03 予知夢。
「え? 予知したの? だから、階段から落ちる前に助けられたってこと?」
「そう。信じるかい?」
驚きつつ私が確認すると、璃くんは少々不安げに見てきた。
「うん、信じる。すごいね。私も正夢を見たことあるけれど」
「へぇ、どんなの?」
「あー……風邪で寝込んだ時に学校では席替えをしてたんだけれど、その席を夢で見たくらい」
「茜ちゃんも、素質あるんじゃないかな?」
そうかな、と私は笑う。璃くんも不安を消した。
宝くじを当てられるかな。なんて尋ねるのは、ちょっと品がない気がしたからやめた。
「璃くんは予知夢能力者」
「そう」
気に入った? と問いたそうな笑みで見てくるから、私は歩き出して考える。
「明日、暇?」と尋ねた。
「ああ、暇だよ」
彼の目が、どこか輝いた気がする。
「じゃあ、学校に行く前に待ち合わせ」
「んー、デートのお誘いかと思った」
私は顔を赤くしそうになった。今日何度目だろう。
デートに誘う? そんな度胸はない。
でも、一緒に学校に行こうって誘っている。同じかも。
「場所は?」
「それを当てて。能力者さん」
「面白いね。君に証明も出来る」
「信じてるよ」
「証明も必要だ」
ニヤリ。またあの笑みだ。口元をつり上げた魅惑な笑み。
クラッとしそうだ。
「あ、待って。自在に予知出来るの?」
「見たいものなら、なんでも」
「そうなの……すごい」
「君が通る場所で待ってるよ」
私は自転車のハンドルを持つ。その拍子に璃くんの手に触れた。やっぱり氷のように冷たい。
「じゃ、ここでお別れ」
「そうだね」
冷たい手が離れた、かと思えば、私の頬に当てられた。
ちゅっと、頬に唇が押し付けられる。
私は、今度こそボンッと真っ赤になった。
「また明日、茜ちゃん」
「あ、う、うん……またね」
衝撃的すぎて、頭が処理しきれていない。
でも、立ち尽くすと真っ赤な顔を見つめられてしまうから、歩き出した。自転車に乗って走り出したいけれど、自転車に乗るなって言われているから、耐える。
緩い坂を登って、踏み切りを渡った。
振り返ってみると、彼はその場にいて私を見送っている。
私は笑みだけを返して、前を向いて歩き続けた。
曲がり角で、私は叫びそうになる。それをぐっと堪えた。
出会ったその日に頬にキスなんて。いや、今日でスキンシップをいくつされたのだろう。お姫様抱っこに、色々。
やっぱり、イタリア人の血なのだろうか。
イタリア人って、アプローチが積極なイメージがある。
アプローチ。自分で浮かべた言葉だけれど、恥ずかしくなる。
けれども、彼も言った。私が運命の人だって。
あんな欠点がなさそうな美少年の運命の人なんて。
ああ、ドロドロしてしまいそうなほど、熱い。
胸、顔、頭。そこかしこが、熱くて堪らない。
頭がパンクしそうだ。運命の人。予知夢能力者。
今日の出来事が、頭の中でぐるぐる回っていく。
夢のような一日だった。いや、夜か。
駅前のビルを横切って、それから十五分ほど歩いていけば、大きな公園がある。そのそばの脇道。地元の人間しか使わないような小さな道を進めば、私の住んでいる家が見えてくる。ボロアパートの二階が、五人で住んでいる我が家だ。私が中学の頃にここに越してから、ずっと。
「ただいま」
テレビを見ている母と末の弟がリビングで寝て、私は二段ベッドの上、妹がその下。最後に弟が床に布団を敷いて眠る。すごく狭いアパートだ。
いつか、一人暮らしがしたいと思っているけれど、どうかな。家事をやりくりしつつ、仕事もなんて考えると、私には無理な気がする。ましてや、結婚して子どもの世話と家事なんて考えたら。
その点は、母を尊敬する。
手洗いうがいをした私は、寝間着に着替えてから、ベッドの登って横たわった。
携帯電話を見てみれば、璃くんからメッセージが届いている。
