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五月病(下)



 その後、俺の通報により救急車が駆け付け、小百合さんと唯は病院に運ばれた。

 いったいどこで聞きつけたのかわからないが、親父もすぐに病院に来た。

 小百合さんには目立った外傷はなかったものの、精神的なショックが大きく、とてもすぐに帰れるような状態でもなかったため、今日は病院に入院することになるらしい。もっとも夜十一時ごろ一度小百合さんの様子を見に病室を訪れたが、意識が戻っている様子はなかった。

 唯は手首をカッターナイフで切り裂いたらしく大量の出血により意識はないものの医者の懸命な治療で、何とか一面はとりとめ、しばらく輸血し安静にしていれば意識は戻るだろうということだった。

 女の子で、初めての自殺というのが不幸中の幸いだったのだろう。佐奈の手首の傷はテレビの自殺のシーンに映っているように一文字に切られていた。女の子の力であったということと、たった一度しか刃物を入れられていなかったことから、その切り傷が致命傷になるほど深く入ることはなく、助かったようだ。

 唯の遺書にはただ一言。『ごめんなさい』とだけ、書かれていたらしい。

 

 その後警察の方にもいろいろ話を聞かされ、後日また事情聴取ということで落ち着き、解放された時には、もうすでに十一時を回っていた。


 俺は親父に連れられて帰った。

 いったいどういう経緯で小百合さんの自宅に行くことになったかという話は病院でした。

 しかしそれ以後、親父が俺と言葉を交わすことはなかった。

 まるで拘置所に連れていかれるかのようなどん底の気分で、俺たちは家に帰った。



 家に帰った親父は、台所の棚をひっくり返しては酒を持ち出し、特に冷えてもいないまずい酒をがぶがぶと飲んだ。

 俺はそのさまを、親父の向かいに座ってじっと見ていた。そうしなくてはいけないと思った。

 親父が酒を満足するまで飲んだ後、何を言われるかわからない。ただ俺はどんな言葉も受け入れなくてはいけないと思って、ただじっと、親父が酒を飲み終わり俺に言葉を浴びせるのを待った。

 親父は一升瓶を丸々飲み切ると、また次の瓶を傾けた。


 夜も更け、ただ何一言も交わさない酒場が続き、気づけば三本目の一升瓶を親父が手に取る。ちらりと時計を見れば、もう三時を回っていた。

 部屋はだいぶ酒臭くなるが、親父はまだ飲むのをやめない。

 俺も、それを止める気にはなれなかった。

 そして三本目の一升瓶の三分の一を一度に呑んで、一度大きくげっぷをした。

 そして親父はその一升瓶をおもむろに掲げた。

 そしてその一升瓶を鈍器を握るように逆さに持つ。当然残り三分の二ほど残っていた中身はぽとぽととこぼれた。

 親父はたっぷりと酒を浴びた。比喩ではない。本当に着込んでいる服にも体にも酒を掛けた。

 だが、それがすべて重力によって漏れ出すよりも先に、親父は一升瓶を振り下ろした。

 ガッシャアン!と耳を覆いたくなるような不快な音が響き、濃厚な酒のにおいが鼻を突いた。

 

「翔ぅ」

 もう一升瓶を二本も体に入れ、さらには酒を被ったというのに、呂律もそこまでおかしくなるようなこともなく、恐ろしいほど冷たい声で俺の名を呼んだ。

「もう三時だ。ガキは寝ろ」

 でも親父は、まだ酔っぱらってはいなかった。

「その前に、言いたいことがあるんじゃねえのかよ」俺は、膝の上の握りこぶしを固くしていった。

「はっ、言葉なんざ、忘れたよ。忠告するぞ。ガキは早く寝ろ。ここからは大人の時間だ」

「いい。最後まで付き合う」

「俺はぁこれから酒を浴びるんだ。あるだけの酒を浴びてやる。だから、俺が酔っちまわないうちに、早く寝ろぅ、ひっく」

 親父は少し呂律が怪しくなりながら大きな声を出し、割れた一升瓶を振り回して威嚇した。

 その親父の配慮に目頭が熱くなるのを感じながら、俺は変わらず親父と対面する。

 「起きてるよ。酒飲んだら、むしゃくしゃするだろ」

 俺がひかないことを親父も悟ったのか、酒瓶を振り回していた手を下ろした。

 そして一度俺の顔を見てから、親父はまた割れた酒瓶を掲げ、それを眺めた。

「……翔ぅ、殴られるってのはなぁ、いてえんだぞ?」

 その言葉を、一つ息を呑んでから重く受け止めた。

「……そうなんだろうな」

 

