レイディロは仕事を引き受けたくない
「お前は、その子を手放せないだろう?」
鏡の中から顔を覗かせた老人が、咽喉の奥で笑いを噛み殺すようにして意地の悪い声を立てる。およそ顔の下半分がたっぷりとした白髭に蔽われているというのに、厭らしく笑っている様子がありありと分かってしまうほどだった。
菖蒲色をした眼が、くにゃり、と弓形を描く。
「悪い話ではないと思うが……どうするかね、レイディロ・ミディーリ」
明日から新年だって言うのに、どうしてこんなことになったんだ、と大きな溜め息を吐き出したところで、レイディロに残された道はひとつしかなかった。
話は、しばし時間を遡る。
◇ ◇ ◇
「ああ、魔術師様、明日から新年という日に、誠に申し訳なく……!」
「いやいや、大丈夫ですから」
「しかし、正魔術師の方々は、王都でお役目があるでしょう」
「まあ、そんな話もありますねえ。ははは」
出迎えてくれたリリドーラの町長が操り人形か何かのようにぺこぺこと何度も頭を下げるものだから、レイディロは苦笑しながら片手を振ってみせた。
この大雪の中、わざわざ扉の外で待っていた彼から、新しい長に選任されましたので、という話を聞いたのは、確か嘆きの終わり頃だったように思う。こうして数年に一度、新しい長が初めての年末を迎える度に同様の会話が繰り返されるものだから、レイディロはもう、自分にその役目がないことをいちいち説明する気にもなれなかった。
シエルランツ王国に住まう者であれば誰でも、新年を祝うエヴェイラ祭で、正魔術師の多くが王都へと喚び出されることを知っている。だから本来であれば、一年の終わりの日に、こんな北方の小さな町を訪れるだなんて、普通の魔術師であれば考えられないことなのだ。
けれど、残念ながらレイディロは普通の魔術師ではない。
恐縮し続けている町長にはそれ以上何も言わず、勝手知ったる他人の家とばかりに、レイディロは屋敷の中へと一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
シエルランツ王国は、『東の小大陸』と呼ばれる大陸のおよそ南東側に位置している国だ。大陸を二分するトリゾルデ皇国との間には、未だかつて誰も山越えに成功した者のいない、女神ディテの背骨――ピリーニャ山脈が走っている。
一年を通して気候が穏やかな国内では珍しいことに、レイディロが暮らすビーゲルディア王領は寒冷地帯に位置していた。領地の北西側が山脈に面していることも相俟って、眠りの季節ともなると、領内の至る所を吹雪が襲う。
その中でも更に最北の町――リリドーラでは、喜びの始まりまで雪が残っていることも珍しくはなく、実際、レイディロもこの十年近くは、一年のおよそ半分を雪に囲まれるような暮らしをしてきたのだった。
「あと、ピピ麦の育ちが悪いときには、この薬を肥料に混ぜて下さい」
普段のレイディロはリリドーラの北西に広がる『最北の黒い森』の外れで生活をしているから、だいたい二日か三日おきぐらいの頻度で町を訪れる。
薬草から作った、人や作物に用いるための薬を渡したり、病人の様子を診たりすることが、今のところ唯一とも言える仕事だ。おそらく、このシエルランツ王国の中で一番暇な魔術師であるのは間違いない。
「他に何か、必要なものは?」
担いでいた袋の中から次々と袋の大きさに見合わぬ量の薬を取り出すレイディロに、町長は眼を白黒させながら「ああ、ありますあります」と頷いた。
「そろそろ、フィーヴィを植えようと思っているのです」
「年が明けますからね。では今度、よく育つ薬を持ってきましょう」
「ありがとうございます、魔術師様」
「いえいえ、これも仕事の内ですから」
「あの、少しばかりですが……いつもこんなもので申し訳ないのですけれど」
そう言いながら、町長が抱えていた包みを差し出す。ごわごわと厚い紙に包まれていたそれは、受け取ったレイディロへと濡れた土の香りを運んだ。
「今朝収穫した、最後のバーデンです」
「最後なのに、いいんですか?」
「いやいや、最後なのが申し訳ないぐらいで……」
「そんな、ありがとうございます。バーデンは好きなんですよ」
「ああ、それは良かった!」
