台風一過(8)
続きです。
やたら時間がかかるななんて思っていたら、たどり着いたのは普段と違う大きな病院だった。
風邪程度でこんなところに来ていいのだろうか・・・・・・。
ああ、病院だなって、そういう匂いが鼻をつく。
やたら冷たい印象を与える白い照明。
忙しない人々の音。
今は受付を済ませて、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
寝巻きのまま、おばあちゃんの体に寄りかかるようにして、ゴローを膝に抱えて座る。
今、病院が嫌いな理由その一が発覚した。
待ち時間。
私はどうやらこうして待っているのが嫌いみたいだった。
別に友達との待ち合わせとかだったらなんてことはないが、これが病院となるとまた違う。
この空間ではリラックス出来ないし、その先にあるものも退屈で、妙な緊張感のある診察だ。
これで好きになるわけがない。
「あのすみません・・・・・・これ・・・・・・」
他の患者さんやらなんやらを避けながら、小走りで受付のお姉さんが私たちの前までやって来た。
その手にはマスクの箱が抱えられている。
「こちら、お子さんに着けていただいても・・・・・・」
「あら、ごめんなさい。急いで来ていたものだからすっかり忘れてて・・・・・・ありがとうございます」
そう言って、おばあちゃんはマスクを一枚取ってお辞儀した。
受付のお姉さんがこっちを見て、そして優しく笑う。
そうしてすぐにまた戻って行った。
おばあちゃんがボーッとしている私にマスクを着ける。
されるがままで、ぼんやりとこのマスクは無料なのかななんて、ちょっとやましいことを考えていた。
そこから少し待って、やっと名前が呼ばれる。
おばあちゃんが私の手を引き、私はふらつきながらその隣を歩いた。
音もなく稼働する空気清浄機、観葉植物と給水機、そして謎の絵画。
歩いている間に色々なものが視界を流れる。
その全てを認識しきる前に、診察室にたどり着いた。
おばあちゃんが診察室の扉を開いて、私の背中を軽く押す。
促されて、ゴローを抱えたままだけど部屋の中に入った。
今は人前ってこともあって、完全にぬいぐるみモードだ。
ちょっと恥ずかしい。
診察室に入ると、すぐに椅子に座るように促される。
病院の先生は子供向けの柔らかい笑顔を作ったおじさんだった。
顔だけ見れば、私の近所で畑を耕していてもおかしくないような感じだが、白衣を纏うことで全体の印象を医者にまとめあげていた。
「さて、今日はどうしたのかな?」
目の前に座るおじさんが、体をこちらに向けて人当たりのいい柔和な表情を見せる。
そこから、診察は滞りなく進んだ。
聴診器をペタペタされたり、口の中に金属製のなんか平べったいやつを入れられたりした。
実は少し心配していたが、インフルエンザの検査の鼻綿棒は登場することはなかった。
単純に安心。
診察は特になんら特別なことはなく終わる。
まぁ多少熱は高いようだけど、風邪ということで間違いないみたいだ。
「知ってた・・・・・・」
「まぁまぁ・・・・・・これで安心じゃない」
診察が終わって、またさっき座っていた場所に戻る。
そこにちょこんと座って、ボーッと何もない空間を見つめていた。
やっぱり予想と違わぬ風邪だったわけで、薬だけ貰えたら楽なんだけどと拗ねる。
おばあちゃんはひとまずは風邪だと分かって胸を撫で下ろしているようだった。
「ちょっと・・・・・・トイレ・・・・・・」
言いながらふらりと立ち上がる。
平衡感覚がおかしいと言うよりは、地面がふわふわしているように感じた。
慌てておばあちゃんが立ち上がる。
「一人で大丈夫・・・・・・?」
「大丈夫・・・・・・だと思う」
待ち時間がそこそこ長かったわけで、その間はずっと体が縦向きだった。
だからというわけでもないが、少し慣れた。
トイレの場所も診察室への移動のときに把握済みだ。
「まぁ大丈夫って言うなら・・・・・・まぁ・・・・・・」
おばあちゃんは煮え切らないながらも、座り直す。
おばあちゃんにゴローを預けて、トイレへ向かった。
大して長い道のりでもないはずなのに、トイレを遠くに感じる。