 



 **********



 そして俺は、誰かのすすり泣くような声で、目を覚ました。

 痛む瞼を持ち上げて、目を開け視界に光を入れると、目の前にはぽろぽろと涙を流す小百合さんの顔があった。

 あぁ、俺はあれから気を失って、今病院にでもいるのだろうか。そうも思ったのだが、あまりに強烈な酒の匂いが未だ漂っているのだから、きっと違うのだろう。

 冷静になって自分の体を見つめなおしたいが、どうにも皮膚を酒に浸してしまったのか妙にふわふわしていて力が入らない。それに、なんだか顔が痛む。

「なんで、……なんで、なに……やってるんですかぁ?」

 小百合さんは、大粒の涙を俺の頬にしたたらせて、俺の頬を撫でた。実は地味にそれがいたい。ただその痛みのおかげで完全に目が覚めた。

「どうして小百合さんが、ここにいるんですか?病院は、いいんですか?」

 小百合さんは昨日はまだ意識が戻っていなかったはず。それなのに、こんなところにいても大丈夫なのだろうか。と思い問いかけるが、小百合さんったら、いじらしく俺頬を撫でるだけだ。

「私のことより、自分のことを心配してください。どうして、こんなことになっているんですか?」

 あぁ、きっと今小百合さんの前にはグロティスクな光景が広がってしまっているのかもしれない。でもスンと鼻を吸ってもとらえるのは酒の匂いだけで血のようなにおいも鉄の味も感じない。俺の鼻がバカになっているだけかもしれないが。

「今の俺の顔、どんなんなってます?」

「なんかもう、潰れたザクロみたいになってます」

「げ、マジですか。トマトらへんまでは想像してましたけど、潰れたザクロですか。うわぁ」

 さすがに小百合さんの感想にガクッとなって、大いなる大地に身を任せようと重力にさらに正直になる。

 すると後頭部がやけに柔らかい感触に受け止められてなかなかに心地いい。

 それが小百合さんの膝であると知ったのは、もう少し堪能してからだった。

「今気づきましたけど、これ小百合さんの膝枕なんですね。すみません、すぐどきたいんですけど痛くて無理です」

「いいです」

「あと、親父ってまだ生きてます?」

「生きてますよ、今はお風呂で酔いを醒まさせてます」

「いま、何時ですか?」

「もうお昼の十二時です」

 あぁ、だから小百合さんが今ここにいるわけか。もうそんな時間まで眠っていたらしい。

「唯は、目を覚ましました?」

「いいえぇ」小百合さんはまたぽろぽろと涙をこぼしながら首を振る。

「気休めかもですけど、唯、そんなに傷は深くなくて、二三日すれば目を覚ますらしいですよ」

「それももう聞きましたぁ!」

 もしかして唯の病状を聞いていないのだろうかとも思い、気休めにと声を掛けたのだが逆切れされてしまった。

「もう、本当に、どうして二人がぁ、もともとは、私のわがままなのに」

 そして、どうして、どうしてと泣きながら俺の頬の傷をさする小百合さんを見て。

 違う。はっきりと胸に罪悪感を抱いて、言った。

「小百合さんだけの責任じゃない。俺だって、あいつを追い込んだ」

「翔君の責任なわけ、ないです。ぜんぶ、ぜんぶ……」

 違う。小百合さんは小百合さんが思っているほどに罪深くなんかない。

 だって、小百合さんはいつだってあいつのためを思って、前に進もうと努力してきた人なのだから。

 そして俺も、小百合さんが思っているほどに罪の軽い人間じゃない。

「だって俺、あいつの殴られた後の顔、ちゃんと見てすらいません」

「え……」

「女の子なのに、その顔面殴っておいて、俺はそのあとのあいつの顔をちゃんと見てすらいないです」

  そして俺は、とっておきの傲慢の笑みを浮かべた。

「どうですか?少しは、あいつらしい顔になってます?」

 俺はこんな方法でしか責任をとれないし、こんな責任の取り方しか知らないのだ。

「そんなことのために、こんなことをしたんですかぁ!」

 その小百合さんの一言が、すごく胸に刺さる。

 どうして俺という人間は、こんな責任の取り方しかできないのだろうか。

 俺の犯した罪に対する責任の取り方を、どうしてこんな形でしか見出だすことができないのか。

「なんで、なんでっ、そんな理由で、こんなに傷ついて……」

 人を傷つけたから、じゃあ自分も同じように傷つけばいい?

