08 喧嘩。
意識が戻ったあと、ベッドの上で安心する。
ケータイを見てみれば、血塗れだ。
呻きそうになった。悪夢じゃなかったのだ。
今は七時。
騒がしくきょうだいが家を出た。
母も出ていったのを見て、素早くお風呂に入った。
丁寧にシャンプーして、全身を洗う。
それから、ケータイを拭いた。
着替えてすぐに家を飛び出して、自転車で走り出す。
璃の家に行って、チャイムを鳴らそうとしたら、先に扉が開いた。
私を引っ張り込んで、璃はギュッと抱き締めた。
「……もう来ないかと思った」
「どうして?」
「怖かっただろ?」
「君がいないと怖い」
璃は溜め息を吐く。
ズルズルとソファにまで、引っ張られた。
座ってから、もう一度璃は溜め息を吐く。
「いいかい? もう一度聞くよ」
「私の隣にいて」
問われる前に答えた。
またあの質問だと思ったから。
青い瞳が、私の瞳の奥を見つめた。
「あの血溜まりを見たのにかい?」
悲しそうに震えた声で彼は訊く。
「君は違うもの」
「元はそういう生き物なんだ」
吸血鬼がなんだ。
そんなの全然問題じゃないのに。
「君がいないなら、生きてけない」
「……そんなことないよ」
「いや!」
何なのこの流れ!
別れるとか言うの?
絶望感が溢れてくる。
「……子守りはうんざりになったの?」
「……ごめん、そうじゃないよ、違うよ茜ちゃん」
頭を下げた私の顔を、片手で璃は上げさせた。
深く呼吸して落ち着かせる。
「俺の匂いがついてたから、君は囚われたんだ。一歩遅れたら、君はどうなったと思う?」
「君と出会わなくても、ノラは近くで殺しをして、私を殺してた!」
「ノラだなんて呼ばないでくれ! 出会わなかったなんて考えないでくれよ!」
「じゃあ助からなかったなんて考えないでよ!」
ムカつく!!
手をしっかりソファの上に置かなきゃ、璃を殴りそう。
じっと睨み合った。
しばらくして目を逸らした璃は、目を閉じて自分の髪を荒らした。
「これでもまだ君の隣にいてもいいの?」
「いてほしい」
よかった。これで解決。
そう思うと、ホッとして笑みが溢れた。
「君って娘は……」
ようやく璃は、薄く笑って私の髪を撫でる。
「怪我は?」
「もう治った」
あら……そう。
血を飲むだけで、切り傷は治るのかな。
日焼けは、何もしないで治っていたけど。
「……あの吸血鬼が襲ってこないって本気で思ってる?」
「我慢出来る限りノラは約束を守ると思うけど」
「ノラって呼ぶなよ!」
呻き声を上げて、また璃は怒り出した。
「なんで? 何を怒ってるの?」
「君が与えた名前をその口で言う度イライラする!」
え、また嫉妬?
「君は吸血鬼には優しいのか? やめてくれよ! 俺以外の吸血鬼に構わないでくれ!」
「しょうがないじゃない! 知ってる吸血鬼は璃くんとノラだけなんだから!」
「だぁから! あーもう! その名前はやめてくれ!」
璃は大袈裟に嘆いた。
一体何がいけないの?
