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7/21

07 血溜まりの中。




ノラネコダークゾーンの回。







 ギラギラした季節。

 日焼け防止のために、なるべく肌を隠す服を着るけど、暑くて耐えられない。吸血鬼じゃなくても、ダメージを受ける。

 なるべく、冷房の効いた店で寛く。

 その日は駅ビルのショッピングモールの一階、フードコートで涼んでいた。

 瑛美とあつきと先輩。

 昼間だから、璃くんはいない。


「茜、璃と付き合ってどんぐらい経つ?」


 誰からその質問をされたか忘れるぐらい、考えちゃった。


「五週間……かな」


 夏休みが近いからうずうずしてる。


「キスしたの?」


 思わず、吹き出しそうになった。

 丁度、アイスを口にしてたから、危ない。


「したの!?」

「え!?」


 瑛美に当てられ身体を震わせる。


「真っ赤だよ、茜」


 ニヤニヤとあつきが、身を乗り出してくる。

 だから顔に出るのが嫌なんだ!


「告白した時から……」


 小さく打ち明ける。

 冷やかしは聞き流すことにした。


「えっえっ? 二人ってどこまでいったの!?」


 瑛美に、シーと言う。

 耳と頬を両手で押さえて、恥ずかしさを耐えるが、笑われてもう無理だ。

 ブンブンと首を振る。


「え、でも璃くんの家に行ってるんだよね?」

「一人暮らしだろ」

「昼間はほとんど璃くんの家にいるけど……まぁ何もないです」


 冷静に戻って、しっかりとはっきりと言う。


「なんで?」

「瑛美、煩い声でかい」


 項垂れて私は耳を塞ぐ。想像したくない。

 その気がないのか、とか瑛美に問いただされり、ちゃんとしろよ、とか親みたいなことを言われる。


「ない! 絶対にない!」


 私はもう一度はっきり言った。

 多分、彼だってそれは考えてなんかない。

 欲情と殺意は紙一重。

 熱いキスだって、気を抜いたら噛み付きそうだもの。

 無理だと思う。

 そう言えば……噛まれたら一体どうなるんだろう?


