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1皿目 魔術師と金貨

「本当に、申し訳ございませんでしたっ!!」


 静かな夜の住宅地に、少女の謝罪の言葉が響く。


 日中の暑さがようやく落ち着いてきた8月の夜8時半。築30年は経っているだろうボロアパートの2階通路で深く頭を下げる少女は、恐る恐る顔を上げ、目の前にいる住人の顔色を伺った。そこにいるのは、ぱさぱさの金髪で眉毛がほぼない203号室の女性住人。女は毛のない眉を八の字にして、少女から受け取った袋を目の高さに持ち上げた。その袋の中に入っているのは、けんちんうどん。ただ肝心のけんちん汁が3割程度漏れており、ビニール袋に茶色い水溜まりをつくってしまっている。容器の蓋がしっかり閉まっていなかったようだ。


「謝罪はもういいわ。汁物運ぶ時は気をつけてよね!」


「はい! すみませんでした」


 再度頭を下げつつそう言ったのだが、その言葉が言い終わるのを待たずに203号室の扉は力強く閉められてしまった。まるで本来ぶつけたかった怒りをそこにぶつけるかのように。


「……はぁ」


 夏の夜の生暖かい風が辺りに吹き抜ける。少女は頭を下げたまま深く息を漏らした。


 少女の名は溝口みぞぐちかえで、年齢は18歳。住居のある市内でフードデリバリーの仕事を始めたばかりなのだが、生来のおっちょこちょいな性格が災いしてお客さんにお叱りを受けることが度々あった。先程の眉なし女性が言っていたように、汁物の配達には最善の注意をしなければならない。


「そうだ! 次の届け先に急がなきゃ」


 今回の配達は2件受けだったので、ここの配達で終わりではない。もう1件配達先を回らなければならないのだ。


「次の届け先はどこの道から行けばいいのかな?」


 独り言ちながらスマートフォンで行先を調べていると、突然横の扉が勢いよく開かれた。


「あんた、人んちの前でいつまで油売ってるの!! 警察呼ぶわよっ!」


「わっ! す、すみませんでした!」


 顔を真っ赤にして出てきた眉なし女性に怒鳴られ、慌てて駆け出す楓。むき出しの鉄骨階段をカンカンカンッと音を立てて下り、近くに停めておいた赤いシティサイクルに急いでまたがった。


「ふー……」と一つ息をつき、もう一度スマートフォンで地図を確認する。次の配達先はここから北方向にある神社の脇の坂を上りきった辺りだ。バッグの中の天ぷらうどんが冷めてしまう前に急いで行くとしよう。


 住宅地の生活道路を真っすぐに走っていくと、やがてちかちかと点滅する古い街灯が見えてくる。その古い街灯が立つ角を曲がり細い路地を抜けると、林に覆われた小さい神社に辿り着いた。後はこの神社の脇の坂を上るだけだ。


「待っててくださいね、お客さん。今すぐにお届けしますから!」


 気合を入れた楓はそこから速度を上げ、長く続く上り坂へと進入していく。そして途中で立ち漕ぎになりながらもどうにか上り切ると、辿り着いたその目の前には不自然なほどの大きな空き地が広がっていた。土がむき出しで雑草の一つも生えていない色気のない空き地。


 自転車に跨ったまま呆然と立ち尽くす楓。地図で確認した時は、確かに坂を上った先にある丁字路の正面が届け先だったはず。


 嫌な予感がよぎる楓。そして嫌な予感と言うものは往々にして的中してしまうものなのだ。スマートフォンを強く握り配達アプリの画面を確認した楓は、苦いスープでも飲んでしまったかのように大げさに顔をしかめさせた。


 届け先の住所の欄に目をやると、〇〇市〇〇町までしか入力されていなかったのだ。丁目以下がごっそり抜け落ちてしまっているため、届け先の位置がずれて表示されていると思われる。


 楓は夜空に向かって天を仰ぐ。何で私は出発前に住所が確実に記入されているか確認しなかったのだろうか。今更悔やんでも仕方がないのだが、とりあえずこれでうどんが伸びてしまうのは確実になってしまった。


