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天国  作者: 揺リ
7/11

7

時が、止まっていた。僕の時だけが?いや、探偵もきっと、そう。

ところでバンドやらへん?

以上。

異常。

僕はただ何も言わず、どゆこと?とか思って空を見つめていた。薄汚い天井があった。グラスをテーブルに置く音。箸と器がぶつかる音。咀嚼の音。店内の時は構わず流れ続ける。音楽も流れる。これは、ニューヨーク・ドールズか。曲名は、知らぬ。そんなことはどうでも良いのかも知れぬ。踊るしかないやろ、退屈やねんもん。椚は言った。そうなのかも知れぬ。他人からどう見られるか考えて日々頭を痛めたり、知りもしない曲名を必死にネットで調べたりするよりも、人間はただ楽しく踊っていればいいのかも。それこそがこの世の真理なのかも知れぬ。そうでないのかも知れぬ。少林寺拳法習おうかな。

「バンド、すか」探偵の時は、僕は思ったよりあっさりと動き出した。

「ロックでしょ」椚は当たり前のように、テーブルの上に置かれた探偵の煙草のケースから一本取り出して咥えた。探偵は当たり前のように、自分のライターでそれに火をつけた。勢いよくあがった火に、椚は眉の一つも動かすことはなかった。

「ロックでしょう、パンクでしょう、あなたは。探偵さん、ずっとバンドをやりたいと思ってて、やりたかったんやけど、自分と同じロックな人間がなかなかおらん。ロックな奴じゃないと、バンドはできひん。ずっとロックな人物を探し続けてやっと出会えた、あなた理想の人です」

探偵は恐らく椚の言っていることを百%理解したわけではないだろうが、惚れた女に理想の人とまで言われすっかり舞い上がり、気持ちの悪い顔で涎を垂らすなどしていた。

「もちろんやりますよ、バンド。はい、パンクっす、自分。バンドめっちゃやりたいす、てか俺もやりたい思ってました、ずっと前から。ほんでバンドって言ったらまず何しましょ。僕は何したらいいですか」「まずはパートを決めんとね」「ええ、ですよね。でも、僕楽器とかやったことないんすけど」「私もできひん」「あ、ですよね。まあでも大丈夫すよね」「問題ないしょ」

無理やろ、普通に。まあええわ、勝手にやっとけ、と思い飲み物でも誂えようかとB5用紙に手書きされたメニュー表を眺めていると、椚が僕の顔を覗き込んだ。「進藤くんはどない思う」

不意に視界が美しい顔で埋まったことに、僕は正直戸惑った。「いいんじゃないですか」「進藤くんもやるやろ」「え、いやですけど」

「おい、何でや。やるやろ」探偵が激しい口ぶりで加勢した。

「進藤くん入らんと話しならんわ、バンドは二人じゃ無理やで。最低でも三人いる」「そうやぞ、入れ。進藤。椚さんがそう言ってんやぞ。てゆうか進藤って名前やっけ」「進藤くんですよ、この人は」「ですよね。とにかく入れ、進藤」「にしても寒いな、店ん中」「ええ、わかります。正直ちょっと辛いすよね。冷房がんがん効いた部屋おると血行悪なって肌荒れたり浮腫みの原因になったりしますもんね」

椚の予測不能な方向転換はやはり突然やってきたが、探偵は臆する様子も見せなかった。僕はもはや何も言わなかった。言えなかった。何だか物凄くしんどかった。まあええ、話がそれてラッキーじゃ、と思い再びメニューに向き合った。何がバンドじゃ。そんな阿呆なもんやらされてたまるか。こんな気が触れたような二人と。