「でも璃の気持ちは?」


 先輩が言うからちょっと困った。

 知りたい気がする……。


「先輩、聞いてみてください」


 遠慮がちに頼んでみた。

 快く了承してくれた。

 よかった、男同士なら聞きやすいだろう。


「今メッセージ送っても平気?」

「多分」


 あつきは興味津々に、先輩のケータイを覗く。


「私が聞いたなんて言わないでください」

「わあってる」


 二人が何かイチャイチャしてるけど、彼の返答が気になってそわそわした。


「おっ」


 返信がきたらしい。

 思わず身構える。


「秘密だって」


 ガーンとショックを受けてずっこける。軽く首が外れそうだった。

 頭にきてケータイを取り上げた。


「「あーっ」」


 二人が声を上げるけど、気にしない。横から瑛美が覗いても気にしない。

 画面に並ぶ文字を、神経使って読んだ。

 顔が熱くなる。

 ギュッと眉間を押さえてケータイを戻した。


「ヒュー」

「おあついねぇ」


 冷やかしも、何も通用しない。

 太陽に当たるより熱い。

 メッセージは、私には秘密にしてほしいと先ず書いてあった。

 それ以上は言えない。

 ただ、私を大切にしている。そういう内容が書かれていたのだ。

 彼がこの景色を予知していないことを祈る。


「そーいや、最近なんか行方不明者が出てんだって。知ってる?」


 散々からかってから先輩は、話題を変えてくれた。

 それなら私も知ってる。


「母親の仕事仲間の人が行方不明だって……飲みにいったあと忽然といなくなったとか」

「三、四人。駅でも消えた学生いるって」

「こわいよね……夜とか危ないし」

「大丈夫だよ、まっすぐ帰ればいいし、チャリだし」


 母の知り合いが被害にあっても、私は明るく言った。


「何なら送るし」


 提案してみた。夜間の学校を通う生徒は、特に気を付けなくちゃ。


「茜は? 璃くんは? ウチは学校より……」


 学校より他の用事での帰りが心配らしい。


「私は璃くんが送ってくれるもん」


 それに璃くんは、絶対に大丈夫だと思う。

 だって吸血鬼だもの。

 いつも私を送ったら、音速のように帰っていくもの。

 まぁ気を付けろ、と私達に先輩は言った。

 市内での事件は、珍しいと思う。

 でも危機感は全くもってない。

 私は狙われないって思ってるから。

 一人で歩いていない限り、それは絶対にないもの。


 夜は好きだ。

 丁度いいくらいに涼しいし、鬱陶しい陽射しもない。

 何より彼と居られる。

 今日は学校が早く終わったから、また璃くんの家で寛いだ。

 テレビをつけて、ゆっくりしてた。

 でも特になかった。

 退屈したのか、彼が私の肩に頭を置いた。

 あのメールを思い出して、顔が赤くなる。

 彼が嘘を言うとは思えない。

 だけど本当にそう思っているかはわからない。

 どっちだろう……。

 考えていたら、お腹空いた。

 不意に、耳元に届いた息遣いに驚く。

 寝息だ。

 彼が眠るなんて初めてだ。

 眠そうな仕草すらしなかったのに。

 そう言えば、今日は眠ってないって言ってたな……。

 璃くんの寝顔が見たくて首を伸ばしてみたら、彼の頭が肩から落ちた。

 驚いて彼を掴む。

 目を丸めた璃くんが顔を上げて、間近で私を見た。

 寝顔を見そびれた……残念。


「ボイラー室を知ってる?」


 唐突な質問に、首を傾げた。


「ううん、行ったことすらないと思うけど」

「そう……。今、ボイラー室の扉を見たんだ……一瞬だけだからどこかわからなかったし、危険かどうかもわからない」


 困惑した顔で璃くんは、どこかを見つめて考え込む。


「ごめん、起こしちゃって」

「いや、君のせいじゃないよ……ただ……君に危険がふりかかるかもしれない」

「やだなぁ、ボイラー室なんてそこら辺にないよ。大丈夫、今日は真っ直ぐ帰るし」


 不安で一杯になった顔の彼を安心させるために笑いかける。

 事件のせいで、私の帰宅は早くしなきゃならない。母親の過保護を発揮。でも当然の対応だろう。

 もちろん、情報網が少ない彼も事件を知ってて、私を心配してる。

 事件に巻き込まれないように。


「君に敵うボディーガードなんてないし」

「……だよね」


 璃くんは笑ったけど、まだ不安そう。

 璃くんのその顔、かなり見慣れた気がする。


「本当冷たいね」


 何とか話を逸らそうとした。

 手を握ってたから、それしか思い付かなかった。

 私の下手くそ……。


「低温動物だから」


 そう呟いた璃くんは、急に好奇心に満ちた目を向けてきた。

 どうやら成功したみたい。


「蛇は好き?」

「え……まぁ噛まれなければ」

「狼は?」

「好きだよ」


 頷いて見れば、嬉しそうに笑みを溢した。

 話は終わったみたい。一体何の意味があったのかと聞こうとしたら、テレビに気をとられてしまった。


「……食べたい」


 無意識に呟く。


「イタリア料理が食べたいの?」

「私、イタリアが好きって言わなかった?」


 そういえば、彼は無邪気で得意げな笑みを浮かべた。


「食べるかい?」

「うん、食べたい」

「作ってあげるよ」


 そう言って立ち上がった。

 やった!