「あーもう、急いでお客さんに電話!!」


 届け先の住所を聞き出すために、まずはお客に電話をかける。1コール、2コール、3、4、5……。いつまで経っても相手が電話に出ることはなかった。配達員からお客様への電話は知らない番号からの着信になるので、基本出て貰えないことの方が多い。合わせて文章によるメッセージも送っているが、こちらも梨のつぶて。これが通じないとなるといよいよお手上げ状態になってしまう。


 ここにきて一日の疲れがどっと出てきた楓は自転車から下り、よろよろと押し歩いて道の端にある小さなポストに寄りかかった。差し出し口が一つしかない、四角くて小さなポスト。


「はぁ、お腹空いた。もうこの天ぷらうどん、食べちゃおうかなぁ……、なんて」


 誰に聞かせるでもない戯言ざれごとを小声で口にすると、その言葉に反応するように寄りかかっていたポストが突然大きく左右に揺れた。


「わっ!? えっ、何?」


「やあ、やあ、やあ。我の名は、赤きしもべ!」


 差し出し口を大きく開け、意気揚々と喋り出す小さなポスト。だが理解が追いつかない楓は、その場で固まり愕然としてしまっていた。


「お嬢さん、道にお迷いのようですね。この赤きしもべが道案内をして差し上げましょう」


「あ、赤きしもべ? ポストではないのですか?」


 混乱しているためかどうでもよいところが気になってしまう楓。赤きしもべと名乗ったポストはそれに対し、差し出し口をへの字に曲げた。


「確かに我はポストと呼ばれることもあります。それほどまでに住所に詳しいということです。さあ、貴方が探している人物の名前を言いなさい。さすればその住所までお導きいたしましょう」


「な、名前ですか? ちょっと待ってください」


 スマートフォンで配達アプリを確認する楓。名前の欄を見るとそこには『饗宴きょうえんの魔術師』と書かれていた。何ということだ。これは間違いなく偽名だろう。


「きょ、きょうえん? のまじゅつし……」


 自信無さげにその名を読み上げると、赤きしもべは喜んでいるかのように朱色の胴体を小刻みに動かした。


「はははははっ! 饗宴の魔術師ときましたか。そいつはお安い御用だ。……では現れよ、蜃気楼の屋敷!」


 大きく声を張り上げるポスト。すると真っ暗だった夜空が突如として白く光り出した。それはただの白ではない。周りにある森羅万象全てのものをかき消してしまうかのような圧倒的質量の白。


 楓はそれと同時に世界がひっくり返ってしまったような感覚を覚えた。ひっくり返ったというのは上下がひっくり返ったのではない。服の表と裏を間違えて着てしまったようなことが世界レベルで起きたとでもいうような不思議な感覚。勿論実際にひっくり返っているようなことはないのだろうが。


 そして背後から強烈な風が吹き抜けると、全てをかき消していた圧倒的白が霧が晴れるように薄っすらと掠れていき、その視線の先に見たこともないような立派な建物が出現した。空き地しかなかった目の前の土地に突如として現れた、日本の住宅地には似つかわしくない古びた白亜の洋館。


「さあ、さあ、さあ、1名様ごあんなーい!」


 赤きしもべにそう促され、楓は恐る恐る敷地の中を歩いていく。そして屋敷に近づいた次の瞬間、玄関の脇に備え付けられたドアベルが何もしていないのにカラーンッと甲高い音を鳴らした。


 驚きに身をすくませ、その場で立ち止まる。鐘の音の余韻が耳の奥から消えかけると、今度はギィという音と共に屋敷の扉がうやうやしく開かれた。ゆっくりとした歩みでそこから現れたのは、ローブのような衣装を身にまとった銀髪カーリーヘアの男。


「やあ、お待ちしていたよ」


 そして男は中へどうぞと手で仕草をすると、扉を開けたまま屋敷の中に戻っていった。


 玄関先に残された楓は一瞬頭が真っ白になってしまっていたが、配達の仕事を遂行しなければと思い至り意を決して屋敷の中に入り込んだ。


「すみません、お待たせいたしました。ご注文の天ぷらうどんをお持ちしました」


 そう言いながらも部屋の中を密かに物色する。広い部屋に高い天井、調度品はアンティークなもので揃えられていて、確かに魔術師と呼ばれる人間が住んでいたとしても違和感がない空間だ。