内容は、ちゃんと帰れたかどうかの問い。
私は帰ったと送り、続けておやすみと送った。
おやすみの返事を確認して、私は眠る。
夢を見た。予知夢とはいかないけれど、私は夢日記をつけるほど夢をよく見る。
彼の夢を見た。璃くんだ。
サファイアのように美しい目で微笑んでいる。
でも私は、彼をこう思った。
ーーーー牙のある吸血鬼だと。
目覚めた時、いい夢を見た。そういう感想を抱いた。
吸血鬼は好きだ。ロマンチックに描かれるヴァンパイアラブものの小説を読んだことがある。それにアクション映画の悪役でも好き。魅惑的に描かれても、ホラーに描かれても、どこか惹かれるものがある。
魅惑的、か。璃くんにぴったりだ。
夢占いで吸血鬼は、私のエネルギーを吸ってしまう人を指しているらしい。
昨日だけで、だいぶエネルギーは吸われてしまっただろう。あんなに緊張させられたのだから。きっとこれからも、そうだ。
夢の話は、今日の話題になる。
ウキウキしている私は、ベッドから降りた。
中学生の妹と弟、そして小学生の末っ子はもう学校に行っている。
母も仕事に行って、私だけ。
まずは朝食。それからシャワーを浴びた。
テレビを見て過ごしていれば、璃くんから連絡がきていないか気になって仕方ない。でも彼からのメッセージはなかった。
私から送るのは、どうしても出来ない。勇気がなかったのだ。
髪を念入りにとかす。また触られてもいいように。
メイクをしようとしたけれど、慣れないことだし、もうすっぴんを見られてしまったのだから、やめておいた。
着る服は、迷った。ああ、新しい服を買いたいものだ。ニート学生では無理な話だけれども。結局、いつも通りの服を選んだ。瑛美達に張り切っていると思われたくなかったから。
シャツにスキニー。寒かったら羽織る用の薄手のパーカー。
母が帰ってきて、夕飯を作ってくれた。早すぎるけどその夕飯を食べて、歯を磨いたら、登校だ。
足の痛みはないし、湿布も貼らずに、家を出た。
自転車ですいーっと大きな公園を横切り、駅ビル前に行くと、彼の姿を見付ける。
駅ビルの前のスクランブル信号のところに待ち構えていたのだ。
すぐわかる。だって絶世の美少年だもの。
「おはよう、璃くん」
夕方だけれど、定時制は皆そう挨拶する。
「おはよう、茜ちゃん」
薄手のパーカーのフードを被った彼は、今日も首にネックウォーマをつけている。黒いズボンにシューズ。
「証明したね」
「うん。信じてくれただろう?」
「信じた」
ちょっと胸がドキドキしている。
昨夜の出来事が、全て現実だって実感しているところ。
「足、治ったんだね?」
「うん、もう平気」
「じゃあ、今日はバトミントンの相手をしてくれるかい?」
「ぜひ」
私は自転車を降りて、璃くんと並んで歩いた。
「なんでフード被ってるの?」
「あー……太陽は苦手なんだ」
ちょっと気になったから尋ねてみれば、璃くんは一度俯く。
まだ夕方。それにもう夏だから、まだ陽がある。
「すぐに赤くなっちゃうんだよね」
「肌、白いもんね。羨ましい、私は生まれつきこれだよ」
「健康的な肌色で羨ましいよ」
納得しつつ、手を広げて見せると、冷たい手が重ねられた。
今日も冷たいことに驚きつつ、ほらまた触ってくることにドキドキ。
色白、羨ましい。私は陽に焼けても赤くなるという被害は受けない。
瑛美は璃くんに負けるけれど、やや色白だから羨ましいと思っていた。
「俺が自転車を押すよ」
紳士的に申し出てくれたから、自転車から手を離して、璃くんに任せる。
「今日は何してた?」
「あーテレビ見て過ごしてた。君は?」
「俺もテレビ見てた」
よかった。怠惰に過ごしていたことを話さなくてすんだ。
駅ビルの前にある宝くじ売り場が目に留まる。
「璃くん、しょうもない質問だけれど、宝くじ当てたことある?」
「あるよ」