 二人でキッチンに立つ。


「ねぇ、どうしてレストランで働こうと思ったの?」

「興味あることはやろうと思ってね、恋人に作る日が来るとは思わなかったけど、作ってみたかったんだ」

「それでイタリアのシェフに?」

「ほら俺も味覚は楽しめるから」


 まな板や包丁を取り出して、璃くんはしっかり答えてくれた。


「手伝う。他にはどんなバイトをしたの?」

「君は包丁に触らないで、約束して」

「承知いたしました、シェフ」


 私が自分を切ると思ってるから、彼は許さなかった。

 仕方なく私は冗談を言って、用意したフライパンの前に立った。


「年齢偽装をしなくてもいいのを探したよ、俺どうしても子どもに見られるから」


 じっと彼を見てみた。可愛らしいとも言えるもんね。

 絶世の美少年。


「夜じゃないとダメだしね、室内にいられるバイトとか……パン屋にカフェテリアに使用人に漁師にバイオリン作りとかもしたかな」

「……君って素敵ね」


 純粋に思ったから、伝えた。


「本当にそう思う?」

「うん、かっこいいもの。やりたいこと片っ端からやるのね」


 感情を込めれば、璃くんは嬉しそうな笑顔を溢す。


「ありがとう。君にそう思ってもらえたなら片っ端からやったかいがあったよ。かき混ぜてくれる?」


 言われるまで気付かなかった。目の前のフライパンには、切られた野菜が入って火がつけられていた。指示に従う。


「バイオリン作りどうだった?」


 ウズウズした口調で私がとても興味があるってわかったみたい。

 クスクスと笑ってる。

「楽しいよ、師匠に褒められるとなおさらね。上手いと自負してるよ」

「弾ける?」

「もちろん。いつか聴かせてあげる」


 話に夢中になりすぎて、料理の手順を覚えられなかった。


「辛抱強く待つ。他にも楽器作ったことある?」

「オルガン、ぐらいだな。先に座ってて」


 彼のことがまた知れて、ルンルン気分で私はソファに戻る。

 二人分の料理を、璃くんは運んできてくれた。

 今夜は、ディナーだ。


「いただきますっ」


 両手を合わせて食べ始める。

 璃くんは何もせず私の感想を待った。


「最高! 美味しい! 美味!」


 味付けも最高! 流石本場のシェフだ!