安堵の溜め息を大きく漏らす町長につられて、レイディロも小さく微笑む。
シエルランツ王国内には多くの魔術師が存在しているけれど、そのほとんどは、貴族の家や個人に仕えているか、王都の魔法塔で研究に明け暮れているか、ふらふらと当て所なく流浪している魔術師だ。
彼らに仕事を依頼するにはお金がかかるし、田舎の方では、魔術師に会うこともないまま一生を終える人民も少なくない。
そういった中で、お金を払う必要もなく、町の畑で収穫した野菜などと引き換えに世話を焼いてくれる魔術師の存在を、彼らが心の底から有難がっていることをレイディロ自身は十分に理解していた。小さな町に暮らす人々にとって、毎日を恙無く生きていくこと以上に大切なことなどないだろう。
だから、生まれも育ちも普通ではない、本当にお金には困っていないレイディロと町人との関係は、これぐらいの距離感で十分なのだった。
「では、また数日後に」
「本日もありがとうございました。また、どうぞよろしくお願いします」
屋敷へ訪れたときと同じく、どうにも控えめな町長は何度も頭を下げる。
レイディロは深く被ったままだったフードを一層深く被り直し、降り頻る雪の中へ身を紛らわせるように、彼に背を向けて一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
リリドーラの町からビーゲル・ボウの外れまでは、まっすぐ飛んでしまえばほとんど時間はかからない。獣の遠吠えのような音を立てて風や雪塊が吹き荒ぶ中を飛ぶことも、寒さや雪を防ぐために身体全体を空気の膜で覆うことも、レイディロにとっては、眼を瞑っていても出来るような容易いことだ。
もっと移動を簡便にするために転移魔法陣を申請することも出来たけれど、申請して使用するためには魔術師長の許可が要る。
苦手な人間にわざわざ会ってまで欲しいと思うものでもなかったから、この最北の地に居を構えてからというもの、レイディロが魔法陣を使った回数は本当に数えるほどしかなかった。
仕事終わりということもあって上機嫌に鼻歌を奏でながら、どんどんと速度と高度を下げていく。
黒々と細長い葉に枝を覆われた木立が途切れた先、真っ白な雪に埋もれるようにして、一軒の小さな家があった。いや、家と言うには少々見窄らしく見えるかもしれないけれど、たった三人が暮らすにはあれぐらいの大きさでちょうどいい、とレイディロは思っている。
だから、あと数日もしない内に、十年以上続いた三人暮らしが終わってしまうのかと思うと、レイディロは憂鬱な気持ちでいっぱいになってしまうのだった。
家の中に入ると、この季節の寒さを全く感じさせない暖かな空気が柔らかくレイディロの身体を包み込む。羽織っていた正魔術師の白いローブをコートかけに放って、レイディロはまっすぐ台所に足を向けた。
「ただいま」
「ああ、おかえりなさい」
「ラズレイは?」
「上にいますよ」
狭い家の中に漂う空気はどこか香ばしい。
台所には、レイディロの第一悪魔であるプルソンが立っていた。昼食の準備をしていたらしく、振り向きざまの片手にはゾラを握っている。
レイディロが十一歳の頃から一緒にいるこの悪魔は、幼かった主人(つまりはレイディロだ)があれやこれやと用事を言い付けてきたせいで、随分と人間らしい所作の悪魔になってしまった。まだ、黒い髪と黒い眼をしているから悪魔だと分かるけれど、そうでなければ誰が、こいつが強大な悪魔だと分かるだろう。
自分が留守にしていたにも関わらず、その人間臭い悪魔がどこか疲れたような表情を浮かべているのを不思議に思いながら、レイディロは抱えていた包みをプルソンに差し出した。
「今日はバーデンをもらった。最後だからって」
「おや、良かったじゃないですか。あなた、好きですものね」
バーデンは根菜の中でも風味が強く、好みの分かれる野菜だ。泥臭いからと言って嫌う人もいる一方、レイディロは、そこがいい、と思っている。ピピ羊の肉と一緒に甘辛く煮込む北方の家庭料理は、こちらに来てすぐ、レイディロの好きな料理の一つになった。
先ほど、町長が植えたいと言っていたフィーヴィも、雨で蒸れた獣のような匂いがする野菜だけれど、この豆は塩茹でにしても美味しいし、莢ごと焼いても美味しい。
