スペクターズ(1)
続きです。
気がつけば、深海に居た。
海底から昇る泡が弾ける音。
暖かくも冷たくもない温度。
海面はすぐ上にあるような感覚があるが、光は差し込まない。
それでも暗闇ではなかった。
水自体が光っている。
青く、澄んだ色で。
空の青より深く、その先にある宇宙の色をしている。
水に流れは無く、けれども淀んでいない。
どこまでも神秘的に澄んだ、静寂の海。
私はそこに沈んでいた。
救世主に飲み込まれた瞬間のような恐怖心は不思議と無い。
むしろどういうわけか心は穏やかに落ち着いていた。
手足を動かしても、液体特有の絡まるような抵抗が無い。
無重力の世界のようにも感じるが、無重力よりはずっと居心地がいいのだった。
何故か、本当に訳がわからないのになんだか懐かしい。
この静かさが、この穏やかさが。
全てから解放された、完全な自由。
温度も重さも、ここには無い。
私自身の体が存在しているのかすら怪しくなるくらいだ。
それでも何も不安にならない。
まどろみの中のように、浅い呼吸に沈んでいく。
「私・・・・・・死んじゃったのかな・・・・・・」
少しイメージと違うけれど、ここが天国というやつなのかもしれない。
あるいはここから海面を目指せば天国で、海底を目指せば地獄。
それだと閻魔様じゃなくて私が決められちゃうからたぶん違う。
とにかく、死後の世界なら・・・・・・。
「お母さんに、会えるかな・・・・・・」
口に出した途端、気持ちが溢れる。
胸の内に暖かい何かが流れ、それが心地良いのだけど少し切ない。
それで初めて自覚する。
私、こんなにもお母さんに会いたかったんだ・・・・・・。
もしかしたら、お父さんだっているかもしれない。
会ったこともないお父さん。
頭に浮かぶのは、ゴローの顔だった。
「・・・・・・ゴロー」
私が死んでしまったなら、つまりゴローも・・・・・・。
「・・・・・・」
みんなも、どうしたのだろうか。
あの後、どうなってしまったのだろうか。
陽子ちゃんは・・・・・・。
その瞬間、海底から光の柱が伸びてくる。
どれだけ目を凝らしても、底は見えない。
その暗がりの奥から、柔らかく暖かな光が溢れ出て来る。
「なんだろう・・・・・・綺麗・・・・・・」
もしかしたら私は地獄に招かれてしまっているのかもしれない。
地獄の光は、こんな色をしているのか。
その光に誘われるように、海底に向かって泳いでいく。
前に、下に進む度に、気泡が弾ける。
進めば進むほど、泡は溢れてくる。
その泡の音が耳一杯になったとき、景色が一変した。
「これは・・・・・・」
どうやら、私はまだ死んでいないのかもしれない。
映し出された景色は、救世主と戦ったあの建物だった。
暖かい日差しが、柔らかく屋根を照らしている。
そしてそこから伸びる影の下にあるのは、さわやかな花を咲かせた朝顔のプランター。
プラスチック製のそれに貼られた名前シールには「ようこ」と拙いひらがなで書いてあった。
これはいつの話だろうか。
あの空っぽのプランターは陽子ちゃんのものだったのか。
あの場所に、住んでいたのか。
少なくともあのプランターがあるということなら、夏休み期間かあるいはその少し前。
それくらいの時期になるはずだろう。
丁度、私が改名戦争に首を突っ込んだときか、それより前くらい。
そのプランターに手を触れようとするが、手答えなくすり抜ける。
「ふぅん・・・・・・」
まぁ感覚があの謎の深海のような場所に居る感覚と同じままだから、これが映像のようなものであることは分かっていた。
これは救世主が見せているのか、はたまた勝手に私が見てしまったのか分からない。
けれども無意味には思えない。
私がこれを見ることに、何か意味がある。
予感ではない、確信だ。
私は更に深くまで潜って行った。
泡の弾ける音と共に。
続きます。