 同じだけの傷を負えばそれで禊は済むのか?そんな単純な方法で、傷ついたものは報われるのか?そんなわけない。こんなのはただの自己満足だ。

 でも、今の俺にはその自己満足な方法でしか、己の罪の禊をすることはできない。

 嗚咽が、混じった。すすり泣く小百合さんの泣き声に、俺の濁った声が混じる。

「ごめんなさい」

 結局自分一人では何もできない。自分の犯したことへの責任を取ることすらも。


 始まりは誤解とすれ違いだった。もちろん俺だって必死になっていた部分がある。だけど、今更のように俺が壊してしまったものはとてつもなく大きくて、とてつもなく尊くて、今目の前で泣いている人の何よりも大切なものであったんだと思うたびに、それをもうどうしようとも取り戻せないやるせなさと申し訳なさが、俺の心を砕いた。

「たとえ何か良くないことをしてしまったのだとしても、こんな形で責任を取ろうとなんかしないでくださいよ!」

それなのに、どこまでも優しい小百合さんは、また俺の傷を撫でた。

「こんなので納得できるのなんて、男の子ぐらいしかいないんですから」

 そしてまた、小百合さんは泣いた。



「翔君」

そのまましばらく、お互いの泣き顔を見ながら過ごし、ようやくお互いが泣き止んだ頃。

 またポツリと小百合さんが言った。

「翔君にとって、今、私と唯って、どういう存在ですか?」

 ただ、その言われた意味は分からずぽかんと口を開ける。

「翔君にとって、私たちはまだ、家族になれてはいませんか?」

 そして、その意外な切り出しに、俺はまた小百合さんの顔を視線から外した。

「……」

 その時、胸の中で敗北感に似たような気持が漂う。いつの時か経験したことのある感情だった。

 それが以前、同じように小百合さんに強い感情のこもった瞳を向けられ、その瞳と目を合わせないよう視線を逸らした時のことだと思い出す。その己の行動を意識して、やはり何も変わっていないと嘆息した。

 俺はまた逃げようとしたのだ。

「……」

 俺は、小百合さんの顔を正面にとらえる。それから、口を開いた。

「まだ。そんな感じはないです。……迷惑かけた知人。そんな感じです」

 そのまま率直な今の気持ちを伝えると、小百合さんの瞳が揺れて、今度は小百合さんが視線をあげて空を仰いだ。そして大きく息を吸ってから。

「翔君。私たちと、家族になってくれませんか?」

 そのあまりの衝撃発言に、俺はまた大きく口を開いた。

「正確には、あの子と、唯と、家族になってあげてくれませんか?」

 そしてさらに目が点になる。

「え?それはどういうことですか?お嫁にもらってくれとそういうことですか?」

「いいえ、違います」

 さすがに即答で否定される。

「…………あ、でもそれでもいいかもですね」

「ちゃんと否定してください?」

「とにかく、どうでしょうか?あの子と、家族になってあげてはくれませんか?」

 そう真剣な顔でもう一度問い返される。

「いや、そもそも俺は嫌われていると思うんですけど……」

 しかし前提条件として、俺と唯との間には、もうどれだけのことをしても埋められない溝ができているはずだ。俺がどうのこうのという問題ではなく、先ず唯の方から近寄ってくるわけがない。

「土下座で謝ってください」

 しかしどうやら小百合さんは本気でいらっしゃるご様子。

「いや、どう考えたって他の人を探した方が……」

「もしかしたら、今回が最後になってしまうかもしれないので」

「いや、でも……」

 あまりに唯が折れに心を許してくれるというのは希望的観測過ぎると、俺は苦言を呈するつもりでいたのだが、小百合さんは構わず迫ってきた。

「わかります。翔君の言いたいことはわかります。だから、もしで構いません。もしあの子と一緒に再び暮らせるようになるとしたら、あの子のことを家族だと、思ってはいただけませんか?」