「ノラは名前がないからしょうがないでしょ? 他がいいの? 殺人鬼? 猫君?」
また喧嘩みたいになって、ついイライラした口調になってしまう。
「ノラを上手くあしらうことができたんだからいいでしょ? もしノラがっ!?」
いきなり睨んできた璃が、唇を押し付けてきた。
金色の瞳。
そのまま、後ろに押し倒された。
強引なキスで息をつく隙を与えてくれない。
苦しくて、もがこうにも、両手首を押さえ込まれて、抵抗出来なかった。
角度を変えて、深く深くと噛み付くようなキスにもう窒息寸前。
気がすんだのか、ようやく彼の唇から解放された。
「よく聞くんだ茜」
まだ唇が重なりそうな距離にいる璃が囁く。
私の荒い呼吸で掻き消さないように、慎重に耳をすます。
「アイツの名前がなんであれ、どーだっていい。俺が怒ってるのは君がつけた名前だ、君だ。君に名前をつけてもらえるなら、今の名前なんて捨てるよ」
囁く声にゾクッときた。
恐怖じゃない何か。どうにかなりそう。
「璃って呼べばいいでしょう? ね? それで機嫌直して」
ボォとした頭じゃあそれしか考えられなかった。
「そう呼んでくれる?」
「うん。これで許してくれる?」
「君を愛してる」
許してくれたみたい。
もう一度唇を重ねた。
長く重ねて、ゆっくり離した。
ケータイが鳴ったから、起き上がる。
「はい?」
母からの電話。死体が見付かって大騒動になってて、家に私がいないからパニックになっている。
「落ち着いて、私なら無事。カレシの家にいるから」
あーだーこーだ耳元で叫ばれるけど、璃はどこか楽しそうな笑みを浮かべている。
「うん、遅くならない。じゃあね」
電話を切って璃を見た。
「やっと俺の存在を教えてくれたね」
「さもないと帰らなくちゃいけないだもの。私が被害者の一人だって言ったらどんな反応するか……」
「その前に記者に噛み付かれる」
そう言って、テレビをつければニュースになっていた。
大々的に殺人事件って出ている。
「私、かなり触った気がする」
「俺がちゃんと消してきた……って言いたかったけど、あのノラが先に消してた」
驚いたが、それなら安心だ。
ホッとして彼に寄りかかる。ノラに対しての怒りも消えている。
自分の指紋が出てこないのはいいこと。厄介は御免だ。
「君って可愛い」
「可愛いって……俺が子どもってこと?」
「可愛い」
ニッコリと私は伝えた。
「嫉妬とかおあいことか、すぐに笑顔になるのが可愛い」
「……それって、そんなに子どもみたい?」
「ううん、好きだよ。嫉妬してくれるのは嬉しいよ、璃」
拗ねないうちに彼の顔を撫でる。無邪気な笑顔を向けられた。
「怒鳴られた時はびっくりしたけど、初めて璃って呼んでくれたね」
「咄嗟で。ごめんね」
彼の白い頬に唇を押し付ける。
「あれって狼?」
思い出して唐突に尋ねた。
駆け付けた彼のあの姿。
「……うん、君を探し出す為に狼になったんだ。一番鼻が利くから」
ソファの横に置いている私の鞄から小説を手にとって、璃は答えた。
「これなんの小説?」
「見ないで。変身すると何か能力が変わるの?」
中身を見られないように本を両手で押さえ付けて、質問した。好奇心でいっぱいだもの。彼は嫌々みたい。
「そう、怖くない?」
「どうして? 狼が好きだって言ったじゃない。かっこいいわ。じゃあ蛇にもなれちゃうとか?」
「君の好奇心には勝てないな……でも、もう終わりでいいだろ?」
だらんと背凭れに項垂れて、また小説を開こうとした。
「じゃあ他の質問」
また小説を開こうとするのを阻止する。
「あの血液はどこから手に入れるの?」
横たわった彼の足を踏まないように近付く。
小説を気にしていた璃は、質問と私の接近にどぎまぎしている。
「……怒鳴ったりしないって約束する?」
「……場合による」
「約束して」
「する、するわ」
お互い小説から手を離さず見つめ合う。
私が約束して、ようやく口を開いた。
「吸血鬼で一人だけ頼れる人がいるんだ。昔、予知夢を頼りに会いに行って彼女に助けてもらおうとした」
彼女、っていう言葉に、どうして約束させたのかわかった。
私が嫉妬して激怒しないように、だ。
反応を顔に出さないようにしなくちゃ。
「助けてもらうって?」
声はやけに落ち着きすぎて、不自然。
「人間に戻る方法だ。手当たり次第、吸血鬼を探して人間に戻ろうとした」
戻る。つまり彼は、元は人間だったってことだ。
良かった、知ることが出来た。
「彼女は知らなかった。ないって言ってたんだ……誰も知らない、本当にあるかもしれないけど、吸血鬼から人間に戻った奴を見付け出すなんて無理」
憂鬱に肩を竦めて、璃は言う。
「でも彼女に会えたのは良かったよ。生きる術を手に入れることができた。あの不味いドリンク」
ピンときた。
なるほど、あの血液は彼女から?