「あるの!?」
そんな回答がくるとは予想外だ。
「予知夢で?」
「うん。姉みたいな存在のカリナって人がいるんだけれど、彼女にせがまれて何回か当てたんだ」
「へ、へぇ……」
女の人の名前が出てきて、ちょっと動揺をしてしまう。
嫉妬心を、必死に抑え込もうとした。
その能力を知っているのは、私だけじゃない。
「でもすごいね、その能力。本当に」
「君に褒めてもらえると嬉しいよ」
璃くんは心の底からそう思っているように、私を見つめながら言う。
照れてしまい、嫉妬は吹っ飛んだ。
「最近も当てたばかりで、だからバイトしなくても余裕で暮らせるんだ」
「それ、羨ましい」
「君のために当てるから、そのお金で買い物デートしない?」
予知夢で宝くじを当てるから、それで買い物デートをしようと、笑いながら誘われてしまった。冗談交じり。けれども、青い瞳は私の返答をじっと待っていた。
「うん、したい、な」
私はそう答える。拒否なんて、出来ない。
「本当かい? じゃあ、予知夢で見て当ててみせるよ」
フードの下で、璃くんは輝かしい笑みを溢す。
「待ってる」
そう答えてから、私は尋ねてみた。
「百パー当たるの?」
「いや、未来は変動的なんだ。誰かが決断を変えれば、俺の予知夢も外れる。だから、茜ちゃんが今日いつもと違う道を選べば、会えなかった」
なるほど、と私は頷く。真顔になった璃くんの顔、素敵だ。
「でも安心して。宝くじは外さない」
ニヤリとした笑みを寄越され、私はときめく胸を押さえた。その笑みが、一番だ。
「そうか、じゃあ危険な予知夢を見たら、璃くんは変えられるんだね」
「大抵はね」
「なんだか、君は映画のスーパーヒーローみたい」
「……映画は好き?」
話題が変わる。
私はさながら映画のヒロイン気分なんだけれど。
「好き。でも映画館より、レンタル屋さんでDVD借りて観てるよ」
「そっか。最近はどんな映画を観た?」
最近観た人気の映画の話をしながら、急な坂道の上にある学校に到着。
すれ違いに全日制の生徒が帰っていく。彼女達はぽーっと璃くんを見ていた。そんな視線をやっぱり気にすることなく、昨日案内した駐輪場に行く。
駐輪場は二階建てになっていて、私が住んでいるアパート並みにボロい。二階というより、一階と地下一階という感じの作りになっている。
その一階の手前のスペースを定時制が使っている。
すでに来ていた先輩とあつきに「お二人さん、お揃いで」と冷やかされた。やめて。
あとからバイト終わりの瑛美が到着。ちょうど授業も始まる頃なので、教室に向かった。
昨日と同じ、窓際の席に鞄を置いて、教科書を出す。
後ろの席に、璃くんが座る。その席順で授業を受けた。
昨日より緊張はしなかったのは、すっかり彼の存在に慣れたおかげだろうか。
二限目の授業が終わると、トイレに行きたくなったので席を立った。
「お手洗い? 一緒に行く」
瑛美とあつきもついてきたので、璃くんを残してトイレに向かう。
でも瑛美だけは化粧直しをしていた。
「知ってる? バイトの先輩から聞いたけど、イタリア人って告白する文化がないんだって。だからいきなりキスするらしいよ」
口紅をばっちりつけて、瑛美が言う。
私は昨日、璃くんにされたことを思い出した。
あれは、告白と受け取るべきなのだろうか。
でも、璃くんは日本に住んで長いみたいだし、日本の告白する文化を知っているはず。
「茜に気がある」
あつきがにやにやする。
「そうかな」
瑛美は反論するような声を素っ気なく出す。
「二人で登下校して、何話してた?」
「普通の話だよ」
予知夢能力のことは、絶対に私からは教えない。
だって、特別感を味わいたいもの。
デートに誘われたことだって。秘密だ。
先に教室に戻ると、頬杖をついて待っていた璃くんが笑いかけてきた。
ホッとすると同時にドキドキする。
