壱
あゝ、ついに旦那様がお亡くなりになりました。
王宮の女官たちの生活を、これからどうすればよいでしょうか。私は、王妃として、これまで旦那様と私を支えてきてくれた彼女たちの生活の面倒をみる必要がありましょう。どうしてやればよいでしょう。いいえ、いいえ。私だって、私だってこれから、どう生きればよいのでしょうか。
旦那様は大変にお優しく、また王としての責任感が大変にお強い方でした。私たちはその大いなる愛情に報いることだけを考えて暮らしてまいりました。いいえ、私たち女性はそのようにしか生きることを許されてこなかったのだから、これは私たちの選択ではありません。私たちは、そのように定められた女性の道を、誠実に歩んでまいりました。
ここに残っているのは、若い頃からずっと旦那様にお仕えし、旦那様が執務しやすいように城内を整え、毎日のお食事を用意し、衣服を清潔に保ち、シッダールタ様やラーフラ様、また私の愛しい息子ナンダと、美しい娘ナンダーにも、実の母の如く、いいえ、時には実の母よりもずっと濃厚に関わって、深い愛情を持って育ててくれた女たちなのです。若く美しい者たちは、すでに旦那様のお世話で縁談を得て、嫁いでゆきました。ここに残っているのは、若く美しい時期を旦那様と私たちのために尽くしてくれた者たちなのです!遺された私たちはどうやって生きていけばよいのでしょう!
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私はコーリー国のデーヴァダハ出身で、年の離れたマーヤーお姉様とともに縁戚であった旦那様のもとへ嫁ぎました。12歳のときでした。
まもなくお姉様がご懐妊されたときは、とっても嬉しかった。日々大きくなっていくお腹を撫でて、毎日2人で声をかけたものです。
お姉様が里帰り出産をご申し出になった際、旦那様は私にも里帰りをお赦しくださいました。初めての出産を控えたお姉様のそばにいてやってくれまいかと私に仰有ってくださったのです。
あゝ、なんてお優しい旦那様。お姉様の御身体のお辛いときに側にいてあげられて、旦那様よりも早く御子をこの手に抱くことがかなうなんて。そして、そして、お父様とお母様にも久方ぶりにお目にかかることができるのです。もしかしたら一生戻ることはないかもしれないと、嫁ぐその日はとても不安だった。お姉様とご一緒だったからこそ、泣かずに我慢できたのです。旦那様は、そんな私の気持ちを全部わかっているかのようで、細かいお気遣いを常にお忘れになりませんでした。本当に私は幸せ者です。
カピラ城からの道すがら、お姉様は少し気分が悪いと仰有って、ルンビニーのアショーカ樹園で車を停められました。
ちょうどアショーカ樹の花が満開で、園はお香を満たしたかのように、すこし烟っていて、むせ返るような甘い香りが周囲にたちこめておりました。
お姉様はそのうちの一本の樹に近寄り、赤黄色い大輪の花が付いた一枝にそっと手を伸ばされました。
その姿はまるで天女を絵に描いたように美しかった。美しく幸福な私のお姉様。憂いをたたえたその真っ白い横顔に、私だけではなく、侍従たちも皆、見惚れてしまっていたと思います。
しかしその時、お姉様はアショーカ樹の花を掻き毟り、しゃがみ込んでしまわれた。侍従たちが駆け寄ります。あゝ、なんてことでしょう。お姉様は突然に産気付かれてしまわれたのです。足元に生臭い水溜まりがみるみる広がりました。破水されたのです。
侍従の一人が産婆を探しに駆け出しました。ある者は近くの民家に飛び込み、湯を沸かすように指示を出します。車の座席に敷かれたカーシー国産の綿布を急いで持ってきて、お姉様の腰の下に敷く者もあります。女たちはあちこちから布を集め寄り、お姉様を周囲の目に触れないよう、囲いを作っていきました。
私はオロオロと見守るばかりでした。お姉様の御身体がお辛い時にお側にいられることを喜んでいたのに、いざこのようなことが起こったときにどのように行動すればよいか、私は何も知らなかったのです。私は無知で無力でした。ただただ心配で、神に祈るしかありません。
ふと、女官の一人が囲いから這い出て、私のもとへまいりました。
「マーヤー様がマハーパジャーパティー様をお呼びになられていらっしゃいます。どうかマーヤー様を励ましていただけませんか」
「ええ、ええ、もちろんです」
と答えました。直ぐに囲いの中に潜り込み、お姉様の枕元で、御手を握って差し上げました。
「パティ、来てくださったのね、ありがとう」
お姉様は私のことをパティとお呼びになられるのです。
「お姉様、パティにできることがあったら仰有ってください。パティはお姉様のためなら何でもいたします」
