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天国  作者: 揺リ
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ここから天国は 

遠くの街

その門を叩いた者は

二度と帰らない

【天国は遠くの街 / 松田優作 1981年】

夏が来る度に、後ろめたい気持ちになった。それは丁度、返すつもりも無く金を借りた相手に安物のドックフードを食べるよう強要されている時の感じに酷似していた。相手は僕に貸した金の事については一言も言わない代わりに、僕を黴臭い部屋のささくれ立った畳の上に正座させ、相手にとって僕がおよそ知らなさそうな難解な語句を並べ得意げな顔をする。業務上過失致死、サイン・コサイン・タンジェント、高度資本主義社会、辟易、といった具合である。辟易した僕は今すぐ逃げ出したいが、何しろ金を借りている。だから、精神を病んだ猿のように手を叩きながら精一杯べんちゃらを言う。だが相手はそれだけでは満足しない。卓袱台の上にぼそぼそと積もった銅色の犬の餌を指差し、ほら食え、と言う。僕は分かっている。相手は僕がこう言うのを待っている。もう堪忍して下さい、金の事は何とかしますから、と。だが僕はそんなことは言わない。二万円を返したくないばかりに僕は、その不健康な兎の糞にも見える安い餌を右手で思い切りわし掴む。大丸や東急ハンズで売っているような、都会的で洗練された上品なペットフードでは無い。口に入れる。ざらざらとした気色の悪い舌触り。全身の毛が逆立つ。噛む。湿った、どことなくブラジルの公衆便所みたいな匂いが鼻の奥と胃にまで広がり、僕は嗚咽を漏らす。吐き気と一緒に、涙が溢れる。僕に金を貸した相手の顔を見る。苦しむ僕を見てさぞ面白がっていることだろう、と思ったが、青ざめていた。僕が本当に犬の餌を食べるとは思っていなかったのだろう、驚きのあまり出来損ないの笑顔、としか形容のできない顔で、目の下を痙攣させていた。めっちゃ、引いていた。結構、結構。そして思う。いかん。何故、僕はこんなことをしているのだろう、と。いかんではないか。この僕が、至極まともな人間である僕が…、ボクハマトモヤ…。

勿論、これは僕にとっての夏を出来るだけ分かり易く理解してもらうための便宜上の例え話であって、実際僕はドックフードを食べたことは無いし、そもそも金を借りた相手とは一切の関わりを断つように心がけている。先ほども言ったように僕はまともな人間なので、僕にとって最初(はな)から返すつもりも無く金を借りるということはその相手の人間とは縁を切ることを意味しており、そうなれば顔を合わす必要も無いし犬の餌を食わされずに済む。

この時代において、表面的な交流相手と縁を切るのはとても簡単なことだった。電話に出ず、メールの返事をしなければ、数日、長くても数週間で向こうから僕への接触をぴったりと断ってくれる。僕の方から逃げたり隠れたりする必要は全く無い。

だが、借りた金を返さない、というのは俗に言う借りパク、という行為であってそれは窃盗罪に値するのではないか、刑事責任を問われるのではないか、と危惧する方もいらっしゃるだろうが、真剣にお答えすると、そんな心配はない。何故なら僕くらいにもなると、その人間と少し付き合えば「すぐに諦めてもらえそうな額の上限」が読めるようになるからだ。つまり、借り逃げをしたら告訴される危険性のある大金をせびったりしなければいい。それはまともじゃない人間のやることだ。それに僕だってそこまで金に困っているという訳ではない。そんなささやかな、小遣い程度の金で、相手は騒ぎ立てたりしない。警察に言ったり周りに相談しようものなら、金を貸した本人の方が恥をかくことになる。でも、出来る事なら返してほしい。しばらくは連絡が来る。無視する。その内諦めてくれる。もう諦めよう、大した金じゃないし、自分が恥をかくくらいなら…みたいな、妙なプライドを持った人間は割に多くいるようで、そういう人間が僕に金を貸してくれる。「出し惜しみは男が廃る」みたいな事を思っているに違いないが、それは全く立派なことであり、すごいすごい、げっついわあ、と僕は思う。特に僕より年上の男は大抵そうだ。

