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探偵と最初に話したのは病室で、僕は自ら彼を見舞いに行った。
上司に言われて休んだ翌日から、僕はいつもの通りに出社した。奴の自殺場所に選ばれ、奴の頭の中身が吹き出し飛び散ったであろう床やデスクは綺麗に吹き清められていた。だが、その瞬間を目撃した職員数名が心的なショックや体の不調を訴え、出社を拒否していた。
店前では、人糞にたかる小蠅のように何社かの局から報道陣が入れ替わり立ち替わりやってきては無遠慮に駐車し、通りすがる人々にカメラやマイクを向けた。向けられた人々には何かしらの高揚感が感じられ、それはガラスの自動ドアを通り抜け、ひりひりとした煩わしさとなって店内に充満した。誰もが、言葉には出さないが苛立ちを覚えていた。
その痛い空気は、苛立ちを言葉にした者が惨めな敗者である、という雰囲気をもたらし、その雰囲気はまたざわざわとした不安をもたらしていた。
僕も本当は行きたくはなかった。職場でこんなことがこんなことが起こってしまったことに心はすっかり落ち込んでいたが、少なくない数の人々の体と心に傷を負わせた残忍な強盗犯が、ロクデナシであると言え自分の知人であることに責任を感じていた、というのは全くの嘘で、金は返って来ないが奴が死んでくれたことで僕はすがすがしい気持ちになっていた半面、警察に事件の関与を疑われている上いつそれが世間に公表されるかも知れぬ、更には既にチンピラにマトにかけられている可能性もあり、まさに綱渡りのような極限の精神状態で、僕はそんな恐怖の中にあるというのにショックだとか言って休んでいるゆとり連中に大しては非常にむしゃくしゃしていたが、ここで会社にぱったりと来なくなるような真似をすれば怪しまれるかもしらん、一体警察はどんな要素から僕をクロと見るのかどうか検討もつかない今、僕にできる最善のことは事件前と変わらずいつも通りふるまうことだけだった。
僕は焦りの色を少しも外には出さなかった。会社の危機的状況の中黙々と仕事を行う僕自身へ、周りから向けられるプラスの感情に、僕は気が付いていた。あの子若いのにこんな時もしっかりして偉いなあ、みたいに思われてるなあ、みたいなことを思いながら給湯室で先輩方の茶を入れながらにやにやする等していた。
一般的にも広く知られているように、僕よりも二周り以上年長の方々は、僕達二十代前半の男女の事を何かの間違いで動物園から抜け出し人間社会に紛れ込んだカピバラか何かだと思っており、日本語が通じないのは勿論のこと、温厚には見えるがその実闘志も野心もまるで無く、それでいていつ何時鋭い牙を向けて噛みついてくるかも分からぬような危険性を孕んだ、何を思い何を感じて生きているのか一切読めない不気味な未知の生物として警戒・用心をしているというのが常である。と言ってもそれは全く仕方のないことで、そんな風に僕たちを同じ人間でありながら分かり合う事の決して出来ない異質の存在のように扱う人々は戦後の日本、その激動の時代を懸命に生き抜いたわけで、自分たちがいなければ今の日本はないと本気で考えているわけで、そんな人々にとってみれば教師から竹刀で尻を殴られることも、給食を無理やり口に詰め込まれることもなく育った僕達が日本を背負って立つ日が来る等とは到底想像し難いわけで、更に言えばこれはあくまで僕の想像だが、今の僕のような年の頃、「君たちは所詮、戦争を知らない」と言われ、若いから、と許されず、髪の毛が長い、と許されず、涙をこらえて歌ったことにより決して消えることのない痣を心に受けているわけで、僕達に降り注ぐとめどない偏見の嵐はその因果だとも言える。