「嬉しいな」


 無邪気な笑みを溢して、彼は自分も食べ始めた。


「君が望むならなんでも作ってあげる」

「やった、私の専属シェフ」


 三食、彼の料理がいい。

 私は材料曖昧にしちゃうから料理をするにはあまりにも危険だ。

 それを言ったら、笑われた。別に怒らない。


「もう九時だ、帰らないと君の親が心配する」


 食事も終わり、ジュースを飲んで寛いでいれば時間になってしまった。

 溜め息が出る。

 あの過保護は煩いから、電話しないうちに帰らなくちゃいけない。

 うんざりしながらも、鞄を持つ。

 璃くんはなだめるように、背中を撫でた。

 私の頼みで歩いて帰った。彼の音速ならすぐつくけど、すぐ別れるなんて嫌だもの。

 他愛のない話をしていれば、電話がきた。本当にうんざりだ。

 もう着く、そう短く言ってすぐ切る。


「しょうがない。君が心配なんだから」


 優しく笑って璃くんは私に触れてきた。

 璃くんは私と自転車を持って、音速並みに移動しようとしたのだ。

 何度かそれをやってもらって帰ったことがある。

 もうジェットコースターなんて比じゃない。璃くんを百パー信じているから、安心して楽しんでいるけれども。

 今回は、すぐ拒否した。


「競走しましょ」

「……へ? 俺と?」


 理解が遅れた璃くんの顔は、可愛かった。


「そう、私は自転車で君より早く家に着けるか試してみたいの」

「ハンデはいるかい?」


 乗り気になってくれたみたい。得意げな笑みになってる。


「いらないよ」


 私も笑みを浮かべて、自転車に跨がった。


「転ばないで、人が居ても止まっちゃダメ」


 璃くんが注意する。


「ドジじゃないって。知らない人なんか気に留めないよ」


 構えた。


「スタート!」


 彼はその場で地を蹴ったと思う。

 私は振り向かずにペダルを踏んだ。

 いつもの帰り道は、人気も車も通らない。

 彼の気配が感じない。もう着いたのかも。

 それでも、スピードを緩めようとはしない。

 公園の前に来て、段差を踏みつけてしまって、大きく揺れた。

 その拍子に何かを落としてしまったらしい。

 チャリンと音が、耳にした。

 一瞬、振り返ってみたけど、そのまま家に向かう。

 彼はすでにアパートの下にいた。腕を組んでいて余裕さを醸し出している。


「そうだと思った」

「無理だよ」


 笑いかければ、璃くんは肩を竦めた。


「でも楽しかった」

「よかった、次は何して競走しましょうか」

「考えておいて」


 自転車を停めて、階段を上がる。


「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」


 唇を重ねて彼は飛んで行ってしまう。見慣れた光景。

 夜で人気がないから出来ることだけれど、自分のカレシが吸血鬼だってことをしみじみ実感出来る。

 溜め息を吐いて、ポケットに手を突っ込んだ。


「……うわ」


 気が付いて、顔をしかめた。

 先程落としたのは、家の鍵だ。

 しまった……。

 自然に乗せた手で、ノブを回せば開いた。


「……ただいま」


 中に入ってリビングを見る。母親がテレビつけて待っていた。

 夕飯があると言われたけど、食べたと答える。

 部屋に入って着替えようとしたけど、鍵が気になってしょうがない。

 でも取りに行くなんて、絶対に許してくれなさそう。

 あの事件のせいだ。

 どうしようか悩んでいれば、静かになった。

 覗いてみれば、母親が眠っている。

 よし。チャンスと思って、音を立てずに家を抜け出した。

 階段も慎重に降りて、走り出した。

 さっと行って帰る。それだけだもの。


「あった」


 ほっとした。ちゃんと鍵が落ちていた。なかったらショックだもの。

 キーホルダーの輪っかに指に通して、家に引き返そうとした。

 だけど、近くの自動販売機の明かりを、何かが一瞬だけ遮った気がして、立ち止まってしまった。

 何か、恐怖が渦巻く。

 走り出そうとしたら、目の前に何かいて、突撃された。

 あまりの衝撃に気を失った。


「うっ」


 目を覚ましたのに、視界は真っ黒だった。

 肺が潰れたみたいに痛い。腹も。

 よかった、折れてないみたい。

 目を凝らしたのに、やっぱり視界は真っ黒。

 どこかの部屋かも。ヌルヌルした床はコンクリート。

 ヌルヌルした液体は、なんだろう。髪にまでついて、気持ち悪い。

 妙に鉄臭い。

 何てことだろう、自分が拉致されたなんて。

 すぐにそう理解した。

 このドジ!

 自分に怒った。

 誰もいないか気配を探しながら、ポケットに手を入れる。


 やった! ケータイは取られてない!


