純真な子どもの終着点
「手袋を買いに」は、子狐の純真さを描いた作品だ。
母狐は子狐に、人間は恐いものだと教えたが、純真な子狐は人間を恐がらなかった。
子狐が純真でなかったのなら、物語の展開もまた違ったものになったはずだ。
私はこの作品を読んで、純真な子どもの終着点について考えてみた。
子どもが純真でいられる期間は、長いようで短い。
それはまるで即席麺の待ち時間のようだ。
さて、子どもはやがて成長し、大人になる。
純真だった彼らも、不純さを持つようになるのだ。
彼らは不条理なこともまかり通るこの世界で、純真だけでは生きられないことに気づく。
この世で生きるには、純真さを削り、不純さも持たなければならない。
不純さも持つ彼らは、自分自身に腐ったような好意を持つ。
同時に、近親相姦のような嫌悪感も抱いている。
一方で、いじめの傍観者みたいな安堵と後ろめたさを感じながら、生きていく。
純真な子どもの終着点とは、純真で不純な自分について葛藤することだと、私は考えた。
どちらの自分も、結局のところは自分自身。
相反する二つを、切り離すことはできない。
切り離せないのなら、どちらの自分も受け入れるべきだが、それを出来ないのが人間だ。
切り離すことも、受け入れることもできないのなら、あとは葛藤することのみ。
かつての私は純真な子どもであり、純真な大人になることを憧れていた。
だが、私は心を持たない怪物との死闘で心を負傷し、結果、純真な大人になれなかった。
気づけば、私はこの不条理な世界からも見捨てられようとしていた。
純真な大人になれず、十代の大半を自暴自棄に過ごした私だが、葛藤も同じくらいした。
葛藤こそ、人のあるべき姿。
今でも学校は、死闘を思い出すトリガーだ。
ところで「手袋を買いに」の子狐……彼は町の灯を見たとき、一体何を思出すのだろう。
了