「彼女は看護婦だったんだ。しばらく一緒にいた時はまだ美味しい血が飲めた。病院から盗んできてくれるんだ。買うより盗む方が安全でね」
「どうして今は一緒じゃないの? 彼女はどこ?」
一緒にいたんだ、とぼんやり想像する。
「彼女も好きなところに暮らしてる。時々血液を送ってもらってるよ。俺はノラみたいな吸血鬼に出くわしたくなかったんだ、だからここにしたんだ……吸血鬼が住み着いてないからね」
溜め息を零す。近すぎて、顔に当たる。
「あら、私に会うために来たんじゃないの?」
「君が一番の理由だよ」
璃は微笑むと、キスをしたかったのか、顔を近付けた。
でも私は璃の胸を押して、近付くことを阻止。
「その人、どんな人?」
「大胆な人だった、男遊びが趣味で……問題児の姉って感じかな? 俺の予知夢を使って博打をしまくった時もあるよ」
楽しそうな笑顔を浮かべたから、私は少し落ち込んだ。
私って璃を楽しませてるかな?
「姉みたいな存在であって、なんでもないからね?」
「あ、前にも言っていたよね? えっと……カリナさん?」
私の顔を見て誤解した璃は、そうだよっと頷く。
「もう少し妬いてくれると思ったのに」
「え? よし、わかった」
またニッコリと笑みを向けたら、彼はキョトンとした。
「他の女の話なんてしないでよ! 私よりその女といた方が楽しい!?」
少し声を張り上げて言えば、璃が面食らった顔をする。
私はすぐに笑ってみせた。半分本音だけど。
「こんな感じでどう?」
「びっくりさせないでよ……」
ホッとした笑みを璃は返した。それから私の頭を撫でる。
「君といた方が何倍も楽しいよ、すごく癒される」
「私も……地球上の誰より癒される」
君がいなくなったら、きっと生きていけないぐらい。
微笑んで璃に見惚れていれば、小説を奪われた。
「あっちょ」
思わず身を乗り出して手を伸ばしたけど、彼に勝てるはずもなく、届かず宙に止まるだけ。気付いたら、暁の上に倒れていた。
彼は気にした素振りを見せず、本の中身を見る。
「璃……」
この体勢を変えたいのに、彼の足が絡んでいて後退りができない。
背中には、璃の腕が置かれてる。
「君の言ってた……吸血鬼と人間の恋?」
驚いた目で、自分の胸の上にいる私を見た。
小説の中身は吸血鬼の少年が、人間の少女と恋に落ちるもの。
「どうして教えてくれなかったんだい? 俺も見てみたい」
そう言って起き上がる。もちろん上にいた私も一緒に。
私の向きを変えて、彼は背中と胸板を重ねて、小説を私にも見えるように見せた。
「朗読でもする?」
冗談で言ってみたのに、璃は乗る。
「オッケー。君が女役、俺が男役」
やめてもよかったけど、彼との密着が嬉しくて、つい頷いてしまった。
少女視点の物語だから、ほとんど私が読み上げる。
吸血鬼の少年を演じる璃に、胸がキュンとした。
この小説の吸血鬼も肌が白くて冷たい身体。魅力的で魅惑的だって少女は、私のように虜になってる。
「……ねぇ、茜。君も彼女みたいに俺を見てる?」
途中で止めて璃は耳元で尋ねてきた。
振り向いたら喋れなくなるから、振り向かない。
「だいたい……かな、魅惑的だと思うし」
恥ずかしくなる。
「この主人公に共感できる?」
「吸血鬼の彼に対する想いなら共感できる、元々彼女と性格似てると思ってたからハマったの」
思ってた、過去形。
今じゃあ違う考え。
「人付き合いが苦手とかそういうのは似てると思ったんだけど、悲観的すぎるっていうか……彼を救うために命を捧げようとするの、そんな必要ないのに。彼がどれだけ傷付くかも知らないで。それに、他の子にも気があるのは許せないわ」
