五月病(中)
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お前は罪を犯した、最低な人間だ。そんな瞳を向けられた。
どうやら俺は罪人になったらしい。警察に突き出されるようなことはなくとも、向けられる視線はこの世のどんなものよりも強烈な軽蔑の視線だ。
俺はまた嗤った。笑うしかない。
俺は傲慢に走ったのだろうか。俺の守りたいものは、それほどまでに歪なものだったらのだろうか。
大切なものを守りたいと思った。結局はそれは壊れ歪なものへと様変わりして、守りたいと尽力したそれは徒労に終わり俺はすべてを失った。
最初から、こんな生活は無理だとわかっていたんだ。
誰もが歪であることがわかってて、きっと俺たちだって、こんなのは長続きするわけがないと思ってた。
親父は、最初から俺たちのことを捨てていた。
ただ、親という責任があったから、世間の目が合ったから、形だけでも家族を演じていただけだ。
心はもうとっくに家族なんかじゃなくなっていたんだ。
どうしてそれに気づかなかったのか。
どこかに予兆はあったはずだ。
朝飯の味が変わったこともない。突然夜遅くに返ってくるようなこともなかった。
じゃぁ、いったいいつからだ。いったいいつから、俺たちは崩壊に向かっていた?
わからない。あまりにも変化がなかったから。
親父に切り出されたあの日までこんな話になるなんて全く思ってなかった。
なら、もしかしてもっと前なのか?
親父の朝飯を食うようになる前から、親父は変わっていたのだろうか。
親父と二人で過ごす前から、親父は変わってしまっていたのだろうか。
わからない。そんな前のことを思い出せるわけもない。
でも、過ぎた時間の中でもう決定的なまでに変わっていってしまったものがある。
それを思い知った。
その時から気づけたはずだ。こんなことになる前に、もっと早く気づけたはずだ。
「気づいたからなんだよ」
でも、それに気づいていれば、何か変えられたのだろうか。
何かを変えられるのなら、俺はいったい何を変えようというのだろうか。
親父はもう救いようのないほどに変わってしまったというのに。もう引き返せないというのに。
なんで俺は、親父が変わったことの予兆を今更探しているのだろう。
他の女にうつつを抜かす救いようのないおやじに対して、俺はどうして今更そんなものを探しているんだ?
その理由は、もう明確に俺の中であった。
変わってほしくなかったんだ。何が?この家族がだ。
母さんがいた場所を、親父がいる場所を、そして、佐奈がいた場所を。佐奈の家族を。俺は手放したくはなかった。
今更変えることができなくなってしまったものへの行動に、後悔などしても意味はないが、瞳を閉じれば壊れた佐奈の顔が瞼の裏に焼き付いてしまって、どうしようもないほどの涙がこぼれてきた。
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「いってぇ」
俺は自室のベットに横になりながら、この世を呪うようにぼやいた。
佐奈の部屋は奪われ、佐奈の写真も壊され、親父には頬を張られ、それから……。何とも思い出すだけです気分が沈むようなことの連続に、さすがの俺も言い知れぬ困憊を覚えてベットの上で横になり、はられた頬を撫でた。頬を撫でると未だに鋭い痛みが脳に走る。大の大人が本気で張ったらしい。逆を言うのであればそれほどのことをするまでに親父の胸中を追い立てたということでもある。それほどまでに、親父にとっての家族が傷つけられたということだった。
俺は納得のいかない行き場のない憤りは乗せて、俺はお親父のはった頬に上書きするように、自分の頬を張った。
「いってぇ」
思わずそう漏らしてしまうような熱い衝撃が脳を貫いて、思わず縮こまった。
そんな自分の行いを思い出しては何をやっているのだろうと、自分の愚かさに心底ため息をついた。
俺は体を傾ける、視線を机の上の写真に向けるためだった。
俺は佐奈の写真を使っていない写真たてに入れ、俺の部屋に飾りなおした。
