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白登山  作者: 涼華
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第4話

陳平の奇策。


すなわち、冒頓単于の閼氏あつし(皇后)を籠絡し、彼女を使って匈奴の王に和睦を認めさせるというものであった。ために、陳平は高価な贈答品を副使に密かに与えた。さらに、驚くべき奇策をも副使に授けていたのである。


「妬心じゃと?」


「御意。漢の後宮には、陛下が全土から集めさせた選りすぐりの美女、五千人がおりまする。もし、匈奴が漢を征服すればその五千人がすべて、単于のものになり、閼氏(皇后)は廃されるでしょう。それでもよろしいのですかと、伝えさせたのです。」


「なるほど。」高祖は肯いた。まさに、謀略家・陳平らしい奇策であった。しかしたかだか夫人の言うことを、あの匈奴の王が聞き入れるとも思えない。


「陛下。匈奴では、夫人の地位は大変に高いと聞いております。匈奴の王といえどもその言を無視することは出来ますまい。」


あの虎狼の騎士が、女房殿の尻に敷かれているというのか。


高祖は、我が身を鑑み、可笑しくなった。匈奴といえども、やはり人の子なのだ。しかし、もし、女房殿の言を聞き入れなかった場合はなんとする。ここで我らは全員討ち死に。後宮の美女五千人は、本当に、あの子わっぱのものになってしまうではないか。それは困る。せめて、戚姫だけでも。高祖は難しい顔をしてあたりを歩き回った。


やれやれ。また、おなごのことを考えておられるな。


陳平は内心ため息をついた。しかし、この戦局にあって、女のことを考える余裕が出てきたと考えるべきなのであろう。討つべき手は全て打った。あとは、天命を待つのみである。



三日経った。しかし、何事も起こらない。兵士達は凍傷にかかり、命を落とすものも現れた。


五日目、吹雪となった。兵士達の顔に死相が表れている。六日、雪はやんだが、凍てつくような寒さである。この寒さの中一晩でも過ごせば、おそらく全員凍死してしまうに違いない。もはやこれまで。やはり、項羽のように玉砕するしかないのか。さすがの陳平も、焦りを隠せない。


その夜、匈奴の陣から矢文が打ち込まれた。


待ちに待った閼氏(皇后)の文である。文には囲みの一画を解くので、霧に紛れて脱出せよと記してあった。


狂喜する将兵の前で、陳平は退却の策を説明した。


「敵は全て戦巧者の騎兵ばかりである。和睦はなったとはいえ、帰路は敵中突破をするに等しい。よって、漢の兵は全て矢を外につがえ、弓を引き絞った体勢で、一糸乱れず悠然と行軍することが必要である。」



次の朝は、文にあった通り、深い霧に閉ざされた。


囲みの一画が解かれ道が出来ているのが、霧を通してうっすらと認められた。将兵は緊張した面持ちで、匈奴の騎馬軍団の壁の中を行軍していく。苛立つように足踏みをする馬、匈奴の騎兵のしわぶきの声と馬のいななき、甲冑のこすれ合う音、その中を、陳平の策の通り、漢の将兵達は、黙々と行軍していかねばならない。馬車で行く高祖の額にも汗がにじんでいる。兵の恐怖は極限に達しているだろう。この場から一刻も早く脱出したい。それは、高祖とて同じことだった。しかし、そのようなそぶりを少しでも見せれば、逃げる獲物に対する群狼のごとく、匈奴の兵が襲いかかってくるのは明らかだ。


どれほどの時が過ぎただろうか、弓を引き絞った兵は、もはや手が痺れ始めている。弓の力が抜けたとき、それが最期なのだ。


不意に、騎馬の壁が消えた。霧の中、何もない空間が広がっている。囲みを抜けた。助かったのだ。我勝ちに走り出そうとする将兵を、陳平が戒めた。


「まだ、敵地である。見苦しい所を見せるな。この先の丘を越えるまでは、列を乱してはならぬ。」



ようやく丘を越えたとき、霧はすでに晴れていた。安堵する将兵達の耳に、微かな地響きが聞こえてくる。南の方角から、軍勢がやってくる。旗に劉の文字が見える。漢の主力部隊がようやく到着したのだ。


