10
酒を飲んでいた。多分。飲んでいたかもしれないし、飲んでいなかったかもしれない。まあ例え飲んでいたとしても、僕はほんの少しだけ。壊れた八ミリ映写機で映画を見ているように、瞬きする度景色が変わった。酒を飲んでいた。僕の部屋だった。目覚めると、シャツやら卵の殻やらガラスの破片が散乱している上で、探偵がギターを抱きかかえるようにして、鼾をしていた。椚は仰向けで煙草を吹かしていた。僕達の周りには、実に信じられないような数の空き缶や瓶が転がっていた。シャツがぐっしょりと汗に濡れて体に張り付いており、ひどく喉が渇いていたので、僕は体を起こし、まだ空いていない缶を探して、ぬるいビールを口に流し込んだ。すると僕は、一人になっていた。散らかった部屋に優作の歌が流れていて、僕はそこにうつ伏せの状態だった。誰かがドアを開け、入って来た。
「進藤、進藤」薄く目を開けると、探偵が驚いた顔で僕の肩を揺すっていた。「大丈夫か。どないしたんや。これ」
「大丈夫っす」「何じゃ、この様は。怪我、しとるやんけ」「大丈夫す」「誰にやられたんじゃ、言え」「探偵さん、何でおんねん」「何を言うとんじゃ、後で行くって今日、言うたやん、俺。酒買うて来て、って言うたんはお前やろ」「そうでしたっけ」「お前、酔うてんか」
「酔うてんの」椚が言った。椚の声では、ないような気もした。けれども、女の声だった。探偵は僕の隣で、鼾をしている。僕は手のひらで、がんがんに痛む後頭部を押さえていた。「こっちも」
言われたので僕は黙って、半分程残った缶を渡した。椚は器用に仰向けのまま飲みほして、空いた缶を放った。「ええの?」
「はい?」椚の突然の問いかけの意味が、分かっていないわけではなかったけれども、僕は聞き返した。これから、早くて数十秒後に自分が直面する厄介事に対処しなければならないのがどうしても面倒で、しばしの時間稼ぎをしたかった。「何がすか」
「ええの?」椚はもう一度、僕に聞いた。女は片肘で頭を支えて半身を起こし、僕を見上げていた。暗さに段々と目が慣れてきて、女の上瞼でうごめく睫毛まで見えた。着用しているシャツは白で、丈が短いのか細い腹周りと臍が丸見えだった。
恐ろしく騒がしい夜だった。都会だから、仕方なかった。通りでは車やバイクが走っており、飲み会帰りの人々がけたたましく笑っており、タガが外れたように叫ぶような声もあった。多分、自動販売機だろうけれども。コインを捻じ込まれたり、缶やボトルを引きずり出されたりするのがそんなに嫌なら、消火器にでもなればいいのだと思った。それか何だ、明日の公演に向けて練り歩く、サーカスの一行やも知れぬ。猛獣がうろついているかも知れないと気が付いたので、施錠をしているかどうか、不安になった。上を見ると、天井が近づいたり、遠ざかったりしていた。椚だけが、薄暗い部屋の中で静止し、僕を見上げていた。
僕は、床に手をついたまま姿勢のまま、手に刺ささる細かい破片を払い、探偵を起こしてしまってはまずいと思ったので極力音を立てないよう努力しながら、微動だにしない女の顔に、自分の顔を近づけた。
何もなかった。思った通りだった。椚の肌は蝋を溶かし固めて出来ており、唇は食紅を混ぜたシリコーンゲルだった。この蒸し暑いのに、顔に汗の一つも無いような薄気味悪い女に欲情できるはずもなく、まして触る気すら起きなかった。だが男として、それを女の椚に実直に伝えるのは忍びないような気がして、他の言い訳を探した。
「知ってるでしょ、この人」僕は言って、口を開けた間抜けな顔で眠っている探偵に親指を向けた。「惚れてんの」
椚はごろんと仰向けの姿勢に戻った。「鶴折れる?」