魚料理が嫌いな人間にとって、このビーゲルディア王領ほど、美味しい料理に囲まれて暮らせる場所はないだろう。
「年明けには、またフィーヴィを植えるらしいから楽しみだ」
「食い気もいいですけど、ちゃんと仕事もして下さいね」
「年が明けたらラズレイがいなくなるのに? 無理だ……」
食堂の椅子に腰かけたレイディロは、そう言いながら力なく項垂れた。
レイディロとプルソンと一緒に暮らしている少女――ラズレイは、年が明けたら、王立学院ディカルディア・ド・シーラの魔法科に通うことが決まっている。生徒は全員、学院の敷地内に併設されている寮で生活することが義務付けられているから、一度送り出してしまえば、次に会えるのは長期休暇である嘆きの一週間なのだ。
半年も会うことが出来ないなんて、どう考えたって耐えられない。
はああ、と大きく溜め息を吐き出すと、ゾラの皮を剥いていたプルソンが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、魔術師長が連絡してきましたよ」
「どうでもいい」
苦手な人間は誰かと聞かれたら、レイディロは間違いなく魔術師長の名前を挙げる。あの老人は昔から、本当に面倒な魔術師なのだ。
心底興味のない心情を隠すことなく言葉に乗せれば、わざわざ振り返ったプルソンは、駄々を捏ねる子どもを見るような眼差しを向けてきた。暗黒色をした両の眼が、すうっと猫のように縦に伸びる。
「あなたに用があったみたいで、何度か連絡がありましてね」
「そろそろ、あの鏡も割るか」
「あなたのものだから何でもいいですけど……今はラズレイが相手をしてますからねえ」
「ッ、それを先に言え!」
くにゃりと力の抜けていた上半身をパッと起こして、レイディロは勢いよく居間から飛び出した。
主人に逆らうだとか、魔法陣の中にいないと嘘を吐くだとか、そういった面倒な性格をしているわけではないけれど、プルソンは時折、こうやってレイディロを困らせることがある。
普通の学生の半分の期間しか学院に通うことの出来なかったレイディロは、普通の魔術師とティスリフの関係というものがよく分からないまま卒業してしまったから、どうも昔から、対応に迷ったときには何でもプルソンにやらせてしまう癖があった。
そうして、得手不得手の一切を考えずに接している内、プルソンの方にも、人間の食事を作ることや赤子の世話をすること、本来は使えない魔法を使うことへの憂さ晴らしをするような、レイディロを少しだけ困らせる悪癖が付いてしまったのだ。
普段であれば、レイディロだってこうも目くじらを立てることはないけれど、今回ばかりはプルソンが悪い。あの魔術師長とラズレイが二人っきりで話しているなんて、それを想像しただけでレイディロは卒倒してしまいそうだった。
こんなときに限ってよく滑る階段と廊下を疾走し、レイディロが書斎として使っている部屋へ、扉に体当たりするようにして飛び込む。
「ラズレイ!? 無事か!?」
果たして書斎の中では、ラズレイが大人しく、一つしかないソファに腰を下ろしていた。
突然現れたレイディロに少しも驚くことなく、相も変わらず表情のない瑠璃色をした眼をこちらに向けて、「おかえりなさい」と呟く。レイディロはそれに、「ああ、ただいま」とだけ返して、おそらく、ほんの一瞬前までラズレイと話をしていただろう人物ににっこりと笑いかけた。
「どうも、ご機嫌麗しく、魔術師長。それでは」
「待て待て待て待て!」
ソファと向き合うような形で壁にかけられていた一枚の鏡に向かい、花も活けていなかった花瓶を投げ付けようとすると、鏡の中から顔を覗かせていた老人が大声を上げる。レイディロは行儀悪く舌打ちをしてから、今度こそ忌々しい魔術師長の顔を睨み付けた。
一所に留まることのない魔術師同士の連絡方法は、この国では数種類しか存在しない。
自分の家に他人が訪れることも我慢出来ず、自分の悪魔を伝書鳩代わりに使うことも嫌がったレイディロが遠方で生活する魔術師たちとやり取りをするには、魔道具を使った連絡手段しか残されていなかったのだ。
