鏡の中の“私”(1)
続きです。
夜。
ベッドの上に寝転がって、扇風機がカタカタ鳴る音をぼうっと聞いていた。
時折り吹く風が網戸にぶつかって砕ける。網戸には小さな羽虫や蛾が張り付いていた。
ベッドとの接点にじんわり熱がこもる。仰向けからうつ伏せになって上下を入れ替えた。
お腹の奥ではさっき食べた夕食が、やはり熱となって居座っている。
とにかく、暑いのだった。
「......海行きたい」
砂浜に打ち寄せる波に思いを馳せる。
たぶん私は海に行ったことがない。
小学校で水泳の授業は多少あったけど、やっぱり憧れるのは海だった。
「どうしたニャ?突然海だなんて......」
私の脈絡のない発言に、ゴローが疑問符を提示する。
「いやさ......夏休みだから、やっぱもっとみんなで遊びたいなって」
先日のお泊まりで完全に味をしめていた。
「......宿題進んだかニャ?」
ゴローがいらんこと言ってくる。
頭の中の青空の空想にいきなり問題集がのしかかった。
「まだ始まったばかりだし......」
「八月になるまで言ってそうニャ......」
普通に八月になってからも言い続けると思う。
「まぁでも......誘えばみんな来ると思うニャ」
「うーん......」
再び寝返りを打って、仰向けになる。天井の木目と目が合った。
「なんだか珍しく悩んでるみたいだけど......そんなに宿題が心配かニャ?」
自分で釘を刺しておいて、そんなこと言うのか......。
「さてはゴローも海行きたいんでしょ?」
「興味がないと言えば嘘になるニャ」
ゴローは特に否定もせずに答えた。
「でもなぁ......」
「だからどうしたんニャ......?」
さくらのお風呂を覗いたときのことを思い出す。滑らかな肌には似つかわしくない傷跡が刻まれていた。
それを見た気まずさを誤魔化すために何度も覗いては怒られていたのだ。
たぶんあれじゃ......。
「来ないだろうなぁ」
「だから何なのニャ!?」
水泳の授業にも出ていなかったし、やっぱりそう言うことなんだと思う。
「お風呂沸いたわよぉー!入っちゃいなさい!」
一階からおばあちゃんの声が届く。
それに「はーい」と返事をして、お風呂場に向かった。
薄暗い廊下を寝間着を持って駆け抜ける。
脱衣室の扉を開けると、やはりみこちゃんの家のとは全然違うなぁ......としみじみ思った。
背の低い洋服ダンスの上に、寝間着を置く。足拭きマットを足の裏で均して、洗濯機に腕を置いた。
みこちゃんの家と違って、全体的に物が古くさい。
照明の明るさも弱々しい気がした。
そして鏡だ。
「こいつがなぁ......」
私がこの家で最も苦手なものだ。
基本的に古くさい分には何も思わないのだが、これだけは別だ。
年季の入り方がそのまま不気味さに直結している。
後ろに誰か映っていたら......と、考えたくもないのに、毎回考えてしまう。
服を脱ごうと裾に手をかける。
服の裾から、鏡に視線を移したときだった。それが映ったのは。
「......」
「......」
鏡の中の誰かと目が合う。
その目はまるで海のように青く澄んでいた。
「なはっ......!?」
遅れて動揺がやってくる。
思わず後ずさると、洗濯機に踵をぶつけて転んでしまった。
洗濯機に背中が張り付く。
洗濯機に寄りかかるような状態になっているが、ずるずると重心が落ちていく。
バクバクと鼓動はうるさいが、恐怖は薄かった。
何故かと言うと、その姿に見覚えがあったからだ。いや、実際に見たことがあるわけじゃないけど。
金色の柔らかそうな髪に、青く大きな瞳。同じく青い色の裾の広がったスカート。その上に白いエプロンのようなものを着ていた。あまり詳しくないので、どう言うファッションなのかは分からない。
あどけない表情が、鏡の中首を傾げる。頭の上に伸びたウサギの耳みたいな白いリボンがふんわり揺れた。
その姿からはきっと誰だって同じ名前に辿り着くだろう。
「あなた......もしかすると、アリスって名前じゃない?」
洗濯機に体重を預けて、立ち上がる。
たぶん超能力者であることは確定だろう。幽霊にしちゃ顔色が良過ぎる。
私の言葉を聞いて、鏡の中の少女は嬉しそうに頷いた。
続きます。




