救世主(5)
続きです。
少し離れた位置に立つビルの鏡のようなガラス窓が、陽の光を跳ね返してばら撒く。
その光の中を、水が弾けていた。
「にわか雨・・・・・・だね」
「そうだね」
最近雨を見ていなかった。
そもそも外に出たのが久しぶりすぎて、最後の雨の記憶さえ曖昧だ。
空は明るく、ならば一体この雨粒はどこからやってきたのか。
小さな水玉が乾いたアスファルトをポツポツ打っていた。
それは滲み、広がり、アスファルトに染みを作った。
「まぁ・・・・・・じきにやむでしょ」
芹が何かの匂いを嗅ぐようにして、手提げカバンを漁る。
「ほら」
そう言って、炭酸飲料を手渡してきた。
渡すだけ渡して、自販機の横のベンチに座る。
私もその隣に座った。
受け取ったペットボトルの蓋を開けて、そして閉める。
パキパキと乾いた音が雨に吸い込まれていった。
隣でボトルから炭酸が抜ける音がする。
芹は完全に蓋を外したようだった。
「雨ってさ・・・・・・なんか、いいよね」
「そう・・・・・・?」
芹が前を向いたまま言う。
私には雨の良さだとか、そもそも天気に無関心で、だからよく分からなかった。
「なんか匂いがさ、するんだ。雨だなーって」
「はぁ・・・・・・」
おそらくそれが好きな理由だと言いたいのだろうけど、理由にしてはなんだか違う気がした。
それは言っている本人も感じているようで「分かんないけどさ・・・・・・」と笑っていた。
「いっちゃんは・・・・・・勉強どう?受験生でしょ・・・・・・?」
「あ、うん・・・・・・」
ずっと勉強をしてきた。
中学の為に、そしてそれから先の未来の為に。
積み上げた土台は可能性を広げ、私の選択肢を与える。
「まぁ・・・・・・ぼちぼちかな」
勉強は順調だが、やはり気持ちは晴れない。
広がっていくはずの未来が私には見えなかった。
だから時々、何のためにこんなことをしているか分からなくなってしまうのだ。
「その・・・・・・せ、芹は・・・・・・?」
たぶん名前を呼ぶのは初めてだが、呼び捨てでよかっただろうか。
どっちにしろもう言ってしまったのだからどうしようもないのだけど、今更悩み始めていた。
「私・・・・・・?私は・・・・・・まぁ、受験はしないかな。ちょっと足りないや」
そう言って芹は少し残念そうにする。
私のように手が届く確信があっても気分が晴れない人もいれば、手が届かないのを嘆く人もいる。
私は何をやっているんだろうと少し申し訳なく思った。
「芹は・・・・・・成績いいみたいだし、これから勉強すれば間に合うんじゃない?行きたいならだけど・・・・・・」
「あーはは・・・・・・これでも結構やってるんだけどね」
芹は肩を落として笑う。
そして炭酸飲料を一口飲んだ。
雨はまだやまない。
静かに街を濡らしている。
雨をなんでもないような顔で走る車と、雨から逃げるように走る自転車が道路を通り過ぎた。
私は何のために勉強をしているのだろう。
またそんな気持ちがよぎる。
昔は知っていたはずなのに、今は分からない。
昔は一体何が嬉しかったのだろうか・・・・・・。
「いっちゃん・・・・・・顔が暗いよー?そんなんだから私以外友達出来ないんだよ」
「芹は友達だったんだ・・・・・・」
「そりゃそーだ。私だぞ」
訳の分からない自信に変な笑い声が漏れる。
「やっぱいっちゃん可愛いよ・・・・・・。なんでみんな知らないんだろう」
「それに関しては、芹が変わり者だよ」
今度は照れることなく、応じることが出来た。
しばらく沈黙が続く。
私もペットボトルを開けて、二、三口弾ける泡を口に含んだ。
しつこいくらいの甘さが、歯の裏側まで周る。
それを洗い流すようにまた炭酸飲料を流し込んだ。
「・・・・・・ちょっと私には甘すぎる」
「じゃ飲むな・・・・・・!」
芹が私の手からジュースを取り上げる。
しかし、すぐに返した。
「あの・・・・・・何がしたかったの・・・・・・?」
芹が私の言葉を無視して立ち上がる。
「雨、止むね」
「あ、そう・・・・・・?」
私もつられて立ち上がるが、まだ雨は降っている。
「まったく、虹の一つでも見せてくれよ・・・・・・」
芹が空を見上げ、天気に愚痴る。
「行こっか」
振り向き、私に手を伸ばした。
その後ろ側で、最後の雨粒が落ちる。
「ほんとにやんだ・・・・・・」
私はその手をとり、湿ったアスファルトの上に踏み出した。
続きます。