「ありがとう。姉様はパティが傍にいてくれるだけで、とても心強いのです。だって姉様も初めて御子を産むのだもの、とても苦しいし、とても不安なの。でも貴方がいれば、私は姉様になれる。強くあれます。どうか私の傍にいてくださいまし」
あゝ、お姉様、そんな風に思ってくださっていたなんて。私はずっとお姉様のお荷物で申し訳ないと思っておりましたのに。あゝ、でも、お姉様も私と同じように心細く人生を歩まれて来られていたのですね。私はお姉様の御手を強く握り返しました。
お姉様は大変な難産のように思えました。
とは言え、お産を身近に見たのは初めてのことですから、本当にこれが難産であったのかはわかりません。世の母親は皆このように苦しむものなのでしょうか。私もいつか子を産むのでしょうか。このように?私には到底耐えられそうには思われませんでした。
お姉様が突然にしゃがみ込まれてから、どれほどの時間が経ったでしょうか?2時間ほど?3時間ほど?いえ、どうももっと短かったかもしれません。5分おきにお姉様は非常に苦しまれました。破水もしています。なのにいつまでも御子はお生まれにならないのでした。
どうも後から聞いたところでは、産道がうまく開かなかったようで、このままではお姉様も御子も命を失う可能性が高く、腹を切って御子を取り出す相談があったようです。西方のローマという地では、分娩時に死亡してしまった母親の腹を割いて子を取り出す習慣があるそうですが、中には子がまだ生きている場合もあるのだとか。その方法を学んだスシュルタ医師の弟子筋にあたる者がたまたま近くに居を構えていたのです。彼は妊婦の腹を切って子を取り出した後、これを縫って、子と母のどちらもの命を救ったことが、何度かあるとのことでした。
スシュルタ医師の弟子筋を名乗るその男が呼ばれましたが、しかし旦那様がいらっしゃらない中、身分確認もできない男性に、お后であるお姉様の御身体に傷をつけさせることが躊躇われ、結局、処置はできませんでした。
最終的に産婆が陰部を深く裂き、無理に御子を引きずり出すような形で、お産が行われました。
取り出された御子は、最初紫色で動かず、皆を心配させましたが、産婆がその背を叩くとか細く泣き声をあげられ、みるみる御身体をピンク色に変えられました。小さな男のお子様であられました。一同安堵し、そして歓喜の笑顔になりました。
「お姉様、御子が無事にお生まれになりました。おめでとうございます、男児でございますよ。お姉様は立派にお跡継をご出産なされましたよ」
お姉様はホッとしたように微笑まれました。
後産を終え、裂傷を縫ったお姉様は、その後高熱に魘され、起き上がることができませんでした。
近くの民家を買い取り、傷が塞がるまでしばらく当地で養生することになりました。
翌日にはデーヴァダハからお父様とお母様がいらっしゃいましたが、お姉様は朦朧とされていて、お話になられませんでした。
翌々日に旦那様がいらっしゃり、眠っているお姉様の髪を愛おしそうに撫でつけているのを傍で見守っておりましたが、お姉様はまだお休みになられたままでした。
そうして、お姉様はそのままお目覚めにならないままに、ご出産から1週間後にお亡くなりになられました。
この時お生まれになったシッダールタ王子こそ、後にブッダ(目覚めた者)となり、シャカムニ(シャカ族の聖人)とお呼ばれになる方です。
シャカムニの名が広まるにつれ、お姉様もまた聖女として祀り上げられ、剰え陰部ではなく右脇からご出産されたとのお噂も流れましたが、とんでもないことです。
お姉様は、紛れもなく人間でございました。
壮絶なご出産を経験され、それこそ、右脇に至らんとするほどの大きな傷を負われて、そのままお亡くなりになったのです。
こうして死ぬ女が国にはたくさんおります。お姉様もその中のお一人でございました。
もしもあの時、腹部の切開手術を受けられていたら、お姉様はいまだご健在であられたのではなかったか、とふと思うときがございます。縦しんばお亡くなりになられたとしても、もしかしたらお父様やお母様からのお声がけに答えられたのではないか、旦那様と最後に愛の言葉を交わすこともできたのではないか、と思うのです。
しかし、お姉様は女でございましたので、そのお身体のことは、旦那様の御許可なくてはどうにもできませんでした。誰もお姉様にお医者様のことをご相談なされませんでした。親族の私にも。
参考:森章司・本澤綱夫「Mahāpajāpatī Gotamīの生涯と比丘尼サンガの形成」『中央学術研究所紀要』原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究 モノグラム篇No.10、2005