視界が、耳に届く人々の声が、ぐにゃりと歪む。
音たちは私の周りをドームみたいに囲み、乱雑に駆け回った。
自分の足音さえ不明瞭で、体と意識の位置がずれているような感覚に苛まれる。
「あれ?私今どこに居るんだろう・・・・・・?」
今の私は一人でトイレに行くことすらままならないのか、と少し嫌になる。
思えばこういった体験の積み重ねが病院嫌いに繋がったのかもしれない。
病院に行くときはそりゃ体調が悪いときなわけだし。
視界が、照明の白で染まる。
周りの人たちの声が秩序なく頭の中で絡まる。
反響し、そのまま頭痛に変わる。
しかし、その無秩序にスッと明瞭な声が差し込まれた。
「あれ・・・・・・水色?」
その声に手を引かれるように、意識の座標が体に戻る。
まるで視界にかかっていた薄い膜が取り払われるような感覚だった。
「あ、サメフード・・・・・・の、あ・・・・・・」
確か前に敵だった女の子だ。
なんだかやたら敵視されていたけど、今ではそれも和らいでいた。
「な、名前忘れたの・・・・・・?それとも、見るからに体調悪そうだけどその所為・・・・・・?」
「うん」
平然と嘘をつく。
サメフードちゃんは特に疑いもせずにそれを受け入れた。
「私はココ。・・・・・・本当に覚えてない?まぁ・・・・・・それは、いっか・・・・・・」
いいのか・・・・・・。
あの時とはえらい変わりようだ。
「・・・・・・それよりさ。あれ以来会ってないけど、みこって子、元気?」
ココが、自分のことは置いといてと、みこちゃんの話を切り出す。
どうしてみこちゃんの名前が出てくるのだろう・・・・・・?
「今の私よりは元気・・・・・・」
「あー・・・・・・っと?とりあえず、まぁ元気ってことにしておくよ」
ココは微妙な表情ながらも続ける。
「でさ、またあの時みたいにその・・・・・・遊びに?ね?行ってもいいでしょうか・・・・・・」
後半はなんだかやたら恥ずかしそうで、もじもじしていた。
「別に、いいと思うけど・・・・・・」
それを拒むようなみこちゃんじゃない。
というか今までココはどうしていたというのか。
そもそも病院には何の用で来ていたんだろうか。
「ねぇ・・・・・・なんでココはこんなところに・・・・・・」
疑問をそのまま口に出す。
ココは目を泳がせて、言いづらそうにする。
「ちょっと・・・・・・色々あってね」
その話し方は、何かを隠しているとかではなく、自分の中に答えが見つからないというような雰囲気だった。
なんで自分が病院に来てるか知らない人なんて居るだろうか、普通。
しかし、勝手にこの人ならそういうこともあるかと納得する。
ココが、なんというか・・・・・・へなちょこなことは朧げながら覚えていた。
「そっちこそ、どうして・・・・・・?」
聞かれて、ばーんと腕を広げる。
これが答えですと言わんばかりに、今の体調を見せつけた。
「まぁそれはそうだろうけど・・・・・・。いや、どこに向かってるのかなって」
「あ、トイレ・・・・・・」
ココとの感動の全く無い再会ですっかり飛んでいた目的を思い出す。
なんなら尿意すら飛びかけていて、危うく自覚無しで漏らしていたかもしれない。
「ああ・・・・・・。めっちゃふらふらしてたけど、大丈夫?手、貸す?」
「優しいじゃん」
かつての敵とは言え、今はただの人畜無害。
お言葉に甘えてその手を借りることにした。
ココに手を引かれて、トイレへ向かう。
その手のひらの感触があるから、意識が遠のくこともなかった。
歩きながら、ココが言う。
「別に優しくないよ」
「ん?」
一瞬何の話か分からなくて、聞き返した。
ココは続ける。
「優しいんじゃなくて、償い。そういえば私も水色の名前覚えてなくて・・・・・・」
そう言って、ニヤリと笑う。
「だから、水色も償ってね。具体的にはみことの面会のセッティングを・・・・・・」
体調不良だと、色々な人の態度が軟化する。
心配される側として申し訳ないけど、それはちょっと新鮮で面白かった。
でも、この状態が続くことは当然望まない。
「早く治れー・・・・・・!」
体は追いつかないから、気持ちだけ無理矢理駆け出した。
行き先はトイレだけど。
続きます。