ああ、本当に恋をしているのだと自覚した。
四限の授業を終えて、放課後の部活動。
約束した通り、私は璃くんとバトミントンをすることになった。
断られた瑛美は可愛らしくむくれる。でも内心、私にメラメラと嫉妬しているだろう。
璃くんから、遠い向こうのコートに行ってくれた。
ちょっと緊張するな。なんて思う。でも昨日に比べたら、へっちゃらだ。
笑顔で合図して、羽根を彼の元に弾いた。
パンッ。
ちょっと早いのが返ってくる。
加減してるって、すぐわかった。
どう手加減すればいいか、迷っているような顔をして、手応えを確かめてる。
ムカッてきて、そのムカつきを込めてラケットを振った。
ネットすれすれにコート内で落ちる。
驚いた顔の璃くんが、私を見た。
私は、にこっと返す。
パンッ。
パンッ。
スパン。
まだ彼が手加減するから、思いっきりスマッシュを打った。
「……怒ってる?」
「手加減されると怒っちゃう」
恐る恐ると訊いた彼に、明るく私は言う。
対戦相手が瑛美なら、女の子らしくわざと負けて猫撫で声を出すところだろうか。あいにく、私はそんな可愛い女の子を演じる気はない。
「……」
パンッ。
羽根が跳ねる。
スパン。
スパン。
パンッ!
「!?」
いきなり早いスマッシュが、私の足元に落ちた。
唖然とした顔で彼を見てみる。
「俺は負けず嫌いだよ」
ニッと爽やかに髪を掻き上げる彼に、また胸が弾む。
「私も負けず嫌いだよ」
にんまりと私は笑みを返す。
少なくても私は敵意むき出しで勝負した。
璃くんは、楽しそうに笑ったまま。
彼に点をとられる度、悔しさが込み上げてくる。
その悔しさで打ち返す。
スパン。
スパン。
お互い、相手の隙を狙って打ち合った。
「降参!」
没頭していれば、いきなり璃くんは手を上げる。
我に戻った。
「……」
恥ずかしい。たかが遊びで、何やっちゃってるんだか。
慌てて、壁にすがり付いて座った。
気付かなかった。息がこんなにも上がってる。
「次ウチと!」
「ごめん、疲れたから休ませて?」
また瑛美が玉砕していた。
「茜ちゃん、強い!」
璃くんが、すぐ隣に来て笑う。
「色んなスポーツで君と対決したいよ!」
無邪気に笑う彼に、胸の奥がキュンってなる。
胸を押さえて、足をばたつかせたいぐらいだ。
「本当、なんか正直というか無邪気というか……直球だよね」
「?」
クリンって、首を傾ける彼はわかってないみたい。そこは自覚していないのか。
あれかな? イタリア人だから、感情豊かなで素直なのかな。
……可愛い。
眩いばかりの笑顔の彼を見て、気付く。彼は全然息を乱していない。本当に本気出していたのかな。私は疑問に思いつつ、鞄から取り出したハンドタオルで汗を拭った。
休憩してから、璃くんは瑛美と対戦をした。やっぱり女の子らしく、負けていたし、猫撫で声で「いやーん!」とか言ってたから真似出来ないと思う。無理。男性を勝たせてあげる上に、猫撫で声をだすなんて。
璃くんが加減して打ち返す姿を眺めさせてもらった。
かっこいいなぁ。ちらっと見えた腹部は、割れているように見えた。またもやキュンとしてしまう。
気付いたら、もう一時間経ってたからネットを片付けた。
勿論、彼は手伝ってくれる。
ラケットを詰めたカゴを返すために、職員室に向かう。
カゴを先に持てば、私の鞄を彼は持ってくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
体育館を出て、渡り廊下を璃くんの後ろを歩く。
ブゥウン!
不意に、バイクのエンジン音に振り返った。
もうスピードで後ろからバイクが走ってきたのだ。
「越前!」
体育館の鍵を閉めたであろう先生に呼ばれて、自分が危ないって気付いた時には手遅れだった。
ライトで目の前が真っ白になる。
ガシャン!