 すぐさまケータイのその明かりで、床を照らした。

 自分の目を疑う。

 恐る恐る手を見た。真っ赤に染まった掌。

 通りで鉄の臭いがしていたわけだ。

 液体の正体ーーーー血だ。

 全身に恐怖が走り、凍り付いた。

 震え出した手で、背後にケータイを向ける。

 悲鳴を上げそうになった。

 闇に浮かんだのは、血溜まりに倒れた男。

 “彼ら”の血だ。

 奥にも学生服が見えた。

 なんとか血溜まりから抜けて、冷たいコンクリートの床に座る。

 行方不明者だ、間違いない。

 いきなりケータイが鳴り出して驚く。

 同時に凍り付くような恐怖に襲われた。

 震えた指先で確認したら、璃くんからのメッセージだ。


〔すぐに行く!!〕


 と言う文字に安心した。

 多分予知夢で見たに違いない。気になってたから、すぐに続きを見たんだ。

 多分、ここはボイラー室の中だ。

 彼がすぐに助けに来てくれる。

 それを希望にケータイを握り締めた。


    ピチャッ。


 その音に希望を打ち消された。

 凍り付いて、全身が震えそう。

 今のは、猫がミルクを舐める音に近かった。

 ここに猫はいない。ましてやミルクだって。

 あるのは、血溜まり。

 血を舐めた。それしかない。

 頭が当たってほしくない推測を出す。

 殺人鬼は人間じゃない。

 ーーーー吸血鬼だって。

 脈が焦りドクドクと血を回らせた。

 だめだ……殺される。

 早く来て……璃。

 必死に、彼の名前を呼んだ。


「お前、におう」


 背後からかけられた言葉に、心臓が一度止まった。


「吸血鬼のにおいがする、なんでだ?」


 その言葉が、決め手になった。

 吸血鬼だ。

 男……いや、男の子の声は、すぐ後頭部に降りかかる。

 逃げられっこない。

 吸血鬼の動きに、人間が敵うはずない。

 さっき試したばかりだ。


「なんでだ?」


 彼の指先が、髪の間に入る。

 思わず、振り向いた。

 だけど、そこには誰もいなかった。

 ぺたぺた。背後の血溜まりから、そんな音が聞こえた。

 勇気を振り絞って、ケータイの明かりをそこに向ける。

 闇に浮かんでいたのは、血溜まりにしゃがむ少年。

 ボサボサした髪は黒ずんで、顔は伏せていてわからない。

 血溜まりに手をつけたり離したりして、音を立てている。


「なんでだ? におうのにカミアト一つないのはどうしてだ?」

「……それが知りたくて連れてきたの?」


 何とか震えを押さえて、私は口を開いた。

 璃が来るまで、時間を稼がなくちゃ。

 喉元を切り裂かれて死体になった私を見せたくない。


「女は嫌いだ。口を開けば、耳痛い悲鳴を上げる。タスケテ、カミサマ、ニガシテ、ユルシテ。男の方が増しだ。歯ごたえあって楽しい」


 首を傾げた少年の顔が見えた。

 黒い瞳。黒っぽい髪のせいで、肌は真っ白に見える。

 唇は薔薇のように真っ赤だ。


「お前は叫ばない。なんでだ? なんでだ?」

「……叫んでも、どこにも届かないからよ」


 出来ることなら、叫びたい。

 璃に届くぐらい名前を呼びたい。

 震えていて、落ち着いた声を出すのが、やっとだ。


「なんでだ? 震えてる、心臓が爆発しそうだ、なのに声は落ち着いている。お前はなんだ? 吸血鬼の奴隷か?」


 息を飲む。

 言葉を選ばなくちゃ……。


「……そうだとしたら?」

「……わかんない」


 首を傾けたまま、少年は私をじろじろ見た。


「でも、わからない。お前を奴隷にしてなにがあるんだ? 血を飲んでもいないのに」


 そんなにおかしなこと?

 吸血鬼と人間が、血を飲まずに一緒にいることが。

 どうしてよ……。

 こんな状況なのに、腹が立った。


「恋人なのよ、吸血鬼の彼は」

「こいびと?」

「そう。他人にどうこう言われたくない。帰るわね」


 目を丸めて首を傾げた少年を放っておいて、私は立ち上がった。

 だが、そう簡単に逃がしてはくれない。

 彼の右手の爪が、五十センチは伸びた。

 コンクリートの床を撫でる音は、ゾッとする。


「お前にどんな価値があるんだ?」


 目を見開いてにんまりと口元を吊り上がった少年は、その右手を振り上げた。


「!!」


 間一髪、横に飛び込んで避けた。

 真っ暗で何も見えない。

 何かパイプみたいなものを背中にして、ケータイを翳す。

 目の前に少年。

 今度は、横から四本の爪ナイフが襲ってくる。


「っ」


 だめだ! って目を閉じたら、重力に押し倒された。

 足元は血溜まり。間抜けだけど、滑ったおかげで間一髪避けれた。


「んあ」


 パイプが揺れる。どうやら爪が刺さって抜けなくなったみたい。

 引っこ抜こうとしてる間に、私は血溜まりじゃない方に走った。

 よかった、当たった!

 扉があった。重いそれを力一杯に開いて、無我夢中で走る。

 少年はすぐに追い掛けてきた。

 遊んでるのか、人間並に走って追い掛けてくる。

 タチ悪い!

 なんて狂った吸血鬼に捕まったんだろう!

 自分の運の悪さに、腹が立つ。

 迷わずに済んで、どこかの建物から真っ直ぐ抜け出せた。

 散々避けたあと何かがキンッと切れては崩れ落ちたみたいだけど、振り向けなかった。


 ここどこ!?


 全く知らない場所に不安が募る。真っ暗で誰もいない。

 でも走らなくちゃ。

 少年に切り裂かれる前に逃げなくちゃ。


「璃くん!!」


 やっと彼の名前を呼べた。

 彼しか頼れない。大の大人が来ようと、あの少年には勝てない。


「待ーて」


 楽しそうな声にゾッとした。

 遊んでる、このガキ!!

 食べ物で遊ぶの? 誰か彼を教育してよ!