とは言え、この十年間、レイディロから彼らに連絡することは全くなかったので、この、魔力を込めるだけで任意の魔術師と連絡が取れる鏡は専ら、魔法塔で生活する魔術師たちからの連絡しか受けていなかったのだけれど。
レイディロは昔から、魔法塔の魔術師たちが嫌いだ。
けれど、一応は魔術師の端くれである以上、魔術師長であるこの老人を無碍にするわけにもいかず、レイディロは溜め息を吐いてから、頭上まで持ち上げていた花瓶を下ろした。
魔術師長も、強張った頬の筋肉を動かすように細く息を吐き出す。
「で? 一体何の用です?」
「うむ。レイディロ、お前に頼みがある。仕事を一つ、請け負ってもらいたい」
「……ギロイド・ラザフィードルともあろう者が? この僕に? 頼みではなく、命令の間違いでしょう」
シエルランツ王国の全ての魔法や魔術師は、規則的には一応、魔法塔の管理下にある。この老人は、レイディロが簡単に断ることが出来ないと分かった上で、こんな言い方をしてくるのだ。
言い分を鼻で笑ってやると、ギロイドは分かりやすく眉間に皺を刻む。
もちろん、自分の考えが当たっていたらしい、と手放しに喜ぶことでもなかったので、レイディロも同じように眉根を寄せてやった。
「お断りします。言っときますけどね、僕だって働いてるんですよ」
「そうか。頼みたい仕事なんだがな――」
「だからね、お断りしますってば」
「――ディカルディア学院で、『魔法実践』の授業を担当して欲しい」
こちらの主張を繰り返したところで、ギロイドが全く聞く耳を持たないだろうことは分かっていた。が、予想もしていなかった返答に、思わず言葉に詰まったレイディロの唇からは「……は?」と空気が零れ落ちる。
学院で授業? この僕が? そもそも、『魔法実践』の授業を担当していたのは――。
「その様子だと、お前も聞いていなかったようだな」
「……何の話ですか」
「今朝方、リグリルが失踪した」
「はぁ……はあっ!?」
レイディロはもう、一体何に驚けばいいのかも分からなかった。
碌に授業も受けさせなかったレイディロにディカルディア学院で授業を担当して欲しい、なんて言ったかと思えば、レイディロの師匠でもあるリグリル・ミディーリが失踪した、なんて言う。
この人のこういう、相手のことを全く考えない話し方も嫌いだ。
いや、そんなことよりも、師匠ほどに力のある魔術師が姿を消しただなんて只事ではない。
誘拐か? はたまた事件か?
眼を白黒させるレイディロに、けれどギロイドは、疲れ果てたように溜め息を吐いてみせた。
「いや、置手紙は残されていたから、失踪という言い方はおかしいか。まあ何にせよ、奴が学院から姿を消したのに変わりはないが」
「ちょっ、なに、どういうことです? 師匠がどうして……」
「知らん。置手紙の内容を信じるなら、学院に居続けるのに飽きた、ということらしいな。バカンスに行きたい、と書いてあったから、大方、青の砂浜にでも行っとるんだろう」
「……バカンス……?」
ギロイドの言葉をどうにか飲み込んだレイディロは、身体中の力が抜けていくようだった。
かれこれ十年近く連絡を取っていなかったからすっかり忘れていたけれど、よくよく思い返してみれば、師匠ほど適当でいい加減な性格をしている魔術師を知らない。声高に笑いながら、「いやあ、すまんな」などと吐かす姿が容易に脳裏に浮かび、レイディロは痛む米神を押さえて唸った。
「……師匠が勝手に教授職を辞めたのは分かりました。が、それでどうして、後釜が僕に回ってくるんです」
「師匠の不始末は弟子が尻拭いするもの、と言うだろう」
「聞いたことありませんよ、そんなの……適任者なら他にもいるのでは? 学院で働きたい、真面に学んできた魔術師なんて沢山いるでしょう」
そういう気質を持った人間が魔術師になるのか、魔術師だからそういう気質になるのかは知らないが、魔術師というものは基本的に、自分の興味のある物事を、細かいところまで調べ尽くしたり、滔々と人に話したりすることが好きなのである。
ディカルディア学院の教授なんて、授業以外の時間は好きなように研究が出来て、生徒たちに好きなことを教えられるのだから、それこそ募集をかければ、希望者は掃いて捨てるほど集まるだろう。