カゴからラケットが散乱して、渡り廊下のコンクリートの上に倒れた。
「茜!!」
「大丈夫か!?」
瑛美達と先輩と先生が駆け寄った。
「ごめん! 本当ごめん!!」
身体を起こせば、ぶつけってきたバイクの主は、ごめんを連発する。
同じクラスの不良の生徒だ。でも確か年上だったような。数少ない部活、野球部に所属していてその帰りだろう。
「平気です」
精一杯に言った。疲れた身体に激痛が走って、笑えないけど。
脳みそが揺れたから、頭がぼんやりした。
「怪我は?」
「あ……? 血が出ちゃった」
右手の甲に、掠り傷だけ。
へっちゃらって今度こそ笑って見せた。
だけどすごい血が溢れてる。血の匂いが鼻に届くほど。
「……あれ? 璃くんは?」
彼が居ないことに気付いて、私は璃くんを探した。
前方にいたはずなのに、どこにも居ない。
忽然と姿が消えたなんて。
「保健室行こう」
瑛美達も不思議に思ったけれど、立たされてすぐ近くの保健室にまで背中を押された。
まっいいか……。私の鞄を持って帰らないよね。
あまり気にせず保健室に行った。
二日連続保健室に怪我して来たことで、先生は苦笑。
「笑わないでよ先生」
文句をグチる。
「昨日の怪我は?」
「治った、こっちも掠り傷」
うんざりしてきた。これでは、まるでどじっ子だ。
普段なら怪我しても、保健室に駆け寄らないからな……私。
「……璃くんは?」
「さっきまでいたのにな」
気付けば、大袈裟に包帯が巻かれていた。
「ちょっと先生!」
血の匂いが消毒液の匂いで消される。
でも右手をこんなぐるぐるにされては困るじゃないか。
苦情は、跳ね返された。
ガクッと肩を竦める。
「他は?」
「アザぐらいで済んだと思います」
もう痛みは引いてる。
「先、帰ってていいよ」
瑛美はカゴを持った。瑛美の鞄をあつきが持つ。
先輩と先生と一緒に職員室に行ったので、私だけは駐輪場に向かう。
保健室をあとに、彼を捜すことにした。
途中でぶつけてきた生徒にまた謝られたけど、一言だけ返してスルー。
どこかな……璃くん。
ちょっと心配になったけど、捜しつつ駐輪場に向かった。
私の自転車の側に、彼はいたのだ。
安心して駆け寄ろうとしたら、璃くんは不安そうな顔で私を見つめた。
綺麗な顔でそんな表情をされたら、こっちまで不安になってしまう。
「「大丈夫?」」
声がぴったり重なって、互いに驚いた。
「どうして俺に訊くの? 怪我したのは君でしょ」
「だって不安そうな顔してるんだもん!」
困惑した彼に、子どもの言い訳みたいに私は返す。
「だって……君が血を出すから……」
包帯で巻かれ消毒液臭い私の右手に目を向けて、辛そうに彼は顔をしかめた。
「血が苦手なの?」
ギクリとした顔で私を見る。
「そう……なんだ、そう。血に敏感で見たくもないんだ」
わざとらしく頷く彼に、不信感を抱いた。
「ごめんね、気をつけるよ」
でもそれ以上何も聞かなかった。
もうこの話はしてほしくなさそうな顔だったから。
「怪我は? 痛む?」
「もう治った、だから大丈夫だって」
明るく言えば、彼に笑顔が戻った。一安心。
「いつも危なっかしいの? 君の生活は」
「え? 私は運動音痴でもドジでもないから!」
ムキになって言えば、すぐに璃くんは身を引いた。
「違うよ! 君は運動神経抜群だ! そうじゃなくって怪我しやすいかを訊いたんだ」
「あ、そう……。多分しやすい方だと思う、大抵は気にしないからしてないと同じだけど」
フンッと気取ったように吐き捨てれば、笑われる。
「車にひかれたことある?」
「それはないよ、流石に」
ひかれかけたなら幾度もあるけど、それは言わないでおこうかな。
笑いながら自転車を転がして二人並んで歩いた。
昨日と同じだけど、昨日より彼は少し離れてる。
……距離を置いてる?