猛烈な吐き気が、腹の底からこみ上げた。僕は探偵の足元にあった焼酎の瓶を、ひったくるようにして手に取った。気がつくと陸橋の上にいた。僕はビルに囲まれていて、その隙間から見える空は灰色だった。橋から下を覗くと、砂嵐のような音を立てて絶え間なく、大小様々な車が滑って行き、無数のヘッドライドがぼんやりと滲み天の川を見ているようだった。天の川を見たことはないけれども、天の川よりも美しい景色を見ていると言い切る事ができた。砂嵐に混じって、優作の曲が聞こえた。けれども、優作の声ではなかった。そしてギター。笛の音。僕は曲のする方を探そうとして振り向くと、右脚と左脚が絡まり、次の瞬間には体と顔の側面に固い物が当たった。鈍い痛みに襲われ、目の前に火花が散った。さっきまで見ていたビルの群れが、何故か横を向いていた。それらは海の中のサンゴ礁のように、ゆらゆらと揺れていた。顔や腕に当たっている固い物がひやりと冷たく、あまりにも心地よかった。僕は目を閉じ、そのまま眠る事にした。
「寝るな、こんなところで。起きろ」起きろ、起きろと頭の上で声がして、手が頬を叩いた。「しっかりせえや」
瞼を押し上げるとひどく眩しく、ギターを担いだ男が僕を見下ろしていた。僕の頬を打っていたのはこの男らしかった。首から上が急激に熱くなった。カッと血が上った感じがした。僕はその男に引きずられるようにして体を起こした。地面が揺れており、二本足で立つのがやっとだった。僕は男に向かって、腕を振り上げた。腕は空をかいただけだった。視界はぼんやり滲んでおり、霞んだ光がうようよと現れては消え、消えては現れ、目の前にいる男の顔を掻き消した。
恐ろしく、眠たかった。今にも瞼が落ちそうだった。だが怒りがあった。それは僕自身を殺そうとしている、どうしようもない怒りだった。
「謝らんとあかんねん」舌が鉛のようだった。息を吸って、吐くことが、思うようにならなかった。「ヤクザに殺されるかもしらんのじゃ、にやにや笑いよんねん、僕が何をしたって言うねん。女も結婚しよるとか、電話してきよった。舐めとんか。謝ったってなあ、森口の代わりに探偵に謝ったって、僕は終わるかも知らんのじゃ、仕事もなくなるんや。何もかも終わりじゃ」
僕は腕を振り回した。無茶苦茶に振り回し続けた。自分の口から、果たして声が出ているのか出ていないのかどうかも分からなかったけれども、きれぎれの呼吸のまま、僕は叫んだ。「何もかもあいつのせいじゃ、森口の。あのシャブ中のせいで、もう終わりや、終わり…、終わり…」拳を作った手に、鈍い感触があった。低い、唸り声がした。鋭い悲鳴が聞こえた。視界が少し、開けた。僕は男のシャツの首を掴み、続けて三度、その顔を殴打した。僕が顔を打つ度に、男は削れるように小さくなっていった。白い手が伸びてきて、僕の手から男を引きはがそうとした。細くて硬い何かが、僕の額を打った。縦笛だった。頭蓋骨が高く鳴り、体がふわりと浮く感覚があった。僕は尻から地に落ち、背中を強打した。
地面は相変わらず、大きく左右に揺れ続けていた。
次に気が付くと、朝だった。部屋の中は無残な程に荒れ果て、嗅いだこともないようなひどい匂いが充満していて、強盗に入られたのかと思って一瞬、胃が冷たくなったが、自分でやったことを思い出してほっとした。体を起こそうとすると、全身のあちらこちらから悲鳴が上がった。頭が締め付けられているように痛み、胃から泥水が、喉元までせり上がってきていた。腕や脚や腹に、くすんだ緑色の痣が幾つもあった。出勤まで、まだ随分時間があった。僕は体が上げる悲鳴を完全に無視して立ち上がり、まず缶や瓶をかき集め、冷蔵庫の中身を元に戻し、一晩で腐っていそうな物は処分し、床にこぼれているものを拭き取り、家具や電化製品を定位置に収め、洋服を畳んで直し、割れた蛍光灯を取り外し、食器等の破片を拾い、掃除機をかけた。シャワーを浴び、顔や首など、衣服で隠せそうにない箇所の傷や痣に軟膏を塗ってから、小さく切った絆創膏を貼った。水道水をコップ一杯飲んだ。生ぬるかったし、お世辞にも美味い水ではなかったが、それでも胃のむかつきは収まり、体も少しばかり軽くなった。それから、真下に住んでいる住人を訪ね、昨夜は電球を取り換えようと思ったら椅子から転倒してしまった、大きな音を立てて申し訳なかったと言って頭を下げた。怪訝そうな顔をしていたが、何も言ってはこなかった。自室に戻り、ほとんど昨夜以前の状態に戻った部屋を眺めながら、夢だったのだと思うことにした。