僕は椚がやりたがっているロックバンドというものの演奏会に、高校の時分足を運んだことがあった。同郷のタチバナ(彼の姓名が全く記憶にないため、ここでは仮にタチバナとする)とかいう男に誘われ着いて行ったわけだが、「ライブに行こう」と言われるので僕は何千人という規模を収容するドーム状のホールで紫やらピンクやらに光る棒を振りながら舞踊集団を鑑賞したりする楽し気なものを想像していたのに、何だか高架下の薄暗く狭く誇り臭いところに連れて行かれ、女のように髪を伸ばした栄養失調みたいな半裸の男が、もはや歌とも呼べぬような訳の分からぬことを叫びながら奇怪な動きで暴れ狂うのを小一時間も見せられるという拷問を味わった。その男の外見や言動から、彼がどのような社会生活を送っているのか皆目見当がつかなかった。歌い手の後ろでは楽器隊がドラムス、といういくつかの太鼓を組み合わせた楽器や、エレキギターやエレキベース、と言った弦楽器をアンプリファイアと呼ばれる機械に接続することによって音量を大幅に増幅させたものを鳴らしていたのだが、肺が圧迫されるような音のでかさで、その演奏が上手い・下手といったことは全く判断ができず、ただ五月蠅い、不快、辛い、以外何も考えることができず終演時には心身ともに疲れ切っていた。今までに感じたことのない疲れだった。耳鳴りが二日間止まなかった。僕はステージの上を眺めながら、何故彼らはこんなことに積極的に取り組んでいるのか、理解に苦しんでいた。タチバナによると、演奏会の実施は言わば誰にでも可能らしいが、その代わりに演奏者には出演する会場から最低でも十五枚以上の入場チケットを売れ、といったノルマが課せられており、もし当日までに十枚しか販売できなかった場合、残りの五枚分、つまりチケットが一枚二千円だとすれば合計して一万円を会場へ支払わなければならないというのだ。彼らは何も謝礼を貰って演奏をしているわけではなく、むしろ人前に立つために出費していた。僕がタチバナと共に出向いたその日の会場には、まばらに人がいるだけで、それを見る限りでは彼らが到底演奏によって収入を得ているようには思えなかった。金にはならないのだ。金にならないけれどもやりたい、という事なのであれば、僕が想像できる理由としてはたった一つで、楽しいからに違いない。楽しい思い、気持ちの良い思いをしたいから金を出してまで人前で髪を振り乱したり意味不明なことを叫んだりするのだ。それに、周りの客の様子を伺うと、僕のように不快な思いをしている感じはまるでなく、太鼓が刻むリズムに乗せて体を動かしたり歌い手が何か叫ぶとそれに応じるように手を上げたりしていて、何なら結構楽しそうにしていた。彼らもまた、楽しくなりたいからあの場所へ自ら足を運んでいた。ロックンロールとかいうものに憑かれて、オフィスや家庭やコンビニを抜け出し、日常とはおよそかけ離れた騒音の中に、喜んで飛び込んで行く。つつましい一家四人の外食代くらいの代金を払って、あれを好き好んで鑑賞しに行く人間が少なくない数存在しているというのが事実であれば、どう考えても社会には不適合な人間が寄り集まったあの楽隊も、疲労と耳鳴りではない何かを人々に与える力を持っているには違いない。

と言っても、しつこいようだが僕には理解ができなかった。当然自分もやってみたい等とは考えもしないし、幾ら一定数の人々に受け入れてもらえるとしても、世の中の大部分を占める、正常な感覚を持った人間には蔑まれることはまず間違いなく、僕から言わせればあの日見た半裸の男、白目を向いたり舌を出したり時折マイクに噛みついたりしながらステージを這いずりまわるその様子は、違法の薬によって精神のバランスを失っているようにしか見えず、およそ考えられるうる限りの人間として最も浅ましく、程度の低い姿だった。あれと同じことをやるくらいなら、しかも金を出してまでやらなければならないのであれば、暗殺の片棒を担ぐ方がまだましだった。勿論六十万円程頂戴した上で。

「ほんなら椚さん、楽器の練習は追々やっていくとして、バンドをやるならまず披露する機会を作らんといけませんよね」探偵が言った。僕は黙っていることに決めた。

「最も。ライブをやらんとあかん」

「そうすよね」椚の同意を得ることができた探偵は、一層浮ついた。「そうなると、どうしたらいいんでしょう」「ライブハウスに出たらいいねん。大阪には環状線沿いに結構ある」「そうなんですね、やとしたら、オーディションですか。書類とかいりますか」「そんなんいらんよ、電話一本で素人でも出れる」「そら助かりますね」「CD作ったりしたらそこで売れるし、儲かるで」「良い事しかないですね。じゃあ早速今から下見に行きましょう、善は急げっすよ」