坂道の下の一つ目の信号を渡った
「そう言えば、璃くんの家はどこ?」
「近くだよ、もうちょっと先だけど」
「駅の近く?」
「そう。茜ちゃんは駅の向こうだよね?」
「うん。大きな公園があって、その近く」
どこだろう、と見渡してもわかるわけないか。
二つ目の信号で、璃くんは立ち止まった。
「じゃあね」
「あ、うん。じゃあね」
今日はここでお別れか。自転車に跨がってペダルをこいだ。
そういえば、今日は頬にキスをされなかった。
信号を渡ってすぐに振り返ったら、彼の姿はもうない。
忽然と消えてしまったよう。
ピカピカと点滅する信号機の左右の道を探しても、いなかった。
どこいったんだ?
不審に思いながらも、帰り道を滑り込んだ。
翌朝。魘されて、私は起きた。
汗かいて、覚束ない足で洗面所までいく。
長ったらしい髪を掻き上げて、顔を洗った。
汗に濡れた服を脱ぎ捨て、すぐにお風呂に入る。
昨日は相当疲れた。
シャワーの水を浴びながら、包帯をとって昨日を振り返る。
大袈裟だよ、本当。傷はもう塞がってる。
何で切っちゃったのかわからない。親指の下から手の甲に伸びた赤い線。
ふとケータイが気になって、慌てて身体を洗って風呂場から飛び出した。
案の定、彼からのメッセージが数分前に届いていたのだ。
おはようって挨拶と、今何してるかの問い。
おはようと返し、お風呂上がりと答えた。
怪我のことも訊かれたから、大丈夫とすぐに返信しておく。
魘されたことなんてすっかり忘れて、彼とメッセージのやりとりをしつつ、テレビを見て過ごした。
昨日と同じ場所で待っている、ときたので、今日も一緒に登校出来ることを喜んだ。
自転車を滑らせて、向かえば璃くんがいた。
幻のように見えるのは、彼の存在感がそこに馴染んでないからかも。
青い瞳と日本の街風景。あまり似合っていない。
「おはよう、璃くん」
「おはよう」
璃くんに見惚れつつ、笑顔で挨拶をする。
彼は何かよそよそしい笑みを返した。
その時は、気に留めなかったのだ。
彼と登校できるのが嬉しかったから。
他愛ない話をしながら、歩いて登校して、教室に入って、席についた。初日と同じ。璃くんが後ろにいる。
彼はまるで見張るみたいに、私を見つめていることに気付く。
なんか……変だ。
「……どうしたの?」
「何が?」
にこっと笑みで聞き返すけど、やっぱり変だ。
様子……変だよ。なんか胸がざわめく
じっと見つめてくれるのは嬉しいけど、黙ってたらこわいな。
チャイムが鳴って、教師も生徒も教室に入った。
璃くんは、ただ、私から目を放さない。
「私の顔に何かついてる?」
授業は始まっているけれど、ちょっと対決して見つめ返す。
不安が広がるから、顔は赤くならない。
彼の考えてることを当てようと見つめた。
教師が出席確認をしてるけど、ほとんどの生徒は反応しない。それはいつものことだ。
「どうして?」
笑みを浮かべてる璃くんは、やっぱり私から目を逸らさない。
「ずっとこっちを見てるから」
「にらめっこでもしてるの?」
瑛美達が笑う。
端から見ればそんな感じ。
でも本当に璃くん、おかしい。
不安が募る。
なんかよくないことでも起きてる。そんな気がした。
彼は笑みを貼り付けたまま。表情を変えず見てくる。見張るみたいに。
顔を逸らす様子はない。
黒板を写さなきゃ。
そう思ったけど、目を逸らしたら彼が消えちゃうんじゃないかって焦った。
すると彼の青い瞳が動く。
視線は私から外れて、上の方を見た。
同時に後ろの窓ガラスが揺れる。それを感じた気がする。
振り返ったつもりだったのに、視界は真っ黒。
パンッ。
大きな音に、身体が震え上がる。
ガラスが割れる音が大きく響いて、チャリンチャリンって落ちていったのがわかった。
ものすごい近く。
多分、私のすぐ後ろの窓ガラスが割れたのだ。
「茜!!」
「水梛! 越前!」
悲鳴と瑛美達と先生の呼ぶ声。
璃くん?