「陛下。申し訳ございませぬ。」平伏する将軍を高祖はねぎらった。


この上は一刻も早く敵地を脱出しなければならない。


本隊は、精鋭部隊を護衛しながら、一路南へ下った。平城を下り、一度北上した道を逃げに逃げ、ついに、晋陽まで逃げ帰った。


後に「白登山の恥」、「平城の恥」と呼ばれることになった敗戦であった。




晋陽についた高祖は、すぐに、牢に入れていた劉敬を解き放った。参内した劉敬に、高祖は心から自分の過ちをわび、劉敬を昇進させ、二千戸の領地を与えたのである。


「儂が悪かった。劉敬よ。」こう真正面から謝られると、返って面はゆくなる。それは、劉敬も同じだった。


「もう、おやめ下さい。」劉敬は苦笑した。「それより、匈奴との和議をどうするかでございます。」


劉敬の言うとおりであった。漢軍が逃げ帰った後、匈奴の軍勢は頻繁に代に侵攻している。とは言っても、まともに戦って勝てる相手ではない。白登山の恐怖は、漢の将兵の骨身に染み通り、匈奴と聞いただけで顔色を失う有様であった。劉敬は続けた。


「天下は定まったばかりで、漢の兵は皆疲れております。それに対し、匈奴は飛ぶ鳥を落とす勢い。さらに、冒頓単于は、父親を殺して王位につき、父の側室達を自分の側室にするなど、仁義の通じる相手ではございません。しかし、匈奴を臣従させる策が一つだけございます。陛下の正嫡、魯元公主ろげんこうしゅ様を、冒頓単于に降嫁なさいませ。さすれば、冒頓単于は陛下の女婿、男子が誕生すれば、陛下の孫が次の単于となりましょう。」



高祖は仰天した。魯元公主には既に夫がいる。それを引き離し、あの虎狼の騎士に嫁がせよというのか。しかし、それが、最上の策であることは、高祖にもよく分かっている。


「良かろう。」彼は渋々賛成した。使者には劉敬が立つこととなった。


しかし、強力な反対者が現れた。魯元公主の母であり、かつ高祖の正室であった呂后である。


「たった一人しかいない娘を、匈奴に捨てろと仰せになるのですか。陛下!!」


そう泣きわめき、日夜、高祖を責め立てた。後に中国三大烈女の一人と称された呂后である。その気性の激しいこと、鬼子母神もかくやと思うほどである。ついに高祖は呂后に押し切られた。魯元公主を匈奴に嫁がせるという劉敬の策は、白紙に戻されたのである。まこと、女房殿の尻に敷かれているのは、匈奴の単于だけでは無いのであった。



しかし、この決定は高くついた。


冒頓単于を漢に取り込むことに失敗し、代わりに匈奴を兄、漢を弟とする、屈辱的な和平条約が結ばれた。その結果、漢は毎年、匈奴に、米などの穀類・酒・絹・綿などの莫大な貢ぎ物を送ることとなった。兄弟のちぎりと言えば聞こえが良いが、要は、漢が匈奴の属国になったということに他ならない。漢の正史もこの和平条約については、口をぬぐっているのだが、実態はかくの如くであった。



漢はこの事を深く恥じ、「白登山の恥を忘れるな」は、対匈奴外交の合い言葉となった。しかし、この状況を打開するのは、白登山の戦いの後、七〇年近くたった武帝の時代まで待たねばならない。





白登山での小競り合いの終わった年のことである。


匈奴の故郷である北の平原にも、遅い春がやってきた。草原が緑に染まり、色とりどりの花が咲き乱れ、そよ風が芳しい香りを漂わせている。その草原を、漆黒の駿馬が単騎駆け抜けていった。馬上にあるのは、あの匈奴の単于である。単于は、小高い丘まで一気に馬を駆ると、眼下に広がる草原を見晴るかした。