 そういわれても、俺の中にはまだ佐奈がいる。母さんがいる。その二人がいる事実は変わらなくて、俺の家族はそれで完結している。

 それはなにも変わりはしない。

「俺には、妹がいて、母さんもいます」

 だから、俺にはまだ小百合さんの願いをかなえることはできない。そう答えた。

 でも、それでも小百合さんは口を開いた。

「翔君に大切な妹様がいることは知っています。もう翔君の中には譲れない家族がいることはわかっています。だから、妹と思ってもらえなくてもいいんです」

 そう、きいているうちから、大体小百合さんの言いたいことはわかってきていた。きっと小百合さんは、妹だとか、母親だとかそういうのにこだわってほしいんじゃない。そんなことではない。ただ、家族というにふさわしい感情を、あの子に与えてくれないかと。あの子が俺を家族だと思い、家族であるという感情を向けること、それを受け入れてくれないかと。そう小百合さんは言っているのだ。

「あの子のことを、唯という子を、ただ、あなたの家族であると思ってはいただけませんか?」

 そんなまっすぐな願いが込められた視線に射抜かれた。

「でも俺、向き合えないかもしれないですよ?今回だって、現実からも、思い出からも、面影からも、何もかもから目を背けて、逃げてきた。その結果が、このすれ違いです」

 でも、俺にはそんなまっすぐな視線にこたえられるほどの強さを、持ってはいないのだ。

 小百合さんに起こされ、母さんの面影を感じて、心を乱して逃げたように。

 佐奈の部屋を叩いて、唯が「はい」と返事をする現実から、目を逸らし続けてきたように。

 

 俺には、そんな視線を向けられる資格も、そんな視線を向けてもらうほどの器もない。

「俺は、またあなたたちを傷つけるかもしれませんよ?またあなたたちは、苦しむことになるかもしれないですよ?それでも――」

 いいんですか?その続きを言おうとしたが、いくつしむような笑みを浮かべた小百合さんに頬を撫でられ、続く言葉を失った。

「そんなことないです。さっき、ちゃんと私の目を見て言ってくれました。今までの翔君じゃないです。きっとこれからは、もっと向き合っていけますよ。それに、それでももしすれ違ってしまった時は、その時は一緒に傷つきましょ?」

 ただ、そう微笑む小百合さんの顔はどこかはかなげで、もしもその顔に手が届いて撫でることができたのなら、もしかして泣き出してしまうんじゃないかと思ってしまうような、そんな顔だった。 

「どう、したんですか。どうしてこんなことを?」

「私は、あの子の家族になれませんでしたから」

「え?」

 そしてその儚げな顔は、また静かに涙を流し始めた。

「だから、あの子のお兄ちゃんに、なってあげてくれませんか?」

 そしてまた涙を流しながら、気丈に笑い始める。

「どうして、家族になろうって言ってくれた小百合さんが、そんなことを言うんですか?」

「私では、あの子の居場所を、作ってあげられませんでしたから」

「それで、本当にいいんですか?今までずっと小百合さんはあいつの家族になろうと頑張ってきたのに、それで……」

 その俺の言葉に、小百合さんの顔がこれでもかというほどに歪む。確信的にいいなんて思っていないことは明らかだった。

「いいなんて、思ってないです」

「だったら」

「だけどっ、あの子にはもう、お父さんもお母さんもいるんです」

 しかし小百合さんは、そう悲痛に叫んだ。

「でもあなたはさっき俺に妹とか母さんとか関係ないって言ったじゃないですか。そんなものに縛られなくったって、それと同じだけの思いをぶつけあえるのなら、それも一つの家族だって言ったじゃないですか」

 そう小百合さんは言った。つい先ほど言った言葉だ。それを忘れるはずがない。

 でも、違うのだ。小百合さんはその言葉を時には自分に言い聞かせて戦ってきた。唯の母親でなくてもいい。唯の家族にさえなれればいいと。だけど……。

「でも私は、もう五年間も、家族にはなれませんでしたから」

 そういう思いを抱いていても越えられない壁を感じているからこそ、彼女は涙を呑んであきらめようとしているのだ。

「だからお願いします。あの子の家族に、なってあげてくれませんか?」




 **********



 どうやら、俺は不良になったらしい。

 唯の顔面を殴った翌日から数え、三日間、学校は無断欠勤である。

 まあ親に連絡が行くかもしれないが別に構いはしない。だって親父も俺が休むことは知っているのだ。

 しかし担任の山田教員には、そろそろ雷が落ちているだろう。おそらく次に登校したら、その瞬間にあの狭苦しい進路指導室に連行されるはずだ。それを考えると何とも憂鬱になる。もういっそのことこのまま学校をやめてしまおうか。