彼の名前を聞いて、私はようやく自分の状態がわかった。
視界が真っ黒なのは、机の上に顔を埋めてるから。
嗅いだことのなある甘い香りが充満しているのは、璃くんが覆い被さるように私を包んでいたからだ。硝子から守るために。
パラパラ。
髪を掻き荒らして璃くんは頭についたガラスを落として、すぐさま私を立たせた。
立ち眩みしたけど、彼に支えられる。
「大丈夫?」
混乱した私の顔を伺って璃くんは訊いた。
冷たい手が、私の顔を包む。
「だ、大丈夫……君こそ」
「全然!」
ほっとした様に笑う璃くん。
彼以外、一同は騒然としていた。
私達が怪我してないかを問いただした先生は、何やら指示してる。
「茜ちゃん……?」
呆然と立ち尽くしてる私を璃くんが呼ぶ。
私の目は一人が拾った野球ボールを捉えていた。
外からアレが飛んできたんだ。私が座っていた席に広がる硝子は見たくない。恐怖で倒れてしまいそうだ。
教師が集まってきた。
投げた犯人は定時制の先輩だ。彼が私達に深々と謝ったけど、困惑と何かで何も返せない。
璃くんが代わりに返してくれた。
「怪我してないので大丈夫です。先生、彼女の顔色が悪いので保健室に連れていきます」
否定もできず、いつの間にか彼に抱え上げられたけど何も言えなかった。
今週、三度目の保健室に呆れたけど、文句を言う余裕もない。
入れ違いなのか、保健室に先生はいなかった。でも開いていたので、黒いソファに降ろされる。そんな私の顔色を、璃くんは伺った。
「茜ちゃん? 大丈夫?」
冷たい手が、また頬に触れる。
恐怖のせいなのか。口が開けない。
「怪我……ないよ?」
勿論、君のおかげで無傷。
だけど、身体の感覚がない気がする。
「茜ちゃん……」
返事がないから、彼の顔に不安が広がった。
何か言わなくちゃ。笑わなくちゃ。
「息が詰まって……頭が停止してた」
声が震えた。でも伝わったみたい。
「ごめん、咄嗟で……保健の先生まだかな」
ぎこちない笑みで、彼は私の頭を撫でた。
咄嗟? それにしては凄い反射神経ね。
口にすれば皮肉が言えて、少しは気が楽になるのに。
「ショック? こわかった?」
また暗い顔をしたから、璃くんは尋ねた。
「わ、かんな、い」
力なく首を横に振る。
どっちかな。
三日連続、大怪我を負いそうになったから、死を覚悟したかな。
明日には死んでそう。
目の前にしゃかんで璃くんは、心配そうに私を見上げた。
「大丈夫だから、ゆっくり落ち着いて。ベッドで寝ておく?」
私は何も考えずに、ただ彼の手を握り締める。
離れたくない。
お願いだからそばにいて。
「大丈夫」
伝わったのか、彼は隣に腰掛けて頭を撫でてくれた。
それで余計苦しくなって、耐えきれず彼の肩に頭を預ける。
そうすれば、彼は腕を回して抱き締めてくれた。
優しくひんやりした腕。楽になってきた。
ただ甘えて、彼にしがみつく。
ド、ド、ド、と静かな心音が聞こえた。
頭の上に彼の吐息がかかる。
完全に、私は落ち着いていった。
それで疑問が過ぎる。彼は確かに誰よりも早くボールが窓ガラスに向かってくると気付いた。でも座っていたはずの彼が、瞬時に私の隣に立って盾になるなんて可能だろうか。
いや、でも、実際出来たわけだし。
そこで保健の先生が丁度よく戻ってきた。
「大変だね、怪我は?」
「ない」
きっぱりと言って、立ち上がる。
「茜ちゃん、具合は?」
「治った!」
璃くんの問いに、ちゃんと笑えた。
「水梛は?」
「大丈夫です」
「窓、どうなりました?」
「ちょっと問題になってね……怪我人が出なかったからよかったんだけど、二年生は授業出来ないから、皆今日は帰宅」
驚いて私と璃くんは顔を合わせる。
「ほら、全日制も使ってる教室だから、全日制の先生とも揉めててね」
それで先生は保健室を留守にしてたんだ。