だから、と言って、何なのだ?自己紹介をする前から、ゆとり教育が生んだ悲劇と思われていようが、温室育ちの宇宙人と思われていようが、元・バブリー達は本気で、愛を持って僕達に向き合い、その未来を案じ、僕らに鞭を振るっている。僕たちはそれに歯向かったり逆らったり、ましてや不貞腐れてそっぽを向いたりすべきではない。年功序列、という言葉がある。僕たちは自分よりも長く生きた方々の言葉に耳を傾け、受け入れなければならぬ。
例えば、会社の飲み会、ということ一つに関してもそう。飲み会という場を通して親睦を深める事が重要だと言うのに、所謂ゆとり世代にはそれを理解しない人間が多すぎるわけで、会社の経費によって月一回、開かれているものだというのに、残業代が出無いのなら、等と言って不参加を決め込み、平気な顔をしているけれども、全く空恐ろしいものだ。
飲み会。プライベートと仕事をわけたりせず、互いに親交を持ち社員の心の溝を埋め皆が一体になるべきではないか、同じ会社に入ったというのも何かの縁なのだから。だって社員はみんな家族じゃん?部下は可愛い子供、上司は会社の親父・お袋じゃん。電子機器の操作方法よりも義理人情、かっこ笑いを重んじるその心が若者へ伝染すれば、終電に滑り込み帰宅した後も頭に浮かぶのは企業理念、風呂の中でも思い出すのは上司の説教、気を張りながら飲んだ酒が美味いはずもなく、悪く回ったアルコールは吐瀉物となり便所へ流れる。痛む頭。ろくに眠れず、翌日は早朝からまた仕事、仕事が始まる。仕事、飲み会、帰宅、仕事、仕事、ちらちらと影を覗かせる、死への情景。気力は削られ体力は奪われ、心は老けこみ、家で眠るだけの休日を過ごし、異性と出会う機会を失う若者が急増、そして結婚率、ひいては出生率が下がり、日本はこのまま順調に衰退し、滅びるだろう。さようなら、日本。そしてありがとう。ピース。
だが僕にとって日本の未来等知った事ではないし、会社がこの先潰れ様が、どうでも良い。ようは今、爺婆共に良い顔ができなければお話しにもなるまい、というのにそれが何故あの餓鬼共には分らないのか、それが僕には分からんが、計算通りそのお陰で僕が一目置かれているから、気色が良い。
実際、嫌な顔を一つせず頼まれれば休日でも爽やかに出勤する僕の勤勉さと、いかなる時でも年上を立てる謙虚な姿勢は着々と評価された。件の飲み会にも積極的に参加し、当然のように出入口に一番近い席に座り、正座したままの足を決して崩さず上司の話に頷き、飲み物がすっかり減ったグラスを目ざとく見つけて女中を呼び、から揚げに素早くレモンを絞った。
これで褒められるのも今の内だけ、というのも分かっていた。二十代、それも前半の内だけ。二十六に差し掛かったあたりで、世間からはカピバラでも宇宙人でもなく当然のように成人した人間として受け入れられるから、今の内だけ。人間として当たり前のことをやっただけで、見上げたもんや、と言ってもらえるのは。見上げた根性やわ、若いのに。僕は堅実で誠実で、素晴らしい若者だった。この銀行内では。誰に聞かなくてもわかる。そういう匂いは、鼻の中を通して脳みそへ入ってくる。僕はそんな匂いに敏感だった。
そう、広大な海の中、遠く離れた所からでも、一滴の人間の血の匂いを嗅ぎ分ける鮫の様に。
というのを言いたかっただけで、僕の働く銀行の支店は、突然起きた強盗事件のお陰で慌ただしくなっていた。僕の上司は探偵が収容されている病院に出向き、詫びを入れに行っていた。あの時の状況から考えれば、どう見積もっても悪いのは探偵の方なのに、それが世間なのだ。ピース。
僕はその病院の場所を聞き出し、休日に、誰にも告げず、個人的にそこへ向かった。店からそう遠くない、同じ天王寺町内にある大学病院だった。受付で名刺を出すと、確認すると言われてからすぐに病室へ通された。四人部屋の窓際に、探偵はいた。警察も、付添人も、なかった。