 ……どうやら俺は不良になったらしい。

 窓から空を見上げると、これでもかというほどに蒼かった。

 今頃は学校では、空がこんなに蒼いというのに、縮こまって空を見ることもなく勉強に励んでいるのだろうか。

 俺も進学校の高校に通っている子構成の端くれであるのなら、その中に混ざらなくてはいけない。そうしなくては、俺は置いていかれることになる。

 結局俺はゴールデンウィークから二週間、ほとんど勉強できていないのだ。この遅れは相当なものだ。

 それなのに……。

かつては一日勉強に支障が出るだけであれだけ心を乱し騒いでいたというのに、どういうわけか心は静かなままだった。

もともと俺に、俺を勉強に駆り立てるような明確な目標など存在はしなかった。

俺は叶えたい夢があるわけじゃない。ここに行いきたいという明確な大学進学の希望があるわけでもない。それなのに俺が勉強に明け暮れたのは、ちょうどいいほどに時間を忘れることができたからだ。

勉強をしていれば、向き合わなくちゃいけないものから、ある程度距離を置くことができたからだ。

だから、本当は勉強に手がつかなくなったからと言って、それほど心を乱すこともなかったのだ。

そしてそれに気づいてしまった瞬間、今も手元に参考書はあるもののそれを開こうとは思わなかった。

俺はパイプ椅子の背もたれに寄りかかって、しばらく視界を空の蒼で埋めた。


 しばらくして、白いシーツの上で眠る女の子が身じろぐ。その気配を察知して、俺は改めて前を向いた。

 少女は相当に寝心地が悪かったのか、それとも寝起きは大体そんなものなのか、どちらにせよ相当な顔をしながら目を覚ました。

 しばらく目をぱちくりさせ、すぐに手を握られていることに気づいたのか、少し体を起こしてその手を追った。

「お母さん」

そして、少女の手を取りベットを枕に眠る小百合さんを見ながら、少女はそう漏らした。

「なんだ、ちゃんとそう呼ぶことはできるのか」

 すっかり時の抜けた俺の声に反応して、唯は顔をこちらに向ける。

 スススと、俺と目が合うなりその顔から血の気が引いて、ベットの隅の方に体を逃がした。

 やはりというべきか、すっかり怖がられてしまったらしい。

 しかも今の俺の顔と言えば親父にタコ殴りにされたことによって絆創膏やらシップやらをいくつも張り付けてある。たぶん俺とは何の関係もない赤の他人が俺の顔を見ても、唯のような反応をするだろう。