夢だったのだ。
夢を見ているようだった。今思い返してみると、一齣、一齣が断片的に浮かび、それも靄がかかったように見えにくく、思い出そうとすればするほど、遠ざかっていった。とても現実に起こったことだとは、考え難かった。夢だとしか思えなかった。探偵も椚も、昨夜は来なかった。何やかんやで酒を飲みながら寝落ちし、嫌な夢を見て、酒の勢いも借りて夢遊状態となった僕が暴れ、目が覚めてあの様だったというわけだ。ごっついやってもおたわあ、まあたまにはあるわな、あるやん、誰でも、真面目にしとっても酒の失敗ぐらいあるわな、誰にも迷惑かけてへんからええやん、にしてもごっつ暴れるやん、もー僕ちゃんたらあかん子やん、てへへへあはははははははと楽しい気分で笑おうとすると、背中にぞっと悪寒が走った。
自分が握った手で、その尖った部分で、柔らかい物を突き刺す感触が思い出された。
僕は陸橋で人を殴った。
それも何発も。
「そんなわけないやん、あははははは」僕は部屋で一人、笑った。あまり、楽しい気分ではなかったけれども。
全て夢ではなかったということが、その日の夜に分かった。
退社後、夕飯を食べに例の西成の喫茶店に出向くと、いつもの席に先に座っていた探偵の顔が、変わり果てていた。右の瞼が大きく腫れ上がり、青白い顔の上に、青黒い痣が浮かんでおり、口の端には裂けたような傷が出来ていた。いつもかけているサングラスは、出来損ないの鳥の巣のような毛髪に突き刺していた。恐らく腫れた瞼にレンズが当たって、痛いのだ。その隣には、何も変わりのない椚が座っており、二人共黙って饂飩をすすっていた。探偵は、口の中も切っているのか、熱い饂飩が沁みるらしく、時々顔をしかめていた。
SMAPの曲を、歌おうと思った。足がぴったりと床に張り付いてしまっており、その場から逃げ出すことができなかったから、せめて頭の中でだけでも現実と、違う場所へ行こうと思った。無理だった。SMAPの曲で、まともに知っているものが一つもなかった。青い稲妻が僕を責めた。炎が体を焼きつくした。僕は黙って座り、二人が食べているのと同じものを誂えた。饂飩が来るまでの間が、永遠かと思うほど長かった。僕はすることもないし、言うべきことも思いつかないので、取り敢えず泣いておいた。泣いておいた、というと故意に、つまり演じて作り涙を流したというように思わるかもしれないけれどもそうではなく、かと言って悲しかったから、とか、悔しかったから、とかでもなく、玉ねぎを切っている時のように、鼻を思い切り強打した時のように、勝手に体が塩を含んだ水分を目から吐き出したのだ。その水分に涙という名が付いており、感情が関係していようが、いまいが、とにかく目から涙が流れる現象を総じて、泣く、と呼ぶのだから、仕方がないのだ。何が仕方ないのだ。
「大したことないから、ええよ」探偵が、言った。目が腫れぼったい上に、俯いて食べているため、表情を読み取るのが難しかった。「別に気にせんでええよ。酔うとったんやろ」
探偵はどうやら僕の涙の理由を、殴って怪我をさせたことへの悔恨の情だと思っているらしく、そんな勘違いをさせたままにしておくのが何だか申し訳ないような気がしたのでこれは意図して流れている涙ではないことをきちんと説明しようかと思ったのだが、丁度饂飩が来たので止めた。かなり腹が減っていたので、僕は何も言わずに、饂飩に手を付けた。
「飲め飲め言うたんは俺やし、べろべろなっとったお前を無理に連れて来たんも、俺や。なあ、進藤」何も気にせず饂飩を食べ始めている僕に向かって、探偵は怒っているような、焦っているような声を出した。「気にせんでええねんて、もう、やめろ。進藤、聞いとんか。泣くな、泣くのをやめろ」
気にしていないというのに、何も気にしていないというのに、探偵は必死に僕に向かって気にするな、と言い続けてきた。気にしていないというのに、ただ腹が減っているだけなのに、なのに、僕の目からは涙がぼろぼろと零れ続けた。器の中の汁が、大雨の日の溜池のように、派手な飛沫を立てていた。
