救世主(32)
続きです。
頭上にパイプが振り下ろされる。
何度も、何度も、何度も・・・・・・。
私はその衝撃を腕で受け止めていた。
少女が再びパイプを振り上げる。
そのタイミングで私は再びパイプに掴みかかった。
少女が振り払おうとパイプをぐいぐい引っ張る。
その力の強さから、長くはこうしていられないことがすぐに分かった。
「だけど・・・・・・一瞬でいい・・・・・・!」
パイプを右手で掴んだまま、左手を少女の頬に突き出す。
利き手ではないが、それでもしっかりと私の拳は少女の横面を捉えた。
少女の顔が衝撃でぐりんと角度を変える。
私は初めて人を殴った。
けれども宝石のおかげで技術なんて関係なくダメージを与えられたはずだ。
少女がパイプを再び無理やりに振り上げ、私の手が離れる。
顔の角度も何もなかったかのようにすぐに正面に戻った。
「・・・・・・痛みがないのは向こうも同じか」
しかし今のは不思議な動作だった。
頭と腕がそれぞれ独立した動作をしていて、つぎはぎのような各部位の繋がりが希薄なような動きだ。
まるで頭と手足、それぞれ別々に脳があるようで少し気持ちが悪い。
もしかしたら、それが彼女の能力なのかもしれなかった。
顔面を殴った私に、少女は容赦なく仕返しをする。
振り下ろされるパイプを防ごうと手を伸ばすが、その手を避けて頭頂部に達する。
痛みはなくても、衝撃は消えない。
私は容易く頭から道路に叩きつけられた。
しかしここで一息もついていられないのが彼女との銭湯だ。
流石にもう慣れた。
地面を両手で押して、起き上がる。
迫ってきていたパイプを咄嗟に蹴り上げて、なんとか弾くことが出来た。
「やった・・・・・・」
完全に劣勢。
しかし、私も徐々につかみ始めている。
ここから巻き返すまでは出来なくても、逃げおおせる程度の隙は作れるかもしれない。
少女はそんな私を嘲笑うかのように、弾き返したパイプをぴたりと制動する。
少女には衝撃さえ無縁のようだ。
少女が一瞬屈んだかと思えば、視界から消える。
私はそれに飛びのいた。
「どこだ・・・・・・?」
距離をとっても、姿は見えない。
後ろを確認するべきか、一瞬の逡巡が生じる。
しまった・・・・・・そう思った時には既に遅かった。
正面に既に鈍色が迫っている。
脳内で光が弾けて、衝突音が頭蓋骨に響いた。
まだ視界がチカチカしている間に、私の顔面を再びパイプが掠める。
鋭く鼻先に熱が走った。
「あれ・・・・・・?」
咄嗟に鼻を押さえる。
押さえた鼻は、熱く、まるで溶けていくようだった。
「何で・・・・・・」
押さえた手のひらにボタボタと血液が垂れる。
それは止まることなく、アスファルトと手のひらを汚し続けた。
動揺の所為か、私の体は膝から崩れ落ちる。
そして、私の体は痛みを思い出した。
「あなた・・・・・・違う・・・・・・?」
頭上で少女の声が聞こえるが、それどころではない。
ドクンドクンと患部が脈打つ。
喉の奥にも血の気配を感じる。
「だ・・・・・・はぁ・・・・・・」
視界が歪む。
音が籠る。
「・・・・・・分からない。でも・・・・・・」
痛みと息苦しさの中、少女の声とパイプが風を切る音を聞いた。
その音と一緒に視界が暗転する。
「んだぁー・・・・・・!」
しかし、響いたのはパイプの金属音ではなく、鈍い衝突音だった。
視界の闇が薄らぐ。
滲んだ視界に映ったのは、倒れた少女とその上で体勢を崩した芹だった。
芹が尻をさすりながら立ち上がる。
「いたた・・・・・・ライダーキックって初めてやったよ。あれ着地どうやってんのかな・・・・・・」
「せ・・・・・・芹、何で・・・・・・?」
芹が腰に手を当てて、いつもの調子で言う。
「大丈夫・・・・・・じゃないか・・・・・・。助けに来たよ、いっちゃん」
芹が言っている間にも、少女はゆらりと立ち上がる。
「世界を・・・・・・救う」
鉄パイプを握る腕を、水平に伸ばした。
「何で・・・・・・」
ダメじゃないか・・・・・・芹が来ちゃ。
私が何のために今まで・・・・・・。
視界に伸びる白線が、夢の中の白線と重なる。
私の血が作る染みが、夢の赤と重なる。
「何で・・・・・・!」
訳もわからないくらいに、涙が溢れて来た。
私の所為なのだろうか。
私の所為で芹は死ぬのだろうか。
震える私の肩に、芹の腕が伸びる。
「何でって・・・・・・いっちゃんにとっては、私は沢山いる人間のその中の一種類に過ぎないのかもしれない。けど、私にとっては、たった一人の大切ないっちゃんだもん」
違う。
そんなことないし、そうじゃない。
私が唯一大切に思えた芹だし、だからこそ来て欲しくなかった。
「逃げて・・・・・・!馬鹿!芹は死んじゃうの!だから夜出歩くなって、私は戦わなきゃいけないって・・・・・・!」
血まみれの手のひらで、芹に縋り付く。
芹の顔は見えないけど、遅れて芹の腕は私の肩を抱いた。
「・・・・・・馬鹿はどっちだよ」
言葉とは裏腹に、声は優しい。
「未来が・・・・・・見えるの・・・・・・!分からないかもしれないけど・・・・・・。変えようとしてたの・・・・・・!」
鉄パイプがアスファルトを叩く音が響いた。
「・・・・・・なら、今から変えようよ。きっと遅くないから・・・・・・ね?立って・・・・・・」
変えようとして、そして見える未来を当てにしていた私には分かる。
そんな簡単なことではないのだ。
芹に肩を持たれて立ち上がる。
もう何も目に入りはしなかった。
涙で歪んだ光だけが、網膜を泳ぐ。
どれだけその可能性が遠くても、縋るものは芹しかない。
その言葉だけが、今は希望だった。
芹の袖が、私の涙を拭う。
「絶対・・・・・・助ける・・・・・・」
俯いて、血の匂いを吸い込んで、誓う。
「私も・・・・・・。いっちゃん鼻折れてるよ・・・・・・たぶんだけど」
何でこうも心強いのか、特別な力は私たちのどちらにもない。
目の前の少女は準備万端だ。
無表情で、手を横に伸ばしたまま固まっている。
その瞳が、ゆっくり開かれた。
「救う・・・・・・救う・・・・・・救う・・・・・・」
「いっちゃん・・・・・・ごめんね」
芹が言いながら、私の手に指を絡める。
「私こそ・・・・・・ごめん」
こちらに向かって走り出した少女に背を向けて、遠くに見える知らない街明かりを目指した。
続きます。