 唯一よかった点は、唯の顔が俺のようにならなかったことだろう。

 唯が俺のことを避けるのは至極当然で、俺はそれを甘んじて受け入れなくてはならない。

「すまん」

 俺は立ち上がって、腰を折って謝罪した。

 「俺が今までしてきたこと、許してもらえるようなことじゃねえけど、ほんとうに、ごめんなさい」

 頭を下げてそう謝罪し、十秒か二十秒か、しばらくは唯の反応を待った。

 でもやはり、唯から言葉はなかった。

 沈黙に耐えかねて顔をあげると、唯が顔を困惑にゆがめて、訝しげな瞳を俺に向けていた。

 俺に謝られるとは思っていなかったのだろう。

 俺と視線が合うと、気まずそうに視線を逸らして俯いた。

「許してくれなくていい」

 そんな言葉をもらえるなんて、初めから思っていなかった。

「これはただの自己満足なんだ」

 俺は再びパイプ椅子に深く腰掛ける。

 唯も俯くばかりで顔を見ようともしなかった。

 しかしふと何かを思い出したように顔をあげて、小百合さんに握られている左手、そこに巻かれている包帯の上から何かを探すように、右手を這わせた。

 そして指先が何かの感触を感じ取ったのだろう。包帯の向こうに隠されている手首に刻まれた跡を唯はなぞった。

その傷跡を確かめてから、唯は曇った顔を作りながら顔をあげて、部屋の中を見回した。

「ここは病院だ」

 甲府の中央にある大きな市立病院だ。唯は今病院にいる。その事実を認識させる。

 それが意味することに、唯は体を震えわせて、また、うつむいた。

 この一言を突き付けるのは、もしかしたら残酷だろうか。

 別に俺が言わなくても勝手に自分で認識することだ。だから言う必要性自体はない。

 それでも俺は、昨日の小百合さんの言葉を思い出して告げた。

「お前は、死ねなかったんだ」

 俺の言葉に、包帯を撫でていた手が止まった。

 唇を引き結んで、頬に大粒の涙を一つこぼした。

 その光る涙の意味を、俺はまだくみ取ることはできなかった。

 何故、涙なんか漏らしてしまったのだろうか。

 まだ生きていることに安堵したのだろうか。

 まだ、現実に縛られなくてはいけないことに絶望したのだろうか。

 その意味は、俺にはまだわからなかった。


 涙を漏らしながら唯が何を思ったのかはわからない。

 ただ、手汗でも気になったのか、それとも握られていて痛み出したのか。唯は小百合さんの手から逃げるように、その手をほどこうと、小百合さんの指を持ち上げた。

「もう少し、寝かせておいてあげてくれるか?」

 ただ、俺はその途中で唯を止めた。

「小百合さん、結局昨日は一睡もしてないで、さっきやっと眠ったばっかりなんだ」

 唯はきっとそういった俺の言葉を無視することもできただろう。

 しかし唯はそれをせずに、静かに手を下ろした。

 そしてその手はあまり動かさないよう、さりげなく俺からは距離をとって足を抱えた。

 相変わらず俺への拒絶の姿勢は変わっていない。当然だ。


 そう。これが当然の結末なのだ。

 俺は視界を下げて、ナースコールのボタンを見た。

 あれを押せば。ナースさんが来て、お医者さんが来て、小百合さんが起きて喜んで、軽い検査を受けて、俺と親父で土下座をして謝って……。きっと今日、持って二三日だ。

そこから先、俺たちの関係は完全に切れる。

 俺たちは、いろいろな傷を与え合った知人になる。

 そして、結局小百合さんも唯も家族になることも、きっとない。

 それが、当然の結末なのだ。


 ……だけど。


 ――『責任は、もっと別の形で取ってください』

 ――『もしもお互いが今回のことを水に流すことができたなら、その時は、あの子の家族になってくれませんか?』


 その言葉を、俺は忘れられなかった。

 唯は、俺のことを忘れてしまいたいと、そう思っているだろうか。

 ……きっと思っているよな。あんなことをしたんだから。

 俺には、小百合さんの言葉を叶えることはできない。

 ……でも。


 ――『私は、あの子の家族になることができませんでしたから』


 小百合さんは違う。

 唯は母さんって、ちゃんということだってできるんだ。もっと二人がお互いの顔を見れば、ちゃんと向き合えばもっと簡単にできるはずなんだ。


 「……」


 俺は顔をあげて、唯の顔を見た。

 相変わらずこちらには目も向けてくれず、足に顔をうずめている。

俺のことは嫌いなままでいてくれて構わない。視界に入ってほしくないと願われるのなら、俺はそうしよう。

でも、その前に……。

 唯がこれ以上小百合さんとすれ違ったりしないよう、真正面から聞いてほしい『思い』があった。

 

「……っ」


 いったいどうすれば聞いてくれる。いったいどうすれば、ほんの少しの時間だけでも、俺の方を向いてくれる?

