荻原さんは。
一度、輝かしい――でも昔私に見せてくれた笑顔じゃなくて――
黒い、笑顔を。
私に向けながら、女の子みたいな可愛い声で、こう言い放った。
「あーちゃんに言われたことがよくわかったよ。メグちゃん……気持ち悪い」
「……え」
私は聞こえた言葉を信じることが出来なかった。だって……あんなにも可愛く笑って……私と、接してくれた、あんなにも優しい、荻原さんが、私を、あんたとか、私を、き、気持ち、悪いなんて、い、言う筈ない……言う筈、ない、じゃん!
「そんな……荻原さん……」
「あれ? メグちゃん、聞こえなかった? じゃあ、もう一回言うね」
「え」
「気持ち悪いの。もう喋りかけないでくれるかな? ……私、あーちゃんに屋上に行けって言われてるから」
私が絶望にうちひしがれたような表情をしたのを見ても顔色を全く変えずに――笑顔のまま、ドアノブに手をかける荻原さん。私にはもう、屋上には入っちゃ駄目っていう元気さえ残っていなかった。
俯く私にもわかる程の風が、開かれた扉から入ってくる。髪が靡くのを感じた私は、弱々しくも頭をあげて、屋上へと足をかける荻原さんの姿を見た。
そこから見えたのが――小さくなった荻原さんが中央に見える視界の端に居たのは。
「ゆ……雄二!」
太い縄で手と足を縛られて、安全の為につくられた緑色の高い柵にもたれた――体操座りに強制的にさせられた雄二の姿だった。その姿をみて今までの悲しみが全部とんだ私は、「雄二!」って叫びながら荻原さんの後をついて屋上へと足を向ける。「な、メグか! 駄目だ! 屋上には来るな! あいつが居る!」っていう雄二の忠告なんか知ったことかだよ。そんなの気にするくらいだったら荻原さんの発言のこと気にした方がよっぽどためになるね、うん。
荻原さんが言うあーちゃんとか……雄二が言うあいつとかいう誰かが気になる私だったけど、向かい風を感じながら屋上に入り、一直線に走って雄二の元へ辿り着くと、私は聞いた。
いつの間にか、私の中には荻原さんの言葉の悲しみなんか消えていて。
ただ一つ。雄二の心配しか頭になかった。
「何であんたこんなに縛られてんのよ! アラちゃん心配してたよ!」
「ま、真姫? なんであいつがこんな時間に学校に居るんだ?」
「あんたの跡つけたに決まってるでしょうが! 仮にもボディーガードよボディーガード! ……そんなことは、今はどうでもいいから! 早くこの縄解いて……!」
手をかけたけど、きつくきつく縛られた縄は解ける気が全くしなかった。何この茶色の糸で編まれた太い縄っ! 腕も足も……全く解けないじゃん!
「め、メグ! 俺はいいから早くここから逃げろ!」
「うるさい! ちょっと黙っててよ、雄二!」
言いながら出来る限りの力を込めて雄二の学ランと縄の間に指をねじ込もうとした私だけど、全っ然、入らない。びくともしない! 何なのよ、この縄! いくらなんでも高校生の力を加えても全く動かないってのはおかしいでしょ! どんだけキツイ縛られた方してるのよ、雄二!
「もういい……もう、いいから!」
「もういいくない! いい訳ないじゃん! このままだとあんた何されるかわかったもんじゃないじゃん!」
「何言ってんだ! 俺より、お前の方が危ないんだっての!」
「……へ?」
言われて疑問に思う私。そう言えば……雄二の体には傷一つない。いつもの雄二の制服姿にないものは、雄二を縛る縄だけ。
じゃあ……何で雄二は二十分も動けない状態で縛られていたの?
それに、普通監禁とかなら口も塞ぐ……はずだよね。最近見た『必殺闇討ち人』でもそんな場面があった気がする。
だったら。
雄二は何の為に、縛られているの?
「メグ! 後ろ! 危ねぇ!」
すると雄二の口からいきなりこんな大声が叫び出された。言われて振り向く私。
そこにあったのは。
私の視線の先にあったのは。
――日曜日の深夜。
あの、黒尽くめの女が握っていたものと――同じだと思われるサバイバルナイフの――
先端。
それが、私の額に向かって、力の限り突き出されていた――!
「キャアアア!」
慌てて私が頭を下にして避ける。ナイフの先端が頭の上を――風を切りながら通り過ぎるのを感じた。
「メグ! 避けろ!」
少ない言葉で私を恐怖から救いだしてくれた雄二の声に感謝しつつも、額から汗が流れるのを感じながら、私は雄二をそのままにして右に転がり込んだ。スカートの中身も多分まる見えだと思うけど、そんなどうでもいい体裁よりも気にしなきゃいけない存在が目の前に居る。
体が四、五回転くらいしたのを感じた後、私は起き上がり、視線の先――屋上の床と、四階へと向かうことが出来る扉を備えたマンションの一室みたいな大きさのコンクリートの直方体と、青空と、緑色の高い柵と――
私にナイフを突き出してきた――人物。
クミクミに雄二の合成した写真を渡して、お金を見返りに私をカツアゲさせた――人物。
鈴木に襲い掛かり鈴木の拳に傷を負わせた――人物。
アラちゃんに取れない粉を被らせた――人物。
私の間違いを黒板いっぱいに書いて私を気持ち悪いと断言した――人物。
荻原さんにあーちゃんと呼ばれている――人物。
雄二にあいつと呼ばれた――人物。
躊躇が出来ない筈の危険な雄二を何らかの方法で縛って動けなくした――人物。
私に恨みをもった――人物が。
私の視界の中に、居た。
「ホントあんた……よくウチの前に顔をだせたわね」
そこに居たのは。
私がよく知る――人物で。
紛れも無い――人物で。
幻とかでも幻覚とかでも――なくて人物なのに。
私は一瞬、自分の見ている者が信じられなかった。
そんな――そんな、人物。
「あ……あーちゃんって……そん……な……」
私の思わずもれた声を聞きとったのか、「そうよ。ウチが――あーちゃん」と断言する――人物。
「荻原……さん……」
サバイバルナイフを悠然と構えるのは。
――あーちゃん。
荻原彩さんの――姿だった。