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4皿目 ぬらりひょんの憂鬱

 松葉色の羽織を纏った和装の老人がいた。


 老人はまるで馴染みの店であるかのように料理屋の暖簾のれんを潜り、席に着くや否や湯豆腐と熱燗を一本注文する。そしてテーブルに届いたそれを食べ慣れた様子であっという間に平らげ酒を飲み干すと、仏頂面で女将に視線を送り「馳走になった」と言って代金も払わずに堂々と出ていった。


 その姿があまりに堂に入っていたので、まさか女将もその者が無銭飲食をしているとは思わない。それがその老人の手口なのだ。


 店主が気づいた時にはもう遅い。慌てて店の外に出てくるも、その老人の姿はどこにも見当たらない。ぬらりと現れ、ひょんと消える老人。それが妖怪ぬらりひょんの名前の由来だ。


「いやはや、旨くもない豆腐であった……」


 天を仰ぎ、老人は憂う。この者は食い逃げしたにも関わらず、厚かましくもその店の味を酷評しているのだ。特に豆腐の味が気に入らなかったらしい。昔の豆腐と比べると、どうも豆の味や香りが感じられない。大量生産、大量消費の時代で、製法も昔とは異なるのだろう。これは仕方のないことでもある。


 過去に食べた豆腐の記憶に思いを巡らせながら、老人はゆっくりと幹線道路を歩く。するとその時、道の反対から若い男が自転車に乗って走ってきた。


 老人はその自転車が走る右側に移動する。すると当然自転車は老人を避けようと左に寄る。それを更に被せるように老人は左へと移動した。


 キキキキーッと甲高いブレーキ音が鳴り、自転車は前につんんめりそうになりながら停車する。自転車に乗る男の焦った顔を見て、老人は満足げにほくそ笑んだ。何故そんなことをするのかと問われても答えはない。敢えて言うのなら、それがこの老人の習性だということだ。


「年寄りが歩いているのに、自転車で歩道を走るなうつけ者」


「へ、へい。申し訳ありません」


 平身低頭で平謝りする自転車の男。こういう時は大抵の場合、舌打ちして去っていくか食って掛かってくるかの二択なのだが、妙なこともあるものだ。


 いぶかし気に眉をひそめ、老人は男の顔を睨みつける。青白い顔にやたらと大きい頭部。頭が大き過ぎる為なのか、ヘルメットの代わりに托鉢僧たくはつそうのような網代笠あじろがさを被り、大きな黒い葛籠つづらのようなものを背負っていた。今の世には不釣り合いな、不審ないでたちだ。


「随分青白い顔をしているな。まさかお主、ヒロポンでもやっているのではあるまいな?」


「ヒ、ヒロポンだなんてとんでもございません! 手前はヒロポンどころか、酒や煙草もやらなくたちでして」

 自転車にまたがったまま弁明する男。頭が重いのか、喋りながら頭部がゆらゆらと横に揺れている。


「では坊主、お主は何者なのだ?」


「手前は坊主ではありません。豆腐運びの小僧でございます」


「……ほう、それは豆腐小僧だな」


 豆腐小僧とは、江戸時代から明治時代にかけて人気のあった、紅葉豆腐を運ぶだけの小僧の姿をした妖怪だ。栄養価が高く人々に好まれた豆腐の人気と相まり、その当時は双六やカルタなどの玩具に描かれる現代で言う所のゆるキャラのような存在であった。


 しかし現在においてはタンパク質を取るならば多くの人は豆腐より肉を食べるだろう。成長期の子供たちにとっても豆腐はそれほど人気の食材ではない。


「お前は何ゆえこの現代に存在するのだ。豆腐が人気食材だった時代は遥か昔の話じゃぞ」


 妖怪とは人の心の中に居場所があることで存在するものなのだ。誰の心の中にも居場所を失った妖怪は人々の記憶から忘れ去られ、そしてこの世から消えてなくなるのである。


「左様でございますか。ですが昨今、美容や健康の観点から豆腐の需要が少しづつ伸びてきているのでございます」



 ――さてさて、豆腐などと言うものは年寄りが食う食べ物だなんていう認識で若者からはあまり人気の無い食材だったのですが、米国で代用肉として豆腐が大人気だなんてテレビで報道されますと、若い女性たちがここぞとばかりに買い漁り飛ぶように売れるって言うんですからおかしな話なのでございます。