学院にほとんど通わせなかったくせに、と言外に匂わせてみたけれど、こんな魚の小骨のような嫌味では、ギロイドは気付きもしないに違いない。
そうして予想通り、鏡の中の老人は勝手に話し始めた。
「バスティ・ダンカンという生徒がいるんだが、年が明ければ準魔術師の二年生になる」
「ダンカンって、あの悪魔憑きの?」
「奴の弟子だ。ついでに言うと、卒業後は第一王子殿下の側近になることが既に決まっとるな」
「……へぇ」
思わず唇の間から低い声が漏れる。レイディロに対して王家の話はご法度だ。
しかし、他人に気を使う、ということを知らないギロイドは、「やれやれ」とでも言いたげに溜め息を吐いた。
「こいつの魔力が強くての。並大抵の魔術師では、物を教えることも出来んだろう。だから、お前だ」
「そんな話を聞いたら余計に嫌ですねえ。優秀な生徒だと、僕なんかでは物足りないのでは?」
「そうでもないだろう。元々は公爵家の生まれだから、お前から学ぶことも多いはずだ。バスティ・オードラン、聞いたことぐらいはあるな?」
「あー……」
このシエルランツ王国では基本的に、王家と、王家に連なる公爵家には、魔力を持った赤子は望まれない。平素であれば歓迎される力も、生まれる場所によっては忌避の対象なのだ。話に出てきたバスティがこれまでどれほど生き辛かったかは、経験者であるレイディロには痛いほど分かる。
けれど、だからと言って、レイディロが教授職を引き受ける理由にはならなかった。
レイディロはもう十年も前からラズレイが一番大切で、自分とプルソンと三人で穏やかに生きていければ、それだけでいいのだ。
「彼には悪いですけど、それでもお断りしますよ」
「そうか……しかし教授になれば、生徒と同じように学院の敷地内で生活出来るぞ。その子とも一緒にいられる」
その子、と言いながら、ギロイドは顎で刳るようにして、レイディロが背後に隠していたラズレイを示す。
彼の言葉に一瞬、本当に一瞬揺らいだレイディロは、それでもその一瞬の後には、不機嫌そうな顰め面を取り繕ってみせた。
「……いいえ、結構です。週末はこちらに帰らせるつもりでしたし。大嫌いな魔法陣の申請準備もやってね」
ラズレイを引き合いに出し、レイディロに教授職を押し付けようとするギロイドの策略に乗ってやるつもりは露ほどもない。そもそも、この家と寮の部屋とを内緒で繋げようとすら思っていたのだから、そんな提案をされたところで、レイディロの気持ちが大幅に傾くはずもないのだった。
もちろん、ラズレイをひとりきりで六年も学院に置いておくことに不満があったからこそ、先程の言葉には揺れてしまったのだけれど。
しかし、強気な態度に少しも驚いた様子のないギロイドは、むしろ勝ち誇ったような微笑みさえ浮かべ、再びレイディロの背後を覗き込む。
「お前はどう思う? レイディロと一緒に学院に通える方がいいだろう、祝福」
その一言に、レイディロは視界が一瞬で真赤く染まったような気さえした。
「その名で呼ぶな!」と叫びそうになった唇を強く引き結ぶ。それでも抑え切れずに指先から漏れた魔力の残滓が、びりびりと轟くように空気を震わせた。
ああ、これだから魔法塔の魔術師は大嫌いなんだ!
専門知識は誰よりもあるけれど、自分の研究にしか興味がない彼らの頭は、他人を慮るということを知らない。探究心が満たされるのであれば、相手が傷付くことも構いやしないのだ。
いや、もしかしたら他人を傷付けていることにすら気が付いていないだろう。
今にも身の内で沸き立って膨れ上がりそうな怒りを、深い呼吸を繰り返すことでどうにか逃がしてやる。それはもうレイディロの身体に染み付いた、習慣とも言える条件反射だった。
魔術師は、心を閉ざさなければならない。
魔力のある全ての子どもがディカルディア学院で一番最初に学ぶ、何よりも重要な決まりごとだ。
悪魔(や、時には同じ魔術師たち)と相対することが少なくない魔術師は、彼らに付け入られる隙を作らぬよう、見習いの内に己の感情を隠す術を身に付ける。
感情を内側に仕舞ったまま表に出さないことや、必要以上に自分の感情に振り回されないようにすることは、魔術師にとっては呼吸と同じように出来ていなければならない茶飯事だった。