弾丸が埋まっていた方の左腕、それも二の腕から手がすっかり隠れるまでにぐるぐると白い布が巻かれ、反対の腕の手頸には痛み止めか、栄養剤か何かの点滴を打たれ、白いシーツを喉が隠れるまで引っ張り上げしょんぼりと横たわる探偵の姿は、去勢されたアザラシのようだった。初めて見た時も虚弱な印象ではあったが、病室の壁やベッドの白を背景にするとその顔は益々青白く、ほとんどシーツと同化していた。あの時は黒いレンズの下に隠れていた裸の目は、外れかけたボタンのように落ち込み、全てを諦めていた。少なくとも、銃を向けられながら煙を吐き出し、やってみんかい、と豪語し、猛烈にイキっていた威勢の良さはただの一ミリも無く、僕は滑稽なような、それでいて切ないような物悲しいような感じがした。がっかりした感じもあった。
僕がカーテンをそっと引くと、探偵は眩しそうに目だけ動かして僕を見た。
「あ」と探偵は言った。言った、というより、勝手に開いた口から洩れた音、という風情だった。それが何だか、情けない声だった。「銀行の人やねんよな。ほんまに」
僕は頷き、名刺を差し出し、名乗った。そして、百貨店で買ってきた果物ゼリー四つ入りの袋を差し出した。
「ええー、もう。ええのに。なんか気い使わせてるわ、すいません。ほんま。ちゃうねん、さっきの気い悪くせんといてな。昨日何か、銀行の名前使て、テレビか週刊誌か何かが取材来よってん。性質悪いやろ」探偵が起き上がろうとしたので、僕はそれを制したが、片腕を器用に駆使して、意外にあっさりと上体を起こした。「どうぞ掛けて下さい、そこ」
僕は勧めに応じて、ベッドの脇で申し訳なさそうにしている小柄な丸椅子に尻を置いた。
「この度は、どうも」と僕は言って、頭を下げた。「こんな、えらい、あの。大変なことになってしまいまして」
何と申し上げてよいのやら、と続けようとすると、いやいや、と遮られた。「上司の方かな、いらしてましたよ。この暑いのにスーツまで着て、謝りにいらして。ご丁寧にそんな、ええのに。お忙しやろに、お宅らのせいちゃうやん。運の問題やわ。人間て、な。撃たれる時は撃たれますわな」
確かに撃たれたのはお前のせいやな、と僕は思ったが言わなかった。「いかがですか、お怪我の具合は」
探偵は、白い布で分厚く覆われた自分の腕に目をやった。「ぼちぼちです、特に後遺症とかも残らんような感じで。にしても最近の病院はあれですね、回転率、言うんですか。そう言うのが命なんでしょうけども、こんな何十針もしといてもう来週には退院の予定ですわ、そんな早ように追い出さんでも、ねえ」
と言って、探偵は笑った。四日前から喉に食べカスが引っかかったまま、みたいな笑い方だった。喋り方も、台本に書いてある事を取り敢えず読んでいる、というようなぎこちない感じで、聞いているこっちまで息が詰まってきた。僕はどう応じるべきか即座に判断できず、膝の上で握った自分の手をじっと見ながら、はあ、はあ、と返事をした。
そもそも僕はここへ一体何をしにきたかと言うと、謝罪をしにきたわけであるが、入社したばかりの会社で発生した事件の被害者に、その会社を通さず内密に接触を図ると言う誠に非常識で身勝手な行動を自分が起こしているという事実のヤバさに段々と心が打ちひしがれ、また、謝ると言ってもどうすればいいのかここへ来て迷い出していた。そう。深く考えず、勢いだけで来てしまった。まあ行ったら行ったでナントカなるやろー、とか思いながら鼻毛を抜いたりしながら、軽いノリで来てしまった。
