救世主(26)
続きです。
寒い。
夏だって言うのに、酷く寒く感じる。
なのに汗は引かないままだった。
乾いた皮膚を生温い風が撫でる。
見知らぬ景色の中、一人。
辺りを見回しても知らない顔ばかり、知らない騒音に包まれていた。
廃工場を出てどれくらい経ったか、既に太陽は傾き始めている。
昼食も摂っていないが、空腹にはならなかった。
それどころか、今何かを食べても吐き出してしまいそうなくらい。
孤独。
届く光、聞こえる音・・・・・・その全てが私のじゃない。
慣れているはずの一人が、何故か今は苦痛に感じた。
「・・・・・・芹」
出てくる言葉は、ほとんどうわごとのように呼ぶその名前ばかり。
その名の響きに私は安心を覚えるが、同時に胸の痛みを感じた。
疲労の溜まる足を引きずりながら、少年のことを思い出す。
私は少年の言うような人間なのだろうか・・・・・・?
「分からない・・・・・・」
答えは手元にはない。
そもそも私の中に私が居るのかさえ分からない。
自分のことなのに、自分自身が酷く希薄でその存在を感じられない。
それは、少し前まではここにあったはずなのに。
自分の手のひらを見下ろす。
見慣れた手のシワが、何故か今は怖かった。
何が怖いかも、誰が怖いと思っているかも分からない。
私は自分が思っている以上に私が分からない。
だから、過去を追って私を探した。
一番古い記憶は、何歳の日かの誕生日。
どうしたって三人で食べ切れるとは思えないホールケーキを、電気を消して、家族全員で囲っている。
刺さっている蝋燭の本数は四本だった。
この頃はまだ父との距離が近い。
母の髪は人工的な金色で、あまり母親という言葉に似つかわしい姿には見えなかった。
でも何故か今の母より親しみを感じる。
私はケーキを前にして、笑っていた・・・・・・たぶん、そんな気がする。
そこで記憶は精彩さを欠き、霧散する。
次に浮かび上がった記憶の泡は、まだ小学校に入学したばかりの私だった。
私の目は斜め前の席の男の子を追っている。
その背中を睨みつけて、何度も何度も鉛筆を握り直し、手を鉛色に汚していた。
その男の子の名前も覚えていないが、確か彼が一つの目標だった気がする。
彼はそのとき一番成績が良く、私はその背中を追っていたのだ。
自分の汚れた手を見て、胸の内に喜びが湧き上がる。
テストの丸が花丸に変わるたびに、暖かい感情が私を満たす。
けれども、その喜びもつぼみに過ぎない。
テストの回答用紙を小さな腕で精一杯広げて、母に見せびらかす。
その母の手のひらが私の頭を撫で、笑うときに始めてそのつぼみは開花するのだった。
自然と涙が溢れてくる。
泣いているのは過去の私ではなく、現在の私。
胸の内に特別な動きはなく、ただ無表情に頬に涙を伝わせていた。
やがてその光景も涙に洗い流されて消える。
次に弾けた泡は、俯いてランドセルを背負う私だった。
辺りは薄暗く、帰り道であることが分かる。
歩く私は、一人きりだ。
ランドセルの横で、記憶にないキーホルダーがカチャカチャ揺れる。
確かそのランドセルの中には、満点のテストが入っていたはずだ。
私はいじけたような、拗ねたような表情をして、何かを蹴るように前のめりで歩いている。
一瞬その景色がボヤけ、次には家のドアを開けたタイミングに時間が飛んでいる。
私はそれがさっきの帰り道の続きだと知っていた。
ドアを押し開いた私を出迎える人は、誰もいない。
夕飯の支度をしている母の姿を見て、ランドセルからテストを取り出そうとするが、私はやめた。
靴を揃えて、自室へ消えていく。
それと一緒に、その風景も消えた。
次に浮かぶのは、自室の天井。
その次も天井。
天井・・・・・・天井・・・・・・天井・・・・・・。
季節や蛍光灯の種類で色合いが違うだけだった。
しかしそれに何かを思うことはない。
ただ漠然とした不安を抱えて、それを誤魔化すように机に向かった。
それを見て、私は「私だ」と思った。
しかしそんなことは当然だと言わんばかりに、記憶の泡が一気に溢れる。
その気泡の一つ一つその全てに芹の顔が映っていた。
記憶の流れに、弾ける泡たちに、鳥肌が立つ。
どこまでも沈んでいきそうで、だけれどどれだけ沈んでも芹のニヤけた顔が光を放っていた。
そして、明かりのない今に着地する。
どこかも分からない場所を歩き回って、既に日は沈んでいた。
景色はどこか見覚えがあるような、ないような・・・・・・。
その真偽は薄い闇が有耶無耶にしていた。
疲れて、その場にしゃがみ込む。
気づけば周りに人の気配もなくて、そんな情け無い私を見ているのはカーブミラーだけだった。
「そうか・・・・・・」
揺れる空気の匂いに包まれて、一つの答えに辿り着く。
「私は・・・・・・芹のところに居たんだ」
少し前までは無くしていた私を、また私は芹の中に見つけた。
芹と居る間、私は確かに居たのだ。
泡粒が弾ける幻聴を聞く。
芹は私の場所で、そこに居れば何となく未来も感じられた。
「私は・・・・・・酷いやつかもしれない・・・・・・」
少年の言うように、周りのことなんて何だって良かったのかもしれない。
芹を助けたいのも、自分を助けたいだけで・・・・・・そこに居る芹を見てなんかいなかったのかもしれない。
心の中で、何かが瓦解する。
何もかもを巻き込んで崩れる。
しかし、残ったものもあった。
それは、取り繕った自分を騙すためのものではなく、真実の、私の内から生まれた言葉。
「・・・・・・それでも、芹を助けたい。もう隣を歩けなくても・・・・・・それでも助けたいんだ」
続きます。




