第三十話 吃音症
最後に顔を合わせた時、私に殺されかけたと宣ってナイフの刃先を向けたうえに「イカレている」と憫笑したクソ鳥さんのことだ。例えあのユニコーンが怒声を浴びせて眉間に稲妻形を刻んでも、白の王が居を定めるこの城へ引きずって来るまでには相当の時間を要するだろう。
……と、そう考えて淹れてもらった紅茶のおかわりが二杯目を迎えた頃。
「アリスくん~、彼が帰って来たよ~」
一旦席を外していた白の王が三十センチほど開いた扉の隙間からひょこりと顔を出し、あくび混じりののんびりとした声でそう告げる。
「えっ、もう?」
思わず本音が口からこぼれ落ちると、彼は笑顔で顎を引いて肯定を示し片手で私を手招いた。
一応のマナーとして、紅茶を振る舞ってくれたウミガメもどきに向き直り両手を合わせて「ご馳走さま」と言ってから立ち上がり、まだカップの中で揺れるミルクティーに後ろ髪を引かれつつ小走りで王の元へ向かう。
「ふふっ。お話したいことがあるんでしょ~? 別の部屋を用意したから案内するね~」
***
嗚呼、まったく。どこまでも気遣いができて優しい蜘蛛ね。
温厚篤実な彼の背中を見送り、改めて感心しながら案内された部屋の扉を二度ノックする。
「……」
しかし、返事がかえってこないどころか室内からは物音一つ聞こえない。
前回は声を掛けただけでオーバーな程に驚き、大声を上げていたクソ鳥さんなのだから、何の合図も無しに自身の居る扉がコンコンと鳴けば、そこらの家具を投げつけるなりご自慢のナイフで切り掛かってきても違和感はさほどないというのに。
もしかすると今度こそ本当に『心臓発作を起こして』死んでしまったのではないだろうか?そうであったならとても面白いけれど、どちらにしろ不自然すぎるくらいに静かだ。
「入るわよ?」
念のために断りを入れてからドアノブを回し、ゆっくり扉を開く。木製の板一枚分に隔たれた向こう側に“在った”のは、残念なことにクソ鳥さんの死骸ではなかった。
部屋の隅にとんと置かれたアンティーク調のウィンザーチェア。クソ鳥さんはその上で両膝を抱えて座り、親の仇でも見るかのような鋭い目つきでこちらを睨みつけていた。
(居たのなら返事くらいしてほしいものだわ)
気付かれないようにふうとため息を溢し、扉を閉めた後で改めて体ごとクソ鳥さんの方を振り返る。
そしてアリスらしく穏やかな笑みを顔に貼り付け、まずはここへ来てくれたことに対する謝意を述べようと口を開いた。瞬間、
「なん、なんでいきっ、生きてるんだよ……」
床を這うような声音で落とされた明確な悪意が、二人きりの室内に入り込む。
自分よりも弱い生き物であると認識していたクソ鳥さんにそんな言葉を浴びせられるだなんて予想外もいいところで、脳みその中で感情の処理を終えるまで息継ぎ四回分の時間がかかってしまった。
「本当に生きっ、いい、生きてるじゃないか……ゆ、許せない……っ、ど、どうして死な、しっ、死んでないんだ……人間の、くっくせに……」
一切隠すつもりのないらしい憎悪をぶつぶつと唇から垂れ流したかと思えば、クソ鳥さんは上目遣いで私を睨みつけたまま人差し指の爪を噛み始める。
発言から推測するに、あの場で姿を消した『アリス』は死んだと断定して舞い上がっていたところに、迎えに来たユニコーンから「アリスは生きている」という旨の彼にとっての悲報を受けてひどく落胆し、心を埋め尽くす厭悪の情でこうなってしまっているのだろう。
まあ、私の知ったことではないけれど。
「ねえ、クソ鳥さん?」
「くっ、クソ鳥じゃない!! おお、お前がそうよっ呼ぶのは許さなっ、ないからな!!」
お前が呼ぶの“は”と言うことは、ユニコーンが呼ぶ分には構わないという意味だろうか?とてもとても仲睦まじい関係には見えなかったが、イカレている者同士で存外ウマが合うのかもしれない。
「あら、ごめんなさい。それじゃあ、何と呼べばいいかしら?」
思い返せばユニコーンは彼をクソ鳥や鳥頭としか呼んでおらず、まだ正式名を聞いたことがなかった。
私の問いに対してクソ鳥さんは血色の悪い顔を顰め、グリーンピース色の目を静かに細める。その拍子に、正面から見て右側の目の下にある銀色のアンチアイブロウがシャンデリアの光をきらりと弾いた。
「……どっ、ドードー鳥。僕は、どど、ドードー鳥だ」
「ドードー鳥?」
ドードー鳥は『不思議の国のアリス』などの物語の中にしか存在しないと言われることも多々あるが、実在した鳥類であり、今では絶滅している。
鳥類のくせに空を飛べず、野生であっても警戒心が薄く、巣を地上に作り滅びた愚かな生き物だ。
どこからどう見ても人間の姿形をした彼がドードー鳥を自称していることに関しては、もう今さら疑問なんて抱かない。なにより、彼が『ドードー鳥』である確固たる証拠を私は知っていた。
「ああ、そう。だから貴方、吃音症なのね」
不思議の国のアリスの著者であるルイス=キャロルもといチャールズ=ドジソンは吃音症を患っており、名乗る際にいつも「ドードー、ドジソン」と言ってしまうことを周囲に揶揄われていたらしい。
故に『ドードー鳥』という存在に自分自身を重ねており、物語内に用いられたドードー鳥はルイス=キャロルの分身であったという話がある。
だからこそ、“吃音症のドードー鳥”は、絶滅したはずのその存在を受け入れるために十分な条件が揃っていた。
「……っ!! 違うっ!!」
数秒の間を置いてから、クソ鳥――ドードー鳥は声を荒げて勢いよく立ち上がる。
「ぼっ、僕はきつ、きき吃音じゃない……っ!! あ、あの男が!! あかっ、あ、赤の王が僕をのの呪ったんだ!!」
赤の王による呪いであると主張するドードー鳥はミルクティー色の短髪を両手でぐしゃぐしゃと掻き、今にも泣き出しそうな惨めったらしい表情をしていた。
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