 自分の力のなさに歯噛みしながら、視線をさまよわせて。

 そして二人の姿を改めて視線に入れた時、結局はそんな打算的な考えは頭から抜けて、俺は一人で話し出した。

「小百合さんって、すごい、いい人だよな」

 ピクリと、唯が動いた。

「きれい好きだし、いろいろなこと詳しいし、人当たりいいし。なんか、まるで聖母ですかって顔で笑うし、すげえ優しいし。子どもが好きって、なんかすごく納得できる」

 はらりと、唯の後ろ髪がおりた。

「あと、朝はすっげえ優しい声で、優しく体揺らして、朝ですよって、そう起こしてくれた。……母さんを、思い出したよ」

 身を一瞬固めた唯が、ほんの少しうずめていた顔を持ち上げてくれる。

「すごい女性っぽいから、気は小さいのかなって思えばそうじゃなくて、普通なら固まっちまうんじゃないかってところじゃ意外に根が強くて、そしてちょっと頑固だ」

 ……コクリ、小さくそう首が動いた。

「掃除も、洗濯も、料理も、なんでもそつなくこなしちまう。でも変なところで、少しわがままで、あと、すごい若くてかわいい」

 コクリと、また首が動いた。

「唯――」

 でも俺が唯の名前を呼ぶと、唯は顔を曇らせて、膝に顔をうずめてしまう。

 それを、ほんの少し苦しく感じた。

「――痛かっただろ」

 でも、俺の言葉に息を呑んで、顔を上げた。

「――怖かっただろ」

 続く言葉に、唯はようやく俺の方を見てくれた。

「風呂に水溜めて、カッターナイフを右手でもって、左手首に当てるんだ。左手首に当てるとさ、すげえ冷たいんだ。そのナイフが。そして、何べん握りなおしても、カッターナイフをうまく握れている気がしなくて、手汗だけが、流れていくんだ。何べんも何べんも握りなおした後、さあやるぞって思った時、その時が、一番怖かった」

 話していて、だんだんと俺の視界が落ちて、俺は己の手を見た。

「自分の体を傷つけることへの嫌悪やら、今まで思い出しもしなかった人の顔やらが、いきなりすっげえ浮かんできて、手が震えた」

「どう、して」

 その声を聞いて、俺は顔を上げた。

 唯が、自分から俺に問いかけてきてくれたことに、微かではあるが喜びを感じた。

「俺も、経験があるからだよ。お前みたいに実行に移すことができたわけじゃないけど、一時期は毎日風呂に冷たい水をためていたんだ。俺が風呂当番だったのはそういう理由だ」

 俺の不登校中の苦々しい思い出の一抹に、唯は聞きいっていた。

 唯が俺の方を向いて、話しを聞いてくれている。

 今だ。今しかない。この顔が俯いてしまう前に。

 そう思って、再び唯の名前を呼んで、それから、それから……。

「えっと、……」

 あれ、俺は何を言おうとしたんだっけ?

 言おう言おうと意識していたことが、いざその状況になった瞬間頭から吹っ飛び、目の前が真っ白になってしまう。

 うっそだろ。ここで対人スキルゼロとか発動すんのやめてくれよ。


 しかし一度抜け落ちたものはテンパればテンパるほど出てこない。

 唯も言葉が続かないことに、再び俯いてしまう。

 あぁああああああああああ。

 心の中でそんな絶叫を上げた瞬間だった。

「とても、怖かったです」

 唯はそっと、自分の思いのたけを話しだした。

「冷たいお風呂の水を浴槽にためて、右手にカッターを持って、左手に当てて。すごく冷たくて、怖かったです。怖くて、怖くて。でも、これはお母さんのためだって、必死になってそう言い聞かせて……」

「ん?え?ちょっと待って」

 ただ、その途中どうしても聞き逃せないところが出てきて、やってはならぬとはわかっていたんだろうが、反射的に話を中断してしまった。

「なんで、それが小百合さんのため?」

 すると唯の方があなたは何を言っているのとでも言いたげな顔をした。

「だって、再婚の話って、私がいなかったらきっとスムーズに行っていた。私がいるから、この話がおかしくなった。今回だけじゃない。私がいたから、お母さんは自由になれなかった。お父さんもいなくなったのに、すごく辛いのに、私のそばを離れられなかった。血も、何もつながっていない私の面倒を見るためだけに、お母さんは人生を使った。私がいるから、五年も引きこもりの面倒を見て過ごしていくことになった」

 まるで胸の奥から血を吐き出すかのような、悲鳴にも似たそんな声が、俺の心を掻きむしった。

「お母さんが、『家族になりたい人がいる』って、そう打ち明けてくれた時。嬉しかった。ようやく母さんは、私なんかに縛られず、自分の幸せを見るようになってくれたんだって。でも……私は、我慢ができなかった。昔から、我慢のできない子だった。いつもおしゃべりがうるさいって先生に怒られて。全部が中途半端にしか我慢できなくて……。あの時だって、今回だって、私は全部受け入れようってそう思っていたのに、我慢、できなかった」

 そう、唯は何も戦わなかったわけではなかった。しっかり自分でも戦おうと足を震い立たせた。ちゃんと戦う舞台が正しいかどうかは別にして、唯は唯なりに戦おうとして、そして、責任を感じた。