「ノルマがありますよ」黙っていようと決めたばかりだったが、僕は思わず口を挟んでしまった。これ程の馬鹿者共を放っておくことは、まともな人間としては到底できず、無名の素人が会場で演奏するためにどのような手続きが必要かということを事細かに説明した。氾濫している河川に、嬉しそうに飛び込もうとしている酔っ払いを目の前にして、声をかけずに通り過ぎることなど誰にできるだろうか?金が必要だと分かれば、この二人もバンドとやらを断念するやも知れぬ。

目論見通り、僕の言葉を聞いた椚と探偵は顔を見合わせ、少しの間黙っていた。一瞬にして、通夜のような雰囲気になった。

「しゃあないか」言ったのは椚だった。

「そうですよ。やめといた方がいいですよ、金になるわけないし。現実見て考えんと」

「何じゃその言い草は、進藤」探偵が声を荒げた。

「落ち着きいな、探偵さん。進藤君も。路上でやったらええがな」僕の親切心は虚しく無視された。そっち行ったら危ないですよ、と忠告してやったというのに、あろうことかビール瓶で僕の顔面を殴りつける等してきた。

「路上ライブですか」「そうや。金出すんはなんか、気に入らんわ。鬱陶しい。外でやんのやったら、無料(ただ)でできるやん」「確かにそうすね。けど、ああいうのって許可とかはいいんでしょうか。公共の場で音出したりする場合予め市に許しもうとかんと、警察来たりしませんかね」探偵は思いの外、まともなことを言った。酔人の内の一人が、完全に泥酔したもう一人の手を引き荒れた水際から引き離そうとする。

「ええやろ」椚は言った。「許可とか、何かロックちゃうし。警察(ポリ)来てもしばいたらええんちゃう。ロックやん」

「あ、そうすよね。椚さんの仰る通りです、しばき回したったらいいすよね」

手を取り合い、荒れ狂う濁流の中に身を投げ溺れていくも尚、甲高く笑い続ける二人の酔人の声が段々と遠くなっていくのを感じながら、僕は大雨に打たれて倒れていた。頭から血を流して。

そもそもロックだパンクだ何だと椚嬢は言うが、ロックとは一体、何だ。その定義は。

「まずはバンドの方向性を考えんとやね。これが定まらんバンドは大体すぐ解散しよる」「確かにそうですね、価値観の違いで離婚するんと同じようなもんすよね」「そんな感じや。取り敢えずみんながそれぞれやりたいことを最初に言い合っとこう。そっからまとめて言ったらええねん。探偵さんはどんなバンドにしたい?普段何聴いてるん、音楽は」「音楽ですか、音楽は、そうすね。僕、松田優作以外あんま知らんのです」「マツダユウサク、言うんは」

「神様です、俺の」探偵は素早くサングラスを外した。「日本で唯一の、ハードボイルドの神様です」「ハードボイルドね、それはそれで新しいわ。よっしゃ、ほんなそれは取り入れよう」

「あ、あざます、ありがとうございます、嬉しいです、幸せです」オーバーに喜びを表す探偵を他所に、椚は真剣な表情で、ポケットから取り出した皺だらけのメモ用紙にちびた鉛筆を走らせていた。横から見ると、椚の睫毛がテーブルに向って伸びていた。瞬きをする度にそれがぱたぱたと動いた。それ自体が生命を持ち、意思を持っているかのような動き方だった。命あるものというのは大体において不完全であり何かしらの欠陥を抱いて生きているものであって、それでこそ血が通った生命体と呼べるといっても過言ではないのであって、椚の睫毛もまた決して完全ではなく、長さもそれぞれが微妙に違い、細く頼りなかったり太く傲慢だったりする、不揃いなそれらが椚の上瞼に生息し、椚の眼球を保護するという一つの目的のため、瞼の開閉に合わせて共鳴していた。生きていた。気味が、悪かった。だが、小さい鼻先や一の字に結ばれた唇はあまりに完璧でとても命があるようには思えず、石膏に色を塗っているようだった。生きていない顔と、生きている睫毛。異様な光景だった。