「ああ、どうもありがとう。そのテーブルの上に置いてくれるかな」


 カーリーヘアの男はにこりと微笑みながら、中央にある大きなダイニングテーブルを指で差した。恐らく彼が注文してくれた饗宴の魔術師、ということなのだろう。


「はい……。かしこまりました」


 楓はいそいそと背負っていた大きなバッグを下し、その中から天ぷらうどんを取り出す……、はずだった。彼女がバッグの中から取り出したのは天ぷらうどんではなく、大きな皿に盛られた七面鳥の丸焼き。何でこんなものがバッグの中にあるのかと思い、今一度バッグの中を改める。いや、中に入っているのは間違いなくプラスチックの容器に入った天ぷらうどんだ。


 一旦七面鳥の皿をテーブルの上に置きその天ぷらうどんを取り出すと、今度は銀色の皿に盛られたサーモンやチーズ、サラミなどが乗ったカナッペの盛り合わせが出てきた。頭に大きな疑問符を浮かべつつ今一度バッグの中のうどんを確認し取り出してみるも、今度は彩り鮮やかな野菜サラダ。そしてその次は、香ばしい匂いの巨大なミートパイ。


 まるで魔法のバッグのように、その後も美味しそうな料理が中から出てくる。大きな有頭海老がのった魚介のパエリア、くり抜いたかぼちゃをそのまま器にして作ったあつあつのグラタン、ピスタチオやドライクランベリーが入った田舎風のパテ……。大きなダイニングテーブルは次から次に出てくる料理で遂に埋め尽くされてしまった。


「ありがとう、配達員さん。もうこれで充分。素敵なパーティーになりそうだよ」


 カーリーヘアの男はそう言いながら、巨大なミートパイにザクッとナイフを入れた。ホールケーキをカットするように三角形に切られたミートパイ。バターの風味が強い香ばしいパイ生地と、中に入ったスパイスを効かせたミートソースの芳醇が香りが一体となり部屋中に広がっていく。今まで嗅いだことのあるどんな料理よりも凌駕してしまう、食欲をそそるその香り。楓は思わずゴクリと喉を鳴らした。


「うん、焼き加減も最高。味は……」


 そう言いながらカーリーヘアの男は、カットしたミートパイを一つ手に取り大きな口でサクリと頬張った。目を瞑りじっくりと咀嚼すると「申し分ない!」と言って、視線を楓の方に向ける。


 雛鳥のように口を大きく開けてしまっていた楓は、慌てて背筋を伸ばし口元を手で拭った。


「この料理が食べたかったですか?」


「いいえ、だ、大丈夫です!」


 大きく首を横に振る楓。しかしその仕草は大げさにすればするほど、大丈夫ではないと感じてしまうものだということに楓は気づいていない。


「本当は君にこの料理を食べて欲しいところなんだけど、これを食べてしまうと君たちは元の世界に帰れなくなってしまうんだ」


「元の世界……?」


 薄っすらと気づいてはいたことだが、ここは自分たちがいるところとは違う別の世界ということで間違いないようだ。男のその言葉で楓はそれを確信することができた。


「手を出して。君にこれをあげるよ」


 そう言うとカーリーヘアの男は、楓に1枚の硬貨を握らせた。それは光を反射してきらきらと輝く新品の金貨。


「これは……?」


「魔法の金貨さ。これなら君たちのいる世界にも持っていけるはず。料理の代わりというわけではないけど、受け取ってください」


 目を細め笑みを浮かべるカーリーヘアの男。楓はその優しい笑顔に頬を染めつつも「あ、ありがとうございます」と一言お礼の言葉を口にした。


 しかしこの硬貨は純金で出来ているのだろうか? この沢山の御馳走を準備したのは間違いなく自分の能力ではないので、高額のチップを受け取るのは少々躊躇ためらってしまう気持ちがある。


