鏡の中の“私”(2)
続きです。
拳から血液が滴る。
細かな裂傷が走る指から、透明な破片がパラパラ重力にしたがって落ちた。
目の前の割れた鏡には歪な表情をした僕が映っていた。
やってしまった。
物音を聞きつけて誰かがこちらへやってくる。
僕は、ただ無気力に涙を流して鏡の前に立ち尽くすことしか出来なかった。
鏡の中の少女の金髪がふんわり揺れる。その屈託のない表情に油断して、不用意に鏡に触れる。
触れてしまった。
指先が触れた場所を中心にして、鏡が波打つ。
その波紋の中心に、指先が沈む。
「まずっ......!」
指を引き抜こうとするが、それとは裏腹にずぶずぶとまるで液体のような鏡に引き込まれている。
突っ込んだ右腕を掴んで引っ張るが、掃除機だったら訴訟ものの吸引力で吸い込まれる。
「こんのぉっ......!」
全体重を後ろにかけようとするが、洗濯機に阻まれて上手くいかない。
遂には足が床から離れてしまった。
そこからはすぐだった。
支えを失った体は、古くさい鏡に吸い込まれてしまう。
独特の浮遊感とぬるま湯みたいな温度が全身を包んだ。
そして、気がつく頃には......。
「ようこそ!私の世界へ!」
狭い脱衣室に二人、アリスと立っていた。
相変わらず少し薄暗い照明が、その金色の髪を照らす。
ひどくミスマッチに感じた。
ほとんど変わらない景色だが、言い知れぬ違和感を覚える。
その正体はすぐに分かった。
「ここは......」
全てのものが反転しているのだ。
振り向いて鏡を覗く。
そこには誰もいない脱衣室が映っていた。
「ここは......!」
「そう!ここは鏡の中の世界だよ!」
アリスの表情からは何を考えているのか読み取れない。
ずっとにこやかな表情をしているが、そこにどんな感情が宿っているのかなんて推測出来なかった。
しかし、こうして私の前に現れたのだから何か目的があると見て間違いないだろう。
そして超能力者の目的とはつまり......。
アリスが手出しをしてこないのをいいことに、脱衣室を飛び出す。
「あっ!ちょっとどこ行くの!?」
「やっぱ着いてくるか......」
しかしここは私の家だ。
生まれてからずっと住んでる慣れ親しんだ家。だから上手く逃げられる筈だ。
トイレとか鍵のかかる部屋に立て籠ればやり過ごせるかもしれない。
後ろを見ながら二階のトイレを目指す。アリスはスカートの所為で上手く走れていないようだった。
「これなら逃げ切れる......!」
心に出来たその余裕が再び油断を呼ぶ。その油断は取り返しのつかない失敗を招いてしまった。
廊下の突き当たりをいつも通りの向きに曲がる。
その先にあるのはただの壁だった。
「わわっ!」
それに気づいても、体が追いつかない。
後ろを見ていたから顔面からダイブは免れたが、壁にぶつかりすっ転んでしまった。
「......だ、大丈夫?」
とてとてと、アリスが倒れた私に駆け寄ってきた。
心配そうな顔が私の体な影となって覆い被さる。
「いたた......」
身じろぎしながら、その場に座り直す。
そこにアリスが手を差し伸べてくれた。
一瞬躊躇するが、その手のひらを掴む。その白い指は細くとても綺麗だった。
アリスの手を借りて立ち上がる。
「あなた......戦わないの?」
さっきから一向に手出しをしてこない。或いは今までの輩のようになんらかのこだわりを持っているタイプなのかもしれない。
「戦う......って?」
リボンを揺らして、キョトンとする。人形をそのまま動かしたみたいに可愛らしかった。
「いや......改名戦争ってあるじゃん。あなたも名前を変えたくて......だから戦いにきたのかなって......」
アリスは大きな瞳をパチクリさせる。しばらくして何か合点がいったのか「ああ!」と手のひらを叩いた。
「そのことだったら私はあんまり関係ないよ!私、この名前気に入ってるし......かわいいでしょ!」
その場でくるりと回ってみせる。
まるで名前と一緒に服装も自慢しているみたいだった。
しかしそれだと尚更私の前に現れた理由が分からない。
「あなた......何しに来たの?」
いまいちアリスが身に纏う独特の空気感に慣れず、頬を人差し指で掻きながら尋ねる。
するとアリスの表情が途端に暗くなった。
「それが......私もよく分からなくって......。とても大切な人と大切な話をしていたの。だけど急にその人の鏡に繋げなくなって、そしたらあなたの鏡に繋がるようになったの」
「は、はぁ......」
いまいち要領を得ないが、そう言うことらしい。
「ねぇ、あなたの名前はなんて言うの?」
「え、私?」
アリスがやたら勢いよく頷く。
「私は......きららって名前だけど......」
「そうなんだ!あなたもかわいい名前だね!」
食い気味に言う。
ちょっとこの子苦手かもしれない。
「あぁっと......とりあえず出してくれない?」
やっぱり落ち着かないし。
私の言葉を聞いたアリスは少し悩み出す。一体何を迷うことがあるというのか。
「うんーっと......それはぁ、出来ない......かな」
「え?」
「うん、出来ない!」
聞き返すとより確固たる意思として貫き通す。
言葉に詰まっていると、何を勘違いしたのかアリスが「あ、やり方は分かるよ!」と補足説明してきた。
尚更何でだよ。
続きます。