ペラペラとページを捲ってそのシーンを読ませる。
読んでいた彼は、なるほどと納得した。
「面白いね、この小説。世界観が独特だ」
「小説は憧れや願望、空想でできてるもの」
私は笑う。
そうすれば、彼の腕に力が入った。
璃がまじまじと小説を読む。私も読むけど半分もいかないうちに彼がページを捲ってしまう。
ふと、手が止まった。
少年の台詞を耳元で囁いてきて、逃げたくなる。
甘すぎる愛の言葉に、とろとろに溶けてしまいそう。
「ちょっと……璃」
「君なしでは生きてけない、だけど君が他の男を選ぶなら……」
「ちょっと! それはないからやめて! 言わないで」
我に戻って、彼の腕を掴む。
無理矢理巻き付く腕を振り払い、胸板を押して倒す。
「君以外好きになるつもりはないから! ていうかならない!」
左手で彼を押さえ付けて、右手で指差す。
キョトンとした彼は笑みを浮かべて、腕を私の後ろに回して引き寄せた。
唇が重なる。
ゆっくりと味わうかのようにキスをした。
垂れる長い髪の毛を耳にかけて、璃は指先で撫でる。
「もう帰らなくちゃ」
私から離れれば、彼はニッコリと笑みを向けた。
起き上がった璃の瞳は、キラキラに好奇心に満ちている。
「提案なんだけど」
指を私の髪に絡めてもったいぶる。
楽しそう。
「なぁに?」
「一緒に暮らさない?」
すぐに理解ができず、目を丸めた。
暮らす? ここで? 二人で?
「いっいや! そんな」
「だめかい? ここじゃあ狭い?」
取り乱して首を振ったら、璃が悲しそうに俯く。
「いいえ! そうじゃないのっ! この部屋好きよ、すごく。ただ……同居は、無理」
自分と璃を落ち着かせるために、強調させて私は答えた。
住み着いてもいいが、性格面からして璃にだらしない姿など見せられない。
洗濯、料理、掃除。まるっきり彼にやらせるなどできっこない。
「えー…」
璃は拗ねたように唇を尖らせた。
「君がいない時間って本当、退屈なんだ……」
すがり付くような目で見上げてくる。まだ諦めていないようだ。
「ごめん……住むのは、まだ無理。ね! また今度にして?」
「……じゃあさ!」
気分がコロッと変わったのか、璃が背筋を伸ばした。
「君が今すぐここに住むのと、車を買うの、どっちがいい?」
突き付けられた選択肢に、唖然とした。
意地悪とかそういうつもりじゃないと信じたいが、目が本気だ。
どっちかを選ばなくてはいけない。
「……車」
「決まり! 何色がいい? 好きな機種ある?」
勢いよく頬に唇を押し付けて、両腕を掴む璃。
かなり嬉しそう。やっぱり男の子って車好きなのね。
末っ子が車に詳しいけれど、私はさっぱりだ。
「そうね……君の好きな色とか」
「君の好きな色でいい」
「んーじゃあ共通の好きな色はどうかな? 青とか」
赤とかもいいけど……やっぱり青の方が目立たないかと思う。
「君なら赤を選ぶと思ったのに」
驚いた顔の璃に図星をつかれる。
言葉に詰まって呻いていれば、彼は笑った。
「赤にする?」
「……私のために買うなんて言わないで」
「君のために買う。中を青でいっぱいにしよう、それでいいだろ?」
優しくて甘い声。
逆らえなくなるし、その気になる。
「とびっきりかっこいいのお願いね、王子様」
「お姫様のためなら、なんなりと」
リップ音を鳴らして、また唇を重ねた。
私の王子様は、吸血鬼。
20190725