椚の真正面に座している探偵も、例の溶けかけた烏賊みたいな顔で真正面からその光景を見つめていた。僕のように気味悪がっているというよりは、椚の顔に単に見とれていただけのようだった。

探偵は。こいつは、きっと気づかずにいるに違いない。僕はそれを哀れに思った。椚真知子の、違和感に。異常さに。僕は気がついた。だが探偵は気づかない。恋だ。恋が不都合な事実に蓋をする。美しさ以外の何にも気づくまいとする。探偵の目は椚真知子を見ているようで、椚真知子を見ていない。探偵によって作り上げられた完璧に美しい女を、見ているだけに過ぎない。誰もが、存在もしない、他の誰にも見えない者に恋い焦がれている。幻だ。恋は絶望に終わる。幻が消えていくからだ。消える。違う。殺されるのだ。幻の後ろに隠れている、本物の人間によって。幻に恋をする人間は、目の前で恋しい者が殺されていくのを、ただ見ているしかできない。椚は殺すだろうか。探偵が恋する幻を、殺すのだろうか。

椚は僕達の目線を気にかけた様子も無く、鉛筆を動かす手を止めた。

「あの、椚さんは何でロックを、やろうと」探偵はだるだるの顔のまま、言った。

「お巡りさん、たのしいですか」「は。え」「言いたいねん、私も。パンクロックやりたい。外道みたいに。あんなんしたいねん」

はは、典型的なやつやった。僕は何も言わなかったが、内心ではそんな風に笑っていた。しょうもな、とか思いながら。椚という女、外見は異様そのものだがその思想たるや、何のことはない、軽薄でつまらぬものであった。どんなエキセントリックな発言が飛び出すのかと思えば。

音楽というものに対してどちらかと言えば無頓着な僕でさえ、パンクロックと聞けばおよそ不良、反骨精神を体現したもの、というイメージくらいは浮かぶものだ。椚の所望も恐らくその程度のもので、腐った世の中に蹴りを入れたいとか、どうせそんな感じだろう。

僕は実は件のあの日、タチバナに「可愛い女子のバンドマンもおるから」とか唆されて、終演後客の立場で打ち上げというものに参加していた。通常売れないバンドというのは同じ場所で同じ日に複数が出演しているものらしく、不純な動機で参加した酒の場にはバンドマンが幾人かおり、結論から言うと可愛い女子などおらず、その当時の僕くらいの年齢のガキがいてもおかしくないくらいの年増女とおっさんだけだった。革ジャンパーを着たおっさんのバンドマンがひどく尊大な態度で、僕が見たあの栄養失調の歌い手を説教していた。先にも申し上げた通り僕は音楽に対して無頓着で詳しくも無く知識も乏しいため、その説教の細かな内容まではよく分からなかったものの、聞いている限りでは、音がどうとか技術がどうとか、パフォーマンスがどうだとうか、自分たちが若い時はこんな風にやっていただとか、所謂バンドに対しての駄目出しだった。歌い手の男、ステージの上しかも人前であれ程破天荒な真似をしていたのだから、皆が見ている前でおっさんに偉そうに言われて大人しくしているはずがなかろう、激煌して言い返すに違いあるまいと思いきや、泡のすっかりなくなったビールのグラスを握りながらうつむき加減に黙っているだけだった。その苦し気な顔の、気の毒な事。椚や、あの日の若い痩せた歌い手を始めとする彼らは、僕が今いるような、社会と名付けられた年長者至上主義の世界から逸脱し、誰にも指図されない型破りな生き方を夢見てわざわざ辛気臭い地下へと潜り込んでいくのだろうが、それは大きな間違いで、同じような思想を持つ人間が集まれば、一般社会と何ら変わりの無い事象が繰り広げられるに過ぎないのだ。どこへ行こうが、年寄りは出る杭を打とうと、生えたばかりの芽をむしりとろうと躍起になっているわけで、ぐちぐちと説教を垂れていた革ジャンのおっさんだって恐らく若い頃はわざとに世間からはみ出し、ギターを抱えて輝かしい成功を手にしようと希望に燃えていたのだろうが、いつの間にか本当にはぐれ、世の中の迷子になってしまったに違いないのだ。何ら社会の役に立たん大人が集まり自分の無能さを棚に上げて世間を拗ねた目で見ながら傷を舐め合い、自分よりも弱い者を叩く事によって安心感を得る。腐った世の中か何か知らんが、僕が見たはぐれ者の世界も十分に腐りきっていた。