どれだけ年齢を重ねても濁ることないギロイドの眼にありありと浮かぶ、「未熟者め」とでも言いたげな冷ややかな色に、レイディロは苦虫を噛み潰したような顔で大きく息を吐き出す。
この悪魔のように老獪な魔術師は、レイディロが懊悩している詮無いことなど疾うに知っているのだ。そうでなければ、こんな――ギロイドからの言葉だったからこそ喜び勇んで飛び付くことの出来なかった話を、ラズレイのいる前で持ち出したりはしないだろう。
レイディロの持つ、王宮や魔法塔、ディカルディア学院といった王都に属するものへの嫌悪と、嫌悪の対象である魔法塔や魔術師たちに与してなるものかという矜持と、矜持と同じように自身の人間性を形作るラズレイへの愛憐と、それらを全て理解した上で、この老人は、こんな方法でこんな話をしている。
底なし沼のように深かった溜め息を、ギロイドは降伏と受け取ったようだった。再度、背後を覗き込む仕草に連られ、レイディロも振り返る。
「で、お前はどうだ? レイディロが一緒にいる方が嬉しいか?」
「……嬉しい?」
そう言って首を傾げたラズレイの眼は、レイディロの怒りも、ギロイドの要求も、眼前で繰り広げられていた何もかも全てを、まるで何一つ見ていなかったかのように凪いでいた。
いや、凪いでいたと言うより、恐怖も疑問も歓喜も、どんな感情も浮かんでいなかった、と言うべきだろう。ぱちくり、と瞬いた長い睫毛の向こう側で、女神ディテと同じ色だと賛美される瑠璃色が、夜の海よりもずっと閑かに光を飲み込んでいる。
その温度のない眼差しを見て、ギロイドはようやく、ラズレイが心の機微どころか人の感情そのものに疎い、ということを思い出したようだった。
この子に心を説くのは難しい。
一体どうするつもりか、と訝しむレイディロを余所に、いかにも、といった調子で唸っていたギロイドは、しばらくすると、ふと何かに思い至ったかのように面を上げた。
「お前がレイディロとずっと一緒にいたいなら、こいつを学院に連れて行け」
「ちょ、ちょっと何言って――」
「お前は黙ってろ」
この老人、十一歳の子どもに向かって何を言ってんだ?
ぎょっとして眼を剥いたレイディロを、けれどギロイドは膠も無く一喝する。血潮を啜った花のように鮮やかな眼差しは、じっとラズレイだけを見詰めていた。
虚言も造言も見透かされそうなほどにまっすぐな双眸を、物怖じすらしないラズレイも見詰め返す。感情の見えぬ瑠璃色が数度瞬く様はまるで、静かに寄せては返す波のようだった。
「レイディロは、一緒には行けないから、って言ったの」
「世の中はな、常に変化し続けるもんだ。もちろん、お前が望まないなら、こいつは置いていけばいい」
「……本当に?」
「本当に」
「ずっと一緒?」
「お前が望む限りな」
ちらり、とラズレイの視線が自分の方へと流れたのが分かったけれど、レイディロは咄嗟に、パッと有らぬ方へと眼を逸らす。
何せ、十年も共に暮らして来た、育ての親とも言える自分(プルソンには嗤笑されそうな言い方だが)に対してさえ、好意を持っているのか怪しい子どもだ。懐かれている自覚はあれど、それが動物の刷り込みとどう違うのか、レイディロ自身もよく分かっていない。
けれど、レイディロの杞憂に反し、ギロイドの言葉に相槌を打ったラズレイは、何の躊躇いもなく首を縦に振ってみせた。それどころか、全くの無表情で「分かったわ」などと言ってのける。
再度ぎょっとしたレイディロは、子どもらしく稚い作りをしたラズレイの顔をまじまじと見詰めてしまった。
「レイディロと一緒に行く」
「そうか。おい、話は纏まったぞ」
ふふん、とギロイドが鼻を鳴らす。後半、ラズレイからレイディロへと向ける言葉の先を変えた彼の表情は、見ているこちらの腹が立ってくるようなしたり顔だった。
話が纏まったんじゃなくて無理矢理纏めたんだろ、と吐き出したい苦い感情もある一方で、レイディロの胸には、どこか身体の内側が擽ったくなるような、柔い生温さが広がっている。
ラズレイは、嫌とは言わなかった。
この子どもがレイディロのことをどう思っているのかも、何を考えているのかも分からないけれど、少なくとも共にディカルディア学院へ行き、同じ敷地内で暮らすことは嫌ではないらしい。