女の子の写真を飾るには素朴すぎる淵、そして血がしみ込んで変色してしまった部分が目について、どこか醜くすら感じるものになっていた。
俺はそのまま瞼を下した。
もう何もする気が起きなかった。
コンコンコンと、ドアが三度叩かれる音で、薄らいでいた意識が覚醒した。身を起こして時計を見れば、すでに時間が九時を回っていた。
だれだろう。そんな問いかけ、しないでも答えはわかっていた。
いったい何の用だろうか。それについてもある程度想像がつく。俺のもとを訪ねてきたということは、唯の怪我の治療はひと段落ついたのだろう
「どうぞ」
俺は部屋の明かりをつけ、佐奈の写真を伏せてから中に入るよう声を掛けた。
「失礼します」おずおずと小百合さんが盆に握り飯を三つほど乗せて入ってきた。
「夜ごはん、まだですよね?ごめんなさい。こんなに遅くなってしまった挙句に、簡単なものしか用意できなくて」
いきなりの小百合さんの言葉に「は?」と声を漏らしそうになった。もしかしたら抑えきることができずに漏れていたかもしれない。少なくともそれほどまでに意表を突かれる発言だった。ただ、俺はそれに対して追求しようとはしなかった。真っ赤になった小百合さんの目と、一度も俺と視線を合わせようとせずに俯く小百合さんの様子をを初めて見て、その胸中を少なからず察することができたからだ。
俺は盆を受け取った。俺は受け取った盆を卓上に置く。もちろん小百合さんがそれだけで帰っていくはずもなかった。
その場の空気が沈黙する。小百合さんの気持ちは大体想像がついていた。血がつながっていないとはいえ一人娘を殴られたのだ。もしも親父の息子なんてそんなややこしい立場でなかったら、警察に突き出したいという気持ちでいっぱいだろう。
かといって、俺から謝る気にもなれるわけもなかった。お互いの相手への思いが入り混じって、場の空気は混沌と化していた。
体がだんだんと鉛に変わっていった。体を起こしていることが憂鬱になる。
唯を殴ったことが気に入らないのであれば、気が済むまで殴ってくれてもよかった。
何もしないなら、ここからさっさといなくなってほしかった。もうこれ以上、俺にかかわらないでほしかった。
そんなことを考え始めた時、小百合さんは俺に頭を下げた。
「ごめんなさい」
いきなり小百合さんが謝罪してきたことに俺は唖然とした。
「どうして、あなたが謝るんですか。あなたが俺に謝罪を求める立場だと思いますけど。親父みたいに」
「違います。全部私が悪いんです」
しかし小百合さんは俺が悪いと言いうわけでもなく、唯が悪いというわけでもなく、自分が悪いと告白する。
どうゆうことかと困惑した後、くだらない自己犠牲かと嘆息した。
「……別に、小百合さんは何も悪くないでしょ」
「違うんです」
けれど、小百合さんは強く否定した。
「翔君から、妹様の写真を部屋に飾ってほしいという話をされた時、それくらいなら大丈夫と判断したのも、返答したのも、全部私です。私が、翔君がどれだけそのことに賭けていたのか、唯のことだって、私は考えていませんでした。今日が起こってしまったのは、私の所為です。本当に、ごめんなさい」
そういって頭を垂れる小百合さんを、俺はわななきながら見つめた。
「意味が、意味が分からない。どうして自分の子供が殴られたのに、殴った人間なんかに頭を下げるんですか?違うでしょ。あなたがやらなくちゃいけないのは、唯をあんな風にと怒りを覚えて俺に突っかかってくることでしょうが!?なんであんたの一番大切な人の味方になってやらねえんだよ!?そんなに、そんなに自分の子供がどうでもいいのか?あなたの娘が俺に殴られて傷つくことよりも、俺の親父と一緒にいられることのほうが大事だってあんたは――」
「――っ」
パンと、まるで水を入れすぎた風船がはじけるような少し軽いとも重いとも思える音が鳴った。
きっと人を叩いたりだとか、そんなことには慣れていないのだろう。勢いに任せただけの一手で、あまり力は込められてはいなかった。
ただ、親父にもぶたれた頬だったこともあって、その一手は奥歯によく沁みた。
「っ、ご、ごめんなさい」