「にぃ」


 振り向いたら、少年は目の前にいる。

 大きく右手を振り上げた。

 その一撃に殺される。

 そう思った。

 何かが吠えた音に、横から突撃されて尻餅ついた。

 目を閉じていたから何が起きたのか全くわからなかった。

 目の前には、私に背を向けた犬がいた。

 青っぽい灰色の毛並みはまるでーーーー狼。

 少年は身を屈めて、睨み付けて唸っている。

 目の前の犬も喉の奥から唸っていた。


「……璃?」


 小さく問いかけた。

 何故かそう感じたのだ。

 目の前の犬みたいなのは、彼かもしれないって。

 予想が的中した。

 目の前に犬じゃなくて、璃がいた。

 毛が抜け落ちるように、あっという間に璃の姿になった光景が幻だと思えたけれど、現実みたいだ。


「お前か、お前か」


 にんまりと少年は笑みを浮かべた。

 璃が身を屈めたまま、私を守るように腕を伸ばしてる。

 私は安堵して違う震えがきて、恐る恐る彼の手に触れた。

 ギュッと握り返されて、涙が出てきそうになった。

 冷たいけど、璃だ。幻じゃない。


「お前がその女の恋人。だな。なぁ、その女の価値はどれくらいだ?」

「アンタに教えるつもりはない。彼女から手を引け。俺のだ」


 璃は低い声で、少年に冷たく答える。

 手が離れたかと思えば、激しくぶつかる音が轟く。


「やっやめて!」


 慌てて言ったけど、ぶつかる音しか聞こえない。

 二人の姿を見失った。

 そう思っていれば、コンクリートの道路上に二人が転がっている姿が見えた。

 牙を剥き出しにして威嚇し合っている。


「やめて!!」


 私の声が聞こえてないみたいに、二人は暴れた。

 少年の爪が、璃に突き刺さって、悲鳴が込み上げたけど飲み込んだ。

 璃は、少年を殴り飛ばした。

 離れたと思えば、また衝突する。


「やめなさい!!!」


 これ以上出せないぐらい怒鳴った。

 そうすれば、二人は動きを止めて目を丸める。


「やめなさい! それ以上やるのは許さないんだから!! 璃もあなたもよ!」


 指を差して叱る。

 首を傾げた少年は、じろじろと私を見る。

 素早く璃は、私の前に立った。


「お前の価値が知りたい」


 一歩、少年が歩み寄る。


「アンタに彼女の価値なんて理解できない!」


 怒りに苛立ちがふつふつと煮え上がる璃は、まだ牙を向けている。


「オレは理解したい」


 また一歩と少年が近付いた。

 慌てて飛び掛かろうとする璃の腰に腕を巻き付けた。

 これなら璃は動かないと思う。少年が何もしなければ。

 好奇心に満ちた瞳は、ダイヤのように透明だ。

 子どもみたいな表情を見て、彼なら上手く丸め込めそうだ。


「人間を殺すようじゃ無理だな!」


 璃が噛み付くように言う。


「お前は人間を殺さないで生きるのか?」

「そう! そうなの、やめて、人間を殺さずに生きていけたらわかるよ! きっと!」


 指を立てて、少年に言う。

 しっかり璃の背中から、片腕で抱き締めて止める。

 これ以上喋らないでほしい。

 きっと上手くいく。


「そうか……そうか……。わかった、やってみる」


 何度も頷いて少年はそう答えた。

 成功!