昼間の生徒と共同で使う学校だから、問題になる。
帰ろうか。
選択肢はそれしかない。
昨日と違いぴったりとくっついて、璃くんは歩いた。
モヤモヤと何かが積もるのを感じる。
教室に戻り、荷物を取ろうとしたけど、瑛美達がもう運んでてくれていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
心配の眼差しに、笑みを送る。
「今日どうする?」
「生きた心地しないから、帰るよ」
苦笑して、私は駐輪場に向かった。
やっぱり璃くんは、ぴったりついてくる。
自転車を転がして、瑛美達も歩いた。
「早く終わると暇だよね」
「帰って寝たい」
早く帰りたいオーラを出す。
璃くんが気にしてる。
二つ目の信号で、瑛美達は先に帰った。
璃くんはどうやら今日は、まだ消えないみたい。
「送るよ」
「公園に寄るけどいい?」
「……帰りたいんじゃないの?」
「瑛美達を帰らせたかったの」
私は力なく笑って、近くの公園に向かった。
昼間は子ども達が登って遊ぶような遊具が一つ、滑り台と砂場が一つ。小さな公園だ。たまにサボってそこでたべっているたまり場の一つ。
「でも……帰った方がいいんじゃないかな」
何かを悟って、彼は力なくそう言った。また不安そうな顔。
「まだ七時にもなってないんだよ」
すっかり暮れたけれど、帰りたくない、君と居たいから。
小さな公園に到着して、自転車を停めた。
一つしかないベンチに腰掛ければ、暁君はただ立ち尽くしてた。
不安げに私を見てる。
「……今日、何の夢を見たの?」
静かに問えば、彼は後悔した顔を見せた。
予知夢の話をしなければよかったっていう後悔だろう。
「君が……血塗れになる予知」
彼が見張るように見てたのは、そういうことだ
「君がいつ怪我するかまでわからなかったから……待ち伏せして」
「見張った」
「……そう」
何度も璃くんは頷いた。
目を合わせない私に、不安がっている。
「大丈夫……? 俺が……嫌になった?」
「言ってくれないんだもん!」
声を上げれば、彼は震えた。
「予め言ってくれれば、あの場で笑えてたよ! 貴方の様子がおかしすぎで不安だったのよ! ガラスが割れて……知ってたんだって悟って……気持ち悪くなった」
まるで悲劇のヒロインみたいに嘆いた。
だって……だって……怖かったんだもん。
不安になってたら、急に窓ガラスが弾けた。
不安を爆発させたスイッチを押したみたいに。
ガラスが周りに落ちてきて、ゾッとした。
「ごめん! ごめん!」
謝るけど、一定の距離のまま璃くんは近付かない。
「反射神経抜群で? 予知夢も見れちゃう。貴方一体何なの?」
彼を疑いたくないけど、止まらない。
「……俺が不気味?」
悲しげに訊く彼は、夜に映えて見えた。
白い肌に青い瞳。プラチナブロンド。
悲しげに消えてしまいそう。
「……ごめんなさい」
急いで立ち上がって璃くんに抱き付いた。
悲しくなって、こうしなきゃ治らない。
彼は驚いて震えたけど、腕を回して私の背中を撫でてくれた。
「不気味なんて思ってない……ただ……」
上手く言えない。
この胸に膨らむ感情はなんだろう。
「……貴方が隠すから……」
冷たい。心音が一定だ。
何か。何かを見逃していて、何かを隠されてる。
「……帰ろう」
「……何を隠してるの?」
彼がわからなくなってきた。
涙声になる。
最初から、今までの会話と彼の行動を思い出した。
そして、あの夢。
玩具箱を開けて溢れ出してきて、一つの結論が出た。
思わず、彼から離れる。
「……ちがう、よね?」
彼は私の様子を見て、暗い顔をしていた。
「……何が?」
わかってるのに。彼は聞き返した。
冷たい風が、背筋をゾッとさせる。
身体中の血が引いていった気がした。
20190723