僕なら絶対に、一円たりとも他人に金を貸すようなことはしないし、万が一何かの手違いにより六百円くらいを貸したとしても、この手に返してもらうまでは必ずやこの世の果てまで追いかけ、最悪の場合借り逃げをされる、というようなことがあった場合、地獄の底へ突き落すだろう。

もちろん、金を借りる相手はその時期により、きちんと選んだ。既に卒業した学校の先輩、学生時代のバイト先の店長、別れた女の今の恋人…通り過ぎて行く時間と共に僕の人生から消えたとしても何の問題も無い人間たち。

そうして金を借り、連絡を絶やす度に僕を信用し友人として見る人間は消え、それに比例して僕を忌み嫌い、二度と関わるまいと僕のアドレスを消す人間が増えて行く。オセロ盤の白石が次々とひっくり返され、段々と黒く埋め尽くされていくように。けれども、だからと言って何なのだ?

他人から少なくとも良いように思われ好まれるべき存在である、ということは、確かに必要だし、しつこいようだが僕はまともな人間なので、そんなことは分かっている。だがそれは、生きていこうと思えば必要最低限で構わないということも僕は分かっている、そう、まともやから。先ほども言ったように時間というのは通り過ぎていくものだし、それは決して一繋ぎになっている訳ではなく、例えるならテレビの番組のように、お昼のワイドショーの次は旅番組が始まり、ニュースが始まり、ニュースが終わったらクイズ番組が始まり、次はドラマが始まる、と言ったような具合で一つが終わってしまえば先ほどとは全く無関係の、縁もゆかりもない時間が新たに始まっていく、というのが人生だと僕は思っていた。

なので僕は高校の先輩に媚をうり、バイト先でへりくだり、元恋人の男に愛想笑いをし、腹の中で「ムカツク、殺す」と思った相手に殴る、蹴る等の暴行を加え、モップの柄の部分で血塗れになるまでどつきまわす、というようなことをしていたのは気性の荒かった十代も前半の頃だけで(誰だってそうに違いない、それは僕がまともかどうかと言うようなことには何の関係もない)、少し大人になってみれば、その場その場で気の利いたことを言いながら、激しい怒りに心を囚われるのではなく、立つ腹をなだめ苦い薬を飲下すように言葉を飲み、番組が終わった頃を見計らって金を持ち逃げし、消息をくらました方が余程効率が良いということも知った。

だがそのように考えない人だって勿論たくさんいるだろうし、「持つべき物は友、そして人と人との絆やど、ワレ」と仰る方もおられるだろうから、僕はそういう方々に何も自分の生き方こそが真理だ、等と嘯くつもりは全くない。そういう方々も、僕の中では過ぎていくものに過ぎないわけだし、これは世の中の大半の人がそうだと思うが、僕自身、僕と違う考えを誰かに押し付けられたくない。だから僕も押し付けないでおこうと思います、神の子イエス・キリストも聖書の中で、人にしてほしくないことはあなたも人にしてはならないという言葉を残していた、というのはあくまで僕の想像に過ぎないが、そんな風な感じで、真面目で清く正しく、公明正大、威風堂々たる生き方で人生を歩んできた僕だが、どうも夏が来ると後ろめたさを感じた。

一点の曇りも一人の友人も無い僕の人生に、やましいことなんて何もないのだから後ろめたさを感じる必要などどこにもないのだが、夏という季節には、僕を圧迫し追い詰めるような、そんな不安感を煽る不快な感じがあった。

その原因となったのは、平成二十六年の夏にあった。忌々しい夏であった。

それ以降、夏というのは僕にとって後ろめたく、また同時に、強すぎる冷房の風と煙草の煙が漂う中、時代遅れな喫茶店の角の席で二人の友人と頭を突合せていたあの時間を意味した。

平成二十六年夏、僕には二人の友人がいた。


友人の内一人は日本が世界に誇る昭和のスーパースター、松田優作の熱狂的なファンであり、松田優作が既に亡き今という時代に生まれたことを、しばしば嘆いた。僕は彼を探偵と呼んだ。探偵とは七月も半ばを過ぎたある日に出会い、僕たちは丁度銀行強盗に襲われていた。


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