その事実を理解した瞬間、レイディロは広がっていた生温さが、確かな安堵と歓喜に変わったのを自覚した。
「私、レイディロと一緒がいい」
「ラズレイ……」
「ね、一緒に行ってくれるでしょう?」
見上げてくる二つの小さな海には、ほんの少しも、疑惑の色など浮かんではいなかった。
妹のような、娘のような、妻のような不思議な存在でもあるこの子どもは、感情に疎く、言葉少なく、仮面を被っているかのように表情の変化に乏しいものだから、一体何を考えているのかも分からないけれど、それでも、レイディロと離れたくないと感じてくれている。
この十年、嬉しいことも苦しいこともあったけれど、その十年の中で一番、ラズレイを育ててきて良かったと、レイディロは心の底から思った。
意識しなければ勝手に笑い出してしまいそうになる唇に、どうにか平静を装って力を込めていると、そんなレイディロを見遣ったギロイドが、相変わらず気持ちの悪い顔で笑う。
人の感動に水を差して、本当に厭な魔術師だ。
早く消えてくれないかな、ラズレイと話がしたい、とうんざりしていると、そう思ったレイディロの頭の中を見透かすように、ギロイドはくつくつと意地の悪い笑い声を立てる。
「最初から分かっていたはずだ。お前は、その子を手放せないだろう?」
およそ顔の下半分がたっぷりとした白髭に蔽われているというのに、唇の両端が上へ上へと吊り上がっていく様子がありありと分かってしまうほどだった。
唇の形とは反対に、意地の悪い色を宿した両眼は、くにゃり、と弓形を描く。
「悪い話ではないと思うが……どうするかね、レイディロ・ミディーリ」
「ああ、はいはい、分かりましたよ! 受ければいいんだろ、受ければ!」
つまり、レイディロに残された道はひとつしかなかった。
半ば投げ遣りになりながら答えれば、ギロイドはまた鼻を鳴らしてみせる。
「素直に言うことを聞けばいいものを……」と余計な憎まれ口を叩く横顔を睨み付けて、レイディロは壁に据え付けられている鏡へと、荒々しい足取りで歩み寄った。もう何でもいいから早く消えて欲しい。
「解決したんだから、もう切りますよ」
「何を言っとる? 準備もあるだろう、今からこちらに来い」
「いえ、結構です。もともと、ラズレイを連れて行くのも明日の予定でしたしね」
「明日!? お前、エヴェイラ祭の最中だろうが!」
眼光の鋭い双眸をかっと見開くギロイドを、レイディロは鼻先で笑った。
エヴェイラ祭の最中だろうが何だろうが、わざわざ要求を呑んでやったのはこちら側なのだ。王都にいつ向かうか、ということまで魔術師長に指定される謂れはない。
とは言え、レイディロとしては、魔法塔の魔術師たちとラズレイを会わせるつもりは露ほどもなかったので、彼らがエヴェイラ祭に駆り出されているからこそ、わざわざその最中に、空っぽの魔法塔へ向かうつもりだったのだけれども。
「これから昼食ですので。明日の昼過ぎ、そちらに向かいますから、また繋げて下さいよ」
「ちょっ、おい! レイディロ!」
「はいはい、さようなら」
こんこん、と指の関節で軽く鏡を叩くと、凪いでいた水面が揺らぐように、鏡面がゆらゆらと揺蕩う。しかし、それもしばらくすると穏やかに落ち着き、後には、レイディロの不機嫌な顔を映すだけの、何の変哲もない物言わぬ鏡へと戻った。
それを眺めながら、レイディロは大きく息を吐き出す。
ディカルディア学院の教授に――しかも、師匠と同じ『魔法実践』の授業を担当する教授になるなんて。
学院に通っていた頃のレイディロは、将来こんなことになるなんて想像すらしなかったし、もっと言えば、今日、家に帰ってきたときだって、そんな予感は欠片もなかった。
学院も、学院の教授たちも、学院の生徒たちも大嫌いだった当時のレイディロが知ったら、きっと全身に鳥肌を立てて嫌がるだろう。それぐらい、王都に纏わるレイディロの記憶は、暗がりのように鬱々として、記憶の奥底に封じ込めておきたいものなのである。
日頃から何かの占いを習慣にしておくべきだったな、と過ぎたことを考えて、レイディロはもう一度、深く溜め息を吐いた。
こうなることを知っていて何も言わなかっただろう、澄ました顔をしたティスリフは、きっと白々しい言い訳を連ねるに違いない。




