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翌日に探偵が逮捕されたと聞かされた時、僕は大して驚かなかった。人間なら誰しも、叩けば埃の一つや二つ出るもので、誰がいつ、何の罪で捕まろうが別に、驚くようなことではない。それに、僕にそれを知らせに閉店間際の銀行窓口にやって来た椚が、喪服のような黒い衣装を着ていたこともあり、僕は最初、探偵が死んだと告げられるのかと思っていて、それが逮捕された、だったものだから、「この鋏、幾らしたと思う?」と得意そうな顔で聞かれたので、相手のプライドを傷つけてもあかんだろうと思いちょっと少ない目に見積もって「えーなんぼやろ、二千円ぐらい?」と言ってみたところ、実際は八百円だった、みたいな、確かに百円均一店でも鋏が手に入るようなこのご時世に、わざわざ八百円も出して鋏を購入するのは相当酔狂なのだけれども、現実が予想を下回ってしまったことによって拍子抜けしてしまい、もう少し驚くべきところなのに、相手が満足するようなリアクションができず、頑張っても「あー、そうなんや、すご」ぐらいしか言えない、みたいな感じになってしまった。それよりも問題は、探偵が何をして逮捕されたのかということで、椚から聞いて分かったのは、自首しにいったということだけだった。
「昨日」と椚は言った。「進藤君帰った後、今から警察行くって」確かに昨日、僕は二人よりも先に帰った。
「ほんまは進藤君にも自分で言いたかったけど、勇気ないから言えんかった、すまん、やって」「伝えといてって?」「結婚したいくらい好きでしたとも言っとった」「それは僕じゃなくて、椚さんに言うたんやと思うで」
僕の言ったことが分かっているのか分かっていないのか、椚は鼻の脇を指先でかいていた。
「懲役なんすか」「恐らく」「長くなりそうなんですか」「知らん。そこまで」「何で聞かなかったんですか」「一緒やん」「一緒?」「どっち道、待っとかんとあかんねんから」「何、待っとくって」
僕が聞くと、椚は腕を組んで僕の目をじっと睨んだ。どういう意味か、自分で考えろ、というような顔だった。僕は大人しくそれに従った。「出てくるまで?」
「そうや」椚は頷いた。「バンド仲間やねんから」
「バンド仲間」と僕は呟いた。僕の呟きに、意味はなかった。カセットテープが録音した音声を再生するように、椚の言葉を繰り返しただけだった。
「バンドは」椚は、いつものように無機質な声で言った。「活動休止」
その後僕は上司に呼び出され、さっき君が話していた黒い服の女はこないだのリコーダーと一緒と思われるけれども、知り合いかと尋ねられた。僕の股間は、半分ぐらいに縮まった。けれども心臓は、元の大きさのまま白々しい顔で動き続けていた。「バンド仲間です」
「バンド?ロック・バンド?」「はい」「バンドなんかやってたん」僕は、はあ、とか、ええ、とか言った。
上司はそうなんや、と言ったきりその時は何も言わなかったが、僕は数日後に地元の岡山に異動を命じられた。椚のことが関係しているのか、していないのかは分からなかったし、こないだ僕を訪ねてきたあのヤクザのことか、はたまた森口との関係がバレたのか、何も僕には分からなかったけれども、どちらにしろ、会社を辞める事にした。地元を離れるためにここに就職したのに、そこへ戻されたりしたらたまったものではない。同窓会等に参加しなくても、(呼ばれたことはないけれども)地元で銀行員などしていたら、僕が金を借り逃げしている同級生やかつての知り合いに出くわす可能性が格段に高まる。それは非常にまずかった。せっかく就職できた場所ではあるけれども、生き方は星の数ほどある、とか思ったり思わなかったり、退職する訳だし特に世話になった上司にでも幾らか金を借りようかなとか思ったり、思ったりもした。今までよりも多少はでかい金額にするつもりでいた。
僕の部屋には、探偵に借りたままの松田優作のCDがあった。一度かけてみたけれど、優作の声が、僕の体を刻みひどく痛い思いをしたので、聴くのをやめておいた。
毎日のように喫茶店に通い続け、念の為そのCDを持っては行っていたけれども、探偵は現れなかった。椚もいなかった。まあ、バンドが休止中なので仕方ないけれども。数日間ニュースを見たりわざわざキオスクやコンビニで新聞を買ったりしてまで、探偵の名前を探しはしたが、一向に見付からなかった。椚が僕に嘘をついたとは思わなかったが、探偵のことは疑っていた。あの男、本当に自首なんかしにいったのか。そもそも、一体何のために。だが実際、喫茶店に探偵は来ないし、僕はCDを返せずにいるのだ。
僕は喫茶店で、一人テーブルにつきながら、探偵物語のことを考えた。一つも思い出せなかった。あんなに面白いと思っていたのが嘘のように、どんな話だったか、何が面白かったのか、ただの一つも覚えていなかった。
夏が終わっている事に気がついた。もう九月の半ばで、僕は今月末で会社を辞めるし、探偵物語のことも、忘れた。
「おっちゃん」僕は相も変わらず石像のように音のしないテレビを眺めている老人に向かって、声を張り上げた。「冷房、下げて。寒すぎ」
老人はのそのそと動き、カウンターの端に置いてあるリモコンを手に取った。
「なあ、おっちゃん」僕は尚も、大声を出した。「探偵物語、知っとる?」
僕の声が聞こえているのか、聞こえていないのか、老人はこちらに見向きもせずに、懸命にリモコンを弄っていた。
「松田優作、知らん?かっこええ、俳優」
「知らん」老人は言った。彼の声を、多分初めて聞いた。
「知らんのか。めっちゃ、有名やで」
「知らん」と老人は繰り返した。「わしは見てないから、知らん」
夏は終わっていた。忌々しい夏は、剃刀で切断され、宙に浮いていた。老人がリモコンを操作した後、店内は蒸したようになり、僕は耐えきれず外へ出た。外も暑かった。夏は終わっても、暑かった。
店先に猫がいた。汚い猫だった。元は白かったのだろうが、焦げたような色になっていた。僕はすかさず駆け寄った。「探偵さんか」
猫は僕を見て大きく目を見開き、後ろに下がって行った。僕は躓きそうになりながら、それを追いかけた。「探偵さんやろ、何で逃げんねん」
猫はくるりと踵を返し、一気に駆け、僕の目の前から消えた。湯気の立つコンクリートの上で、僕は一人でしゃがみこむようにして、猫の消えて行った方を見つめていた。急激に馬鹿馬鹿しくなった。阿呆やな。
阿呆やな、と頭上で声がした。前からなのか後ろからなのか、左からなのか右からなのか、判然としなかったけれど、とにかく上の方から、という気がして、しかしコンクリートの上には僕の影が落ちているだけだった。阿呆やな、そんなわけないやろ、と声がしていた。その声は、笑っていた。僕を笑っていた。何が、おかしいねん。