僕は今の今まで、忘れかけていたが、はっきりと思い出した。反省点を勝手に洗い出され、自分の信じていたことを否定されながらも口答えの一つもせず、ただただじっと口を閉じたままの悲しそうな目。マイクを手にしていた時の狂気はまるでない。彼は、臆病なのだ。彼等は。ロックを志す全ての若者は。臆病で、そして優しいのだ。そんな自分を愛せず、恥じており、またそれを人に悟られるのが怖いから、ああして騒音を出すことで自らをコーティングしている。ひどく、怯えているのだ。ステージで半裸になり、世の中はろくなもんじゃねえ、放送コードがどないしたんじゃ、全員犯す、とか叫びながらその実、おばあちゃんの荷物を持ってあげたり、犬や猫やハムスターをむっさ可愛がったりしているのだ。パンクロックは若い、臆病者のための、優しい音楽なのだ。

一方、僕と同じテーブルについているこの二人はどうだろう。こやつらが果たして臆病者だといえるだろうか。優しいだろうか。強盗に銃を向けられて挑発したり、自分の趣味のドラマのDVDを持って人の職場にまで押しかけてきたり、突然人を進藤呼ばわりして尻を蹴った挙句バイト先に連れ込み何の説明も無く踊りだしたりするような粗暴で品の無い人間を、臆病呼ばわりしていいのだろうか。それがパンクだ、ロックだと言えるだろうか。もしこの二人の前に、例の革ジャン駄目出し爺が現れ、演奏について、生き方についてくどくどと指摘し始めたら、二人はどうするだろうか。あの若い歌手のように、目に涙を滲ませながらじっと堪えるだろうか。否。おっさんの記憶がなくなるまで、ありとあらゆる暴行の限りを尽くすに違いない。

こやつらに、パンクロックをやる資格などあるわけがないのだ。

「寒いな」椚は再び、室温について愚痴をこぼしながら、探偵の煙草を取って咥えた。ほら見ろ、と僕は思った。店の中の空調一つで、うだうだと文句をつけよる。何とも了見の狭い女であろうか。

探偵は慌てて椚が咥える煙草の先に火をつけた。「ですよね、空調効き過ぎなんすよ。ここ。俺、言いましょか」そう言い、相変わらず、客の注文を受ける時以外は石像のようにじっと座ったままテレビを眺める老人の方を見た。

明日、核によって日本が滅亡したとしても、この店は残るだろう。店主も、生き延びるだろう。そして何も写さなくなったテレビを眺め続ける姿勢のまま死を迎え、焼け野原となった西成の町の中ぽつんと残ったこの喫茶店と店主は化石となり、いつかこの国が完全復興を遂げた時、日本が一度滅びた事実とその悲劇を二度と繰り返すことのないよう、人類が犯した愚かな過ちを後世に伝えるための歴史的遺産となるのだろう。タイトル、残り火。

椚は僕と同じことを考えているのかいないのか、何とも読み取れない表情のまま、探偵が見ている方に顔を向けた。

「いや、やめとこ。それは」椚の言葉と一緒に吐き出された煙が、冷房の風に煽られて掻き消された。「あのおじいちゃん、暑さにごっつ弱いんかもしらん。私らはな、言うても若いんやから、我慢したらええわ」

「そうすね」探偵のやつ、阿呆みたいに何でもかんでも椚に調子を合わせやがると思ったが、その時の探偵の顔は心底ほっとしているように見えた。「外から来た人が暑いから、思って気い使ってはるんかも知れませんしね」

優しかった。こやつら、おじいちゃんにめっさ優しかった。成程。ロックなのかも知れぬ。

しみじみと感慨に浸っていると、椚に肩を揺すられた。

「なあ、進藤君はどう思うんて。さっきから黙ってるけどやな」「そうやぞ、進藤。お前も何か意見出せや」「メンバー全員の意見を聞いとかんと」

「意見ですか」意見、と言われても。「やらんのに、僕。関係ないし」


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