やや遅れて、赤黄色の馬が丘に現れた。馬上にはあの西方の男がいる。


「冒頓様。」振り向いた単于に、西方の男はさらに続けた。「いつものことながら、お見事な手綱さばき、我ら誰も、単于の前に出ることが出来ません。」


「それは困る。」単于は笑った。「早く私以上の乗り手が現れてくれぬことには、」


二騎は並んで、丘に立っている。


しばらくして、西方の男が尋ねかけた。


「しかし惜しゅうございました。白登山で総攻撃を加えれば、いや、加えなくとも、あと2・3日で漢の皇帝の命運はつきたでしょうに。」


単于は、春の草原を見つめている。


「お后様が、高祖の命乞いをされたと伺いましたが、なぜそのようなことを?漢王には神の御加護があると、そうおっしゃられたのは、一体・・・」


「マルケルス、后もそのようなことは信じてはおらぬ。」


「では、なぜ?」マルケルスの問には答えず、単于は言葉を続けた。


「漢の後宮には、選りすぐりの美女五千人がおるそうな。たおやかで、儚げな乙女がな。」


「五千人の美女、でございますか・・・」


西方の男の頬に好色心が浮かんだのを単于は、面白そうに眺めている。


「惜しいと思うか。」


「ますます惜しゅうございます。いっそのこと、今からでも漢に」そう口に出してから、マルケルスは、豆鉄砲をくったような顔をした。「では・・」


「陳平め。さすがは高祖の知恵袋。后の嫉妬心をあおったのよ。」


思いもしなかった陳平の奇策に西方の男は呆然としている。なりふり構わずとはこのようなことを言うのか。武人の誇りなど微塵もない。しかし・・・


「そこまでお分かりでしたなら、なぜおめおめ、」マルケルスは悔しさを隠せない。



単于は、また、草原を見下ろした。5・6頭の馬の群れが草をはんでいる。生まれたばかりの子馬が母馬に、盛んに乳をほしがっていた。


「千里の馬を育てるには、どのようにすればよいと考えるか。」


ふいに、単于が従者に尋ねた。


「千里の馬・・・千里の馬には、千里の馬の種(精)が必要でございましょう。」自分の問に一切答えぬ単于に、半ば不満そうに青年は答えた。


単于は笑い出した。そして、笑いながら答えた。


「千里の馬を育てるには、千里の雌馬が必要なのだ。いかに良き種があろうとも、弱き腹から生まれた仔は、弱き馬にしかならぬ。」


マルケルスは瞬時に悟った。


冒頓単于が、閼氏(皇后)の言を聞き入れたのは、このためであったことを。匈奴の男が男たる所以は、まこと匈奴の女あればこそである。漢の女と交わることで、匈奴の質実剛健の気風が文弱に染まることを畏れたからに他ならない。


「そうだったのですか。」


「呂后に、感謝せねばならぬ。」風が単于の髪をなびかせた。「魯元公主を押しつけられずにすんだからな。」


「まことに。」漢というのはなんとしたたかな国であることか。マルケルスは自分の故国を思い出した。


「マルケルス、月が満ちたら、楼蘭を攻める。そのあとは、烏孫、そして、フェルガナだ。」


漢を屈服させた今、南方の憂いはない。西域の諸都市は、匈奴の軍門に下ることだろう。


「楼蘭の美女が、待っておりまする。」マルケルスは答えた。


きっと、匈奴の女も西域の美女を抱くことは許してくれることだろう。単于は馬を走らせる。従者もそれに続いた。二騎は丘を駆け下り、遥か草原の彼方に消えていった。




漢との和睦のあと、二度と、匈奴の土地に漢軍が侵攻することはなかった。その代わり毎年、莫大な米・麦・酒、絹織物、真綿が届けられ、匈奴の西域での地位を確固たるものにせしめた。


しかし、冒頓単于は、漢の食物を卑しきものとして一切口にせず、匈奴の将兵がそれを食することを厳に戒めた。また、贈答された絢爛豪華な絹織物をまとって、群臣達と狩りを楽しみ、匈奴の織物がいかに耐久性に優れているかを知らしめたという。


ただし、冒頓は、亡命した漢の将兵を厚く遇し、穀類を食することを許可し、食に不自由することの無きよう取りはからったと伝えられている。



冒頓は、白登山の戦いの26年後に死去した。





従者のマルケルスについては、漢の正史は何も記していない。

しかし、諸国に散りばめられた言い伝えを信じれば、その死に先立って、冒頓は、従者に印爾を渡し、祖国へ帰還させたという。単于の印爾を持って西域をわたり、エジプトのアレクサンドリアから祖国へ、単于の従者は帰っていったと、伝説は伝える。その後の彼の消息は、言い伝えの彼方に霞んでいる。



そして、高祖の末裔の帝宛に、マルケルスの祖国の王から使者が送られたのは、それから300年後のことであった。



                           完





史実では、劉敬は、廣武で拘禁されていましたが、地名が多すぎるので晋陽にしました;;;


人物紹介


呂后・・劉邦の正室・糟糠の妻、漢統一後は、功臣の粛正に一役買うなど政治的手腕もある。高祖亡き後、呂太后として権力を握った。三大悪女(あとの二人は、唐の武則天、清の西太后)の一人と言われているが、外征を行わず、国力の充実に努めた。


冒頓単于・・匈奴の王(皇帝)、父を射殺して王位を簒奪したあと、匈奴を統一し西域の一大国家に発展させた。史記では、勇猛果敢なだけでなく、漢の亡命者も広く取り入れるなど、冷徹ではあるが度量の広い人物として描かれている






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