 強張った璃の身体が緩んだ。そう感じた。


「本当?」

「それで理解するなら。オレはやる、人間殺さずに生きる」

「約束できる?」


 注意深く私は小指を立てた。

 目の前に出された小指を、少年はペロッと舐める。

 璃と私は同時に震え上がった。


「大丈夫!」


 彼はただ私の手についた血を舐めただけ。

 璃をしっかりと押さえる。多分彼が動いたら、私の腕は千切れちゃう。


「左の小指出して、絡めて……そう指切り」

「指を切るのか?」

「違うよ! 約束よ、契約」


 鋭い爪を見せたから、慌てて言った。

 絡んだ指を揺らして指切りをする。


「ちゃんと殺さずに生きれば、お前の価値を教えてくれるのか?」

「そう、約束! これで契約完了!」


 ぱっと指を放した。

 上手く丸め込めた、絶対そうよ。


「破ったら八つ裂きだ」


 璃が釘を刺す。まだ機嫌が悪い。


「約束した。破らない。アンタ名前は?」

「へっ? 茜よ」


 なんで名乗るの? そう言いたげな顔を璃から向けられた。


「アカネな。オレには名前がない」

「へ……?」

「だから好きに呼べ」


 不思議な子。吸血鬼って皆そうなの? 璃以外。


「ノラ……とかは?」

「ノラ? うん、いいね」


 猫みたいだから。野良猫のノラ。

 気分が良くなったように、ニコニコと少年は頷いた。

 璃はその反対で、じたんだを踏んだ。


「ん、じゃあノラは頑張る。バイバイ」


 ぐしゃぐしゃと頭を掻いて少年、ノラは歩き出した。

 よく見たら髪は、銀色みたいだ。血で固まってるみたい。


「バイバイ……。飼い犬は食べちゃダメよ!」

「えー……わかった」


 のろのろと彼は歩いていって飛び去った。

 しばらく放心状態で立ち尽くす。

 嵐が過ぎ去った。

 璃を抱き締める腕が震える。

 璃が動いて、正面から私を抱き締めた。苦しいぐらい強い。私も対抗して彼を抱き締めた。多分、彼は苦しくないと思う。


「帰ろう……」


 震えた息を吹き掛けて、璃は言った。色々言いたいことあるけど、急がなくちゃ私がいなくなったことに気付いて騒いでるかも。

 彼にしがみついたまま、移動した。ジェットコースターに乗ったみたいな激しい浮遊感が襲いくる。

 でもついた場所は、私の家じゃなくて、璃の家だった。


「どうして?」

「そんな格好じゃあ無理だろ」


 背中を押して、璃は少し強引に中に入れた。

 私の服は血塗れ。


「君も……怪我」


 離れたくなくって、ソファまでついていった。

 彼の服から、血が滲み出ている。


「心配しないで、君は身体を洗っておいで。服は用意しておくから」


 苦悩が滲んだ表情を見て気付いた。まだ瞳が金色だ。

 傷を負ったせいか、喉が乾いてるみたい。

 私を直視しないのは、そのせいみたいだ。


「水筒とってくる」

「投げて」


 ソファに横たわった璃を見てから、冷蔵庫に行き黒い水筒を取って、彼に投げ渡す。璃は簡単に受け取った。

 あんなに嫌がっていたのに、璃はゴクゴクと飲み込んだ。

 私は時間が気になったから、すぐにバスルームに向かった。

 洗面所の鏡を見て、驚愕。

 私はかなり血塗れ。まるで頭から血を流したみたいにベタベタ。

 最悪! 璃も見たくないわけだ!

 むしゃくしゃして服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。

 嗅覚が優れていなくても、きつい臭い。

 多分、璃には強烈だったと思う。

 水だけで髪にこびりついた血を落とす。

 ノラを上手く回避出来たけど、大丈夫かな。

 被害者はそのままだし。

 でもまたノラが気を変えたらどうしよう。

 璃がいなかったら……。

 そう思うと、ゾッとする。

 いい加減出なくちゃ、そう思って私はバスルームから出た。

 脱ぎ捨てた服の代わりに、綺麗に畳まれた服が置いてある。

 着て、顔を赤らめた。

 彼の匂いがする。ちょっと落ち着かない。

 回っている洗濯機に身体を震わせて、脱衣場から出た。


「……ねぇ、璃くん」

「通報しておいた。犯人は見付けられないと思うけど、殺人事件ってことで新聞に載るかも」


 目の前に出てきた璃は、タオルで私の濡れた髪を拭く。


「こわかった……」

「俺がちゃんと予知してれば阻止できたのに……ごめん、ごめん」


 額を重ねて、璃は囁いた。


「私のせいよ……ありがとう、助けに来てくれて」

「君を失うかと思った……本当にこわかった」


 また強く抱き締める。


「……さぁ帰ろう」

「……うん」


 あまり言葉を交わそうとせず、さっさと家に送ってもらった。

 家の中が静まり返っていて、ホッとする。


「ちゃんと寝てる」


 彼が励ましてくれた。璃の首に抱きつく。

 おやすみのキスをして、彼は中に入るまでそこにいた。


 私はチェーンをつけてしっかり鍵をつけた。

 音を立てずに、自分のベッドに潜り込んだ。

 感覚がボヤけている。

 恐怖で眠れそうにないかと思ったけど、璃の匂いが充満していたおかげで、安心して眠りに落ちた。



 

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