小百合さんは振り上げてしまった己の手を見て、血相を変えて俺の頬をさすりながら、泣きそうな顔で謝罪した。
「……いいんです。俺が殴れって言いました」
事実殴られたことの痛みよりも、心にはいくらかいい薬になってくれている。親というのはこうあってほしいという幻を見れた気がした。それを幻とわかってはいても、何かにすがりたかった俺の心には僅かばかりではあっても余裕ができた。
「俺の方こそ、すみませんでした」
その俺の謝罪を、小百合さんは泣きそうな顔でうけ、そのまま俯いた。
小百合さんはそのまま俯いたまま、しばらく顔は挙げなかった。
でも、この部屋から出ていこうとはしない。まだ、話しは終わっていないからだ。
「小百合さんたちは、これからどうするんですか?」
「以前住んでいたアパートに、いったん帰ります」
小百合さんは、うつむいたまま言った。
「そうですか」
それはこの歪な同棲生活に終止符が打たれるということだった。
当然の結果だった。
ただ、それを聞いた俺の心は軽くなることはなく、闇はより陰りを増していくばかりだった。
「まだ、引き払ったわけではなかったんですね」
「本当は五月末には引き払わなくてはいけないんですけど」
うつむいていた小百合さんさんはまた深く頭を下げた。
「ごめんなさい。まだ、お互いに時間が必要でした」
本当に今更の回答だった。その回答に行きつくまでに、いったいどれだけのものが壊れていったか。
「そうでしょうよ」心の闇が答えた。
いったいどれだけ俺は、見たくもない現実と向き合わされてきたか。
「今日は、唯を連れて、いったん帰ります」
小百合さんは締めくくりとして、そう言った。
俺も頷いた。「そうしてください」
このあわただしかった二週間の行く末で、結局は俺が望んでいた通り結婚話は白紙となった。お互い今回の話は忘れてそれぞれの日常へと戻っていくことになるだろう。
いろいろなものをさらけ出すだけさらけ出して、人の心を振り回すだけ振り回してくれたが、それも今日で終わる。
きっと親父が小百合さんに言い寄っても、もう小百合さんの方から近づこうとはしないだろう。
きっと今回のことで親父もしばらくは再婚だとかそんなことは考えないはずだ。
この向かいの部屋はまた佐奈の部屋に戻る。
ゴールデンウィークの初日、涙ながらに物置の前で誓ったことが現実となる時が来た。
ようやく佐奈の部屋が戻り、佐奈の部屋はこの家の中にあるままだ。あれだけ望んだことだ。
喜ばしいはずだ。それなのに、俺の心は全然晴れることはない。
ここに至るまでの中で、俺は気付いてしまったからだ。
俺たちの家族の崩壊を。
俺と親父は親子だ。世間体で言えば家族という存在になる。
だけど、俺たちはもうきっと、永遠に家族という関係に戻ることはできない。
「……」
そんな沈んだ気持ちは、俺の顔に出てしまっていたのだろうか。
顔をあげると、いつの間にか顔を上げていた小百合さんと目が合った。
俺と目が合ったとき、小百合さんの瞳は大きく揺れた。
その揺れた意味は分からない。何かの葛藤を心の中に宿したのだろうか。
小百合さんはいつかのように、本当は辛いだろうに無理して慈愛溢れる笑顔を顔に浮かべて言った。
「でも、唯は少し家にいてもらいますけど、私はまたここに来ますね」
小百合さんが胸に抱いた葛藤は、俺にはきっとわからない。
************
次の日は幾度かの瞬きの後にやってきた。
俺は久しくひとりでに目を覚ました。
アラームにも誰にも起こされることなく、眠気が覚めるまで惰眠をむさぼったのは久しぶりだった。
重い体を持ち上げて時計を見ると、時間はすでに九時を回っていた。
今日は平日の木曜日。普通に登校日だったが、完全に遅刻してしまった。
しかしこれから急いで学校に行こうという気力も、湧いてはこなかった。
親父は今日はどうしたのだろうか。もう仕事に出かけて行ったのだろうか。
窓を開けて庭を確認すると、もう一台も車は止まっていなかった。
俺は一度部屋を出て、向かいの部屋の少々歪んだドアを叩いた。
返事は返ってこない。それが当たり前だったのだ。ドアを叩いても、部屋の中には誰もいない