とにかく立ち上がり、頭を深々と下げ、「この度はワタクシの知人によるとんだ非礼の数々をどうぞお許し下さい、あのアホンダラによく言って聞かせておきますので、と言ってももう奴は生憎もう、死んでおりますので、この落とし前はワタクシめが」と言って指を詰める、というのはふさわしくない気がする。見たところ被害者は僕と年も近いようだし、そうなるとあまり仰々しい感じよりも、「こないだの強盗さー、あれぶっちゃけワイのダチやねんけども。正味ワイが強盗せえ言うてんよー、まあまあもちろん冗談やで?言うてもだからあんたが怪我したんはワイのせいみたいなもんやねんよー、ほんまごめんなー、マジすんませんしたー、まあけどお宅も悪いわな、あんな煽ったらあきまへんわー、そらそうなるやろ、まあ次から気をつけや。ほんな、お疲れ」と言って家に帰り酒を飲んで寝るのが吉であろう。さあ、早く言ってしまおう。言えない。何故だろうか。僕は、恋しい相手になかなか思いを伝えられずに恥じらう生娘のようにもじもじしていた。股間のあたりが、氷水をかけられたように冷えてきた。頭の中で岩崎宏美の未来が流れ出した。二人だけ。白い部屋。自慢では無いが僕の元恋人の母親の姉の幼馴染の従妹の同級生は若い頃デビュー当時の岩崎宏美に似ていたんだろうなあと思った。知らんけどそう思った。僕は焦っている。最も向き合うべき問題は、謝るか謝らないかよりも、今この場の会話は僕の、はあ、という不明瞭な、返事とも溜息とも言えない音声で終わってしまっているという現実であった。何か言わな、何か言わなあかん。とりあえず何か言お、と思い、その後に続く何かが決まっていたわけではないが、僕は言った。「あの」
すると、その「あの」と、探偵の発した「そう言えば」というのが偶発的に重なり、反射的に僕たちはそれ以降の言葉を飲み込んだ。再び訪れる沈黙。気まずー。これは一刻も早く打開したい。
「ああ、どうぞ、お先に」「いやいや、どうぞどうぞ、俺は大した事じゃないんで」「いやいや、ほんまに。僕はもう言う事忘れましたんで」「ああ、そうなんですか」探偵の顔には、明らかに疲労の色が浮かび始めていた。
「いやね、1階まで降りて出たところに喫煙所あるんですけど、良かったらどないですか、と思って」
それを聞いて成程、と僕は思った。彼も相当気まずい思いをしていたらしい。見知らぬおっさん2人。特に楽しい話題も無い。息が詰まるようなこの状況を変えようと、気を効かせてそう言ってくれたのだ。生憎僕は喫煙者では無い。だが、ここでそんなことを言ったらますます気まずくなり、床に頭を打ち付けた後、窓から飛び降りなければならなくなってしまう。それは嫌だったので、僕は意気揚々と立ち上がった。「それは行きましょう、今すぐ。ヤニ入れたいっすよねえ、僕も思ってたんですよお、ええ」
僕がそう言うと、探偵はいかにもほっとしたような顔をした。
松田優作について探偵が話したのは、この時で、彼の使うライターの火力がやけに強く、僕は驚いてそれを指摘すると、このおっさんは照れたような感じで、自分で改造した、と得意げに言った。ライターを改造して火力を強くする事に一体何の意味があるのか検討がつかなかったので、僕は何故そんなことをするのか、と問うた。
「いやあ、まあな。うん…その、何て言うたらええんか」探偵は更に照れた様子だった。だが、言うのをためらっているようでもあった。「ちょっと、ドラマを見て、憧れて」そう言った後で、「まあ、知らんでしょうけども。あなたのような若い人は」と早口で付け加えた。この話題は早く終わらせてしまわなくては、という焦りと、もし可能であるなら少しでも引き延ばしたい、という願望の二つが同時に伺い知れた。
異常なほど強力な火力のライター、そして、若い世代は知らないであろう、テレビドラマ。僕には思い当たる物があった。
「工藤ちゃん」僕は疑問形でそう言って、探偵の顔を見た。僕は人間の顔に、こんなにも分かり易く、電気が点いたのを初めて見た。