「私一人が、ちゃんと我慢することができれば、きっと大丈夫だった。お母さんはきっと幸せになれた。なれる、はずだった」

 そして唯は、ぽたり、ぽたりと後悔の涙を流す。

「前になんか、進まなきゃよかった」

 俺は、浅はかすぎた。

 こいつはとっくに、前は向いていたんだ。

「私が中途半端に、お母さんの子供になろうとしちゃったから、全部おかしくなった。お母さんが私のお母さんになろうとしなければ、きっと私に縛られて、五年間も引きこもりの相手なんかすることだってなかった」

そして唯は、未だ唯の手を離さない、小百合さんの方を向いて、

「ばか、だよ」

 涙を流しながら、そう言った。

「こんな私の手、さっさと離しちゃえばいいのに。こんな手、何時までも握っている必要なんかないのに」

 そんな資格、自分にはないとでもいうように。


「私は、お母さんの子供になれなかったのに」


 そして、耐えられなくなった唯は抱えた膝に顔をうずめた。

 大した覚悟もなく、前に進んでしまった己の行為を嘆くように。唯は泣いた。

 あぁ、なんて馬鹿な話だ。

 俺は浅はかだった。唯はもっと弱い子だと勝手に思い込んで、追い詰められて前を向くこともなく逃げようとした女の子だと、そう思い込んでいた。

 唯は弱い子なんかじゃない。

 だけど……。

 

 俺は唯の顔の横に手を置いた。その気配に気づいた唯がこちらを向いたのと同時、唯の頭に一発デコピンをかました。

「ひっう」

 そんな小さい悲鳴を上げて、唯は額を抑えた。

「お前、バカだろ。絶対バカだろ」

 俺はどうしようもないほどに浅はかだったが、唯はバカだ。どうしようもないほどにバカだ。

 どうして前を向いておきながら、小百合さんの顔に気が付かないのか。

「前を向く方向が違うんだよ。お前、小百合さんと面向かって話してないだろ?小百合さんがお前の手を握ってるの、嫌だなんて言ったのか?もうお前の手を手放したいって言ったのか?そんなこと言ってねえよ!そんなんで小百合さんはずっとお前の手を握っていただろうが!」

 そのバカさ加減に、俺は思わず声を大にして言ってやる。

「お母さんがそう思ってくれていることなんて、わかってる。でも、私はお母さんの子供になりきることができなかった」

 しかし唯は、その気持ちにはしっかりと気が付いているのだ。小百合さんから言われ続けている言葉はちゃんと耳に届いているのだ。

 でも自分にはその資格がないと、思い込んでいる。

 なんと滑稽なことか。そんなものに資格なんかない。

「お前なぁ、お前が今言っているじゃねえかよ!お母さんって、そう真正面から言ってやればいいだけだろ!?ほかに何もいらないだろ?家族になるのに、他には何もいらねえだろうが!」

 でも、唯はまだ、小百合さんの手に自分の手を重ねることはできない。自分が傷ついた過去が、自分が傷つけてしまった過去が、その先へ進むことを許さない。

 自分がまた求めてしまったら、何時の日か傷つく日が来るかもしれない。後悔する日が来るかもしれない。

「でもまたきっと同じ。きっと、私がお母さんにお母さんって言ったら、また我慢できなくなって、おかしくなっちゃうときが来るかもしれない」

 でも――。

「そんなの小百合さんだってわかってんだよ!」

 

「小百合さんだってなぁ、一緒に生活していったら、普通に苦しいこともつらいこともあるってわかってんだよ。お前を苦しめちまうかもしれないってことだってわかってんだよ!小百合さんだって苦しくなっちまうことがあるかもしれないなんてわかってんだよ!それも、それも全部込みで、ずっとお前に言ってきた言葉があるんじゃねえのか!?だからっ、後はお前の気持ちだけだ。小百合さんの気持ちはお前だって気付いてるその気持ちだ。小百合さんはもうずっとお前の手を握ってお前に言い続けてる。あとはお前だけだ。お前だけなんだ!」


 そして俺もようやく、こいつに言わなくちゃいけないこと、こいつに真正面から聞いてほしいことを思い出て、そのまま告げた。


「小百合さんは、お前の言葉を、五年の間ずっと待ってんだよ!」


 そしてようやくユイは、唯の手を握る小百合さんの手にもう片方の自分の手を重ねた。


 今はまだ言葉が出てこないのか、ただ嗚咽だけをこぼす。

 でも唯の意思は、もう一度、しっかりと前を向いたようで、唯は小百合さんの手を撫で続けた。


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