 上目遣いで見上げる楓。視線の先のカーリーヘアの男は、その気持ちに気づいているかのように静かに頷くと、入ってきたエントランスの方に目を向けた。 


「大丈夫です。そして元の世界にお帰りなさい。あなたが運ぶ料理を待っているのは、私だけではないですから……」


「……はい」


 そう答えると、楓の目の前に再び白い光があふれ出した。目に映る全てのものを消し去っていく暖かな白い光。その光に包まれながらゆっくりと目を瞑ると、世界がまたくるりとひっくり返った。



 楓の体の周りに一陣の風が吹き抜ける。風を受けた木々がさざ波のようにざわめくと、その風音に紛れて何者かの声が微かに聞こえてきた。


「……ねえ。ねえ」


 あまり聞きなじみのない低い声。これは果たして誰の声だっただろうか?


「おい、ねえってば! 何ぼーっとしてんの、ねえっ!!」


「……あ、はい?」


 重い瞼を開くと、目の前にはタンクトップを着た細身の男性が立っていた。痩せているがちょっと生意気そうな顔をしている、バンドマンのような雰囲気を持つ若い男。


「いや、はい、じゃなくて、天ぷらうどんの代金要らないの?」


 痩せた男は指で摘まんだ2枚の1000円札をぴらぴらと揺らしている。どこをどう辿ったのかはわからないが、楓はいつの間にか2件目のお届け先に辿り着いていたらしい。


「えっ!? あああ、す、す、すみません! お代金頂戴いたします。ありがとうございました!」


 2000円を受け取り逃げるように帰ろうとすると、すぐに痩せた男が「いや、お釣りは!?」と声を上げてきた。


「お、お、お釣り! すみません! えーと、商品代金1458円で2000円のお預かりなので、えーと、えーと……」


「542円のお釣りっ!!」


「あああ、542円のお返しです! 申し訳ございません!」


 痩せた男は楓からお釣りをふんだくると一件目の客同様、怒りを最大限に表すように力いっぱいに扉を閉めた。


 静かな夜の住宅地にバタンッという大きな音が響き渡る。がっくりと頭を垂れた楓は、肩を落としたまま届け先の建物を出た。そして道路に出て左の方に目を向けると、くすんだ朱色の小さなポストがひっそりと佇んでいる。


 差し出し口が一つだけしかない小さなポスト。このポストを見た記憶はある気がするのだが、そこから今までの記憶がぼんやり欠落してしまっている。届け先の呼び鈴を鳴らした記憶もないし、お客に天ぷらうどんを受け渡した記憶もない。


「ねえ、赤いポストくん。何だか疲れてしまっているみたいだから、今日の仕事はもう終わりにしてもいいかな?」


 首を捻らせポストに話しかける楓。だが当然返事はない。それは郵便物を投函するだけのただの箱なのだから。


「……ふふふふ」


 何がおかしいのかわからないが小さく笑いが漏れてしまう楓。


 スマートフォンの画面下部をタップして配達アプリをオフラインにする。そしてそのスマートフォンをポケットの中にしまおうとしたのだが、その時ポケットの中で何かがコツンとぶつかるような音がした。何だろうと思い手を入れ中を探ると、見たこともない硬貨がそこから出てきた。よその国ものと思われる美しい金色の硬貨。


 今日届けた配達で現金を受け取った時に、日本の硬貨と間違えて受け取ってしまったのだろうか? 初めて見る硬貨なので円換算でどのくらいの価値があるのかもわからない。


「どこかで騙されちゃったのかなぁ……」


 謎の硬貨を夜空に掲げ、街灯の光に照らしてみる。まだ新品の硬貨のようで、光を反射しきらりと輝いた。眺めているだけで何だが心が安らいでいく不思議な硬貨。すっかり疲れ切っていた体だったが、少しだけ体力が回復したような気持ちがした。


 ここから自宅までは4キロメートルくらいの距離。最後のひと踏ん張り、再度気合を入れるとしよう。


「さあ、明日もお仕事頑張るぞーっ!」


 緩やかに下る坂に向かって自転車のペダルを漕ぐ楓。そして自転車は一気に加速し、風を切りながら人のいない夜の坂道を颯爽と走り抜けていった。

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