「ライブにはな、進藤君な。色々あんねん。色々起きる。トラブルもあんねん」椚はとっくに食べ終わっており、煙草を吸っていた。「ロックやねんから」
昨夜のあれは、ライブだったのか。ライブだったとしたら何だ、僕は、ギターを弾いて歌っている探偵と、リコーダーを吹いている椚の横で、泥酔状態でふらふらになりながら、怒声を上げたり地べたに寝転んだりするという醜態を晒した挙句、探偵をタコ殴りにしていただけではないか。「初回にしては上出来やったと思うで」
どこがだ。一体何をもって椚は、上出来だったなどとぬかしているのだろうか。まさかこの女、僕に情けをかけているのだろうか。そう思った途端、顔がぼっと熱くなり、髪の生え際や舌がじりじりと焦げ付いた。忘年会で全裸になって一発芸を披露したところ、全くウケなかった、時みたいな気分になった。今すぐ逃げ出したかった。衣服の着用を後回しにしてでも、僕は逃げなければならなかった。その場から。
「ほら、進藤。椚さんもこう言ってるやろ。やから泣きなや、俺が何か、あれやん。泣かしてるみたいになるやろ」
「泣くでしょ」だからこれは反省とか、後悔とか、そんなこととは一つも関係のない涙であって、どうのこうの、と説明することは、僕はしなかった。「まともやねん。僕は。まともな人間は、他人に怪我させたら泣くでしょ。泣くねん、しんどい思いすんねん、怪我させてもうた本人の前で、真顔で飯食えたら、それ頭おかしい奴やん」
「何や、進藤。しんどいか」「しんどいっす」探偵のシャツの袖から、弾痕が覗いていた。それは、五センチ足らずの縫い目だった。固い弾に突き破られた皮膚はすっかり生え変わり、死んだ蚯蚓のような、小さな一本の線だけを残していた。
古びた、傷跡だった。
「探偵さんが」古い腕の傷とは正反対に、探偵の顔に数箇所できた痣や切り傷は若く、初々しく、新鮮だった。「撃たれたん、僕のせいやねん」
「それはちゃうぞ、進藤」探偵は即座に僕の言った事を否定した。「お前のせいではない。優作になれると、思ったんや。あん時」探偵はまた、勘違いをしていた。僕が銀行の職員として、強盗に入られていながら何もできず被害者を出してしまったことに責任を感じている、とでも思っているらしかった。「何かかっこええ男になれると、思ったんや。でも無理やったんや、死ぬのが怖くてしゃあなかったんじゃ。痛かってん、撃たれて。死ぬほど。怖かったわ。びびって小便ちびったわ、そんな俺、かっこええか?」「クソださいと思います」「そこまで言わんでええやん、けどまあ、そうやん。でもしゃあないんじゃ。優作だってきっと、死ぬのは怖かったわ。やけども…、かっこええ優作には、俺はなれん。俺は俺や、進藤は進藤や。酔ってやらかすこともあるやろ。な、ちゃうか」
ちゃうのになあ、と僕は思った。そう言う事を言っているのではなくて、あの強盗犯に、そもそも強盗をやるようけしかけたんが、僕なんや。僕があのシャブ中に、強盗でもやれ等と言ったりしなければ、あんたが撃たれるようなことにはならんかったんじゃ。けれども探偵には伝わっておらず、と言ってもまあ普通に考えればこんなことがろくな説明もなく、伝わるはずがないのだけれども。僕は、探偵の見当違いな僕への励ましともとれるその言葉を嘲笑おうと思ったが、無理だった。勝手に溢れてくる、あくまでも僕の意思とは関係なく溢れてくる涙に顔が歪むだけだった。
「わかんないす」僕は探偵の顔を見るのも、僕の目から出た液体がかなりの量混入した饂飩を食べるのも億劫で、意味も無く器の中を箸でかき混ぜていた。僕の視界に入っている椚は、両手の指をぱちぱち鳴らしながら、体を揺らし、何か口さんでいた。
「とにかくもう、気にしな」探偵は煙草を二本咥え、火をつけた。ライターから、勢いよく火が上がった。「お前も吸え」
僕は探偵から渡された一本を口に挟み、思い切り吸い込んだ。熱く、苦く、不快なだけの煙が喉を通った。咽返りそうになったが、必死に抑えた。必死に息を殺し、煙の逆流を押しとどめた。