「そんなわけでご老人も、豆腐一丁いかがですか?」


 豆腐小僧は自転車から降り、背負っていた葛籠を地面に下した。中がどういう仕組みになっているのかはわからないが、豆腐小僧が腕をすっと入れると中からお盆にのった紅葉模様の入った豆腐が現れた。今まさに水の中からすくったかのように瑞々しい豆腐だ。


「旨そうではあるが、儂は今しがた湯豆腐を食べたばかりなのだ。悪いが豆腐はもういらぬ」


「ほぉ、湯豆腐を? これから寒い季節ですからよろしいですね。では冷たい豆腐ではなく、揚げたての厚揚げなどは如何でしょう?」


「厚揚げも元は豆腐ではないか。口直しをしたいところであったが、豆腐はいらぬ。儂に何か食わせたいのなら、豆腐以外のものを出してみるがいい」


 老人が口調を強めてそう言うと、豆腐小僧は重い頭をゆっくりと右に傾けた。


「手前は豆腐運びの小僧でござりまする。豆腐以外のものを出せと言われても……」


「豆腐運びの小僧でも商いだろ。商売人なら常に客のためになることを考えなければならん」


「そうでございますか……。ならばご老人、他のお客様のご迷惑になるのでどこかにいって貰えますか?」


「そう。商売の邪魔になるじじいはとっとと追い出す……って大馬鹿者! お主は商いのことを何もわかっておらぬ! お客様は神様という言葉を知らんのか?」


 怒りを露わにする老人。しかし肝心の豆腐小僧の心には届いていないのか、ぼんやりとした顔で口を開いている。


「へえ……。しかし、ご老人は神様でなく妖怪では?」


「何とも口の減らない小僧じゃな。大体お前も妖怪であろう。妖怪なら妖術でも使って豆腐以外のものを出せぬのか!」


 無理難題をぶつける老人。そもそも妖術などというものは、その時代の人間の科学では解明できていない自然現象を妖怪や妖術の仕業ということにしただけであって、本来存在するようなものではない。なのだが豆腐小僧は老人の言葉を聞くと、何か思いついたように虚空を見つめ「あー」と一節声を上げた。


「手前、妖術なんてものは持ち合わせておりませんが、一つ、良い商品があることを思い出しました」


「それは一体何じゃ?」


「食後においしい、とろける杏仁豆腐にございますー」


 豆腐小僧が再び葛籠の中から取り出したのは、陶器の器に盛られた真っ白い杏仁豆腐だった。


「……ほう、食後の菓子というわけか。豆腐は豆腐でも杏仁豆腐。それは中々良いかもしれんが、とろけるという前置きが気に入らんな。普通に杏仁豆腐だけでよかろうに」


「通常より寒天の量を減らして、柔らかい食感にしております」


「それも若者の流行りか? 気に入らんな。そもそも杏仁豆腐というものはつるんとした食感が醍醐味であるのに、それを柔らかくしようなど何と愚かな……」


 老人はそう言って匙ですくった杏仁豆腐を口に運ぶ。しかしその淡雪のように柔らかい杏仁豆腐は匙から零れ落ちると、老人の着る松葉色の羽織にべちゃりと落ちてしまった。


「それ見たことかっ!! 不必要に柔らかくなどするから、こうなってしまうのだ!」


 激高する老人。しかし豆腐小僧は慌てる様子もなく再び葛籠の中を探り出す。そしてそこから出てきたものは、白くて四角い豆腐のような何か。


「この期に及んでまた豆腐か? そんなものをどうしようと言うのか」


「これは豆腐ではありません」


「どう見ても豆腐ではないか。何だこの蒟蒻問答ならぬ、豆腐問答は?」


「ご老人。これは平成の発明品、凄落ちくんにござりまする」


「すごおちくんッ!」


「これを使えばどんな汚れでも立ちどころに……」


 豆腐小僧はシロップで汚れた老人の羽織を、凄落ちくんで撫でる。優しい手つきで一度、二度、三度。しかし羽織の染みは、一向に消える気配もない。


「……どうにも落ちませんね。凄落ちくんは、ちりめん生地には効果がないようです」


「わかっておるわ。お主、どうかしておるぞ。やはりヒロポンでもやっているのではないか?」


「とんでもございません。手前は薬物の類は一切やっておりません」


「まあヒロポンは兎も角、大麻くらいはやっておるのではないか?」


大麻おおあさだなんて、おかしなことを申される。手前は豆腐小僧、大麻だけはありえませんよ」


「ほう……。して、その心は?」


 老人が尋ねると、豆腐小僧は青白い顔で不敵に笑みを浮かべた。


「だって豆腐には、絹と木綿しかないのでございます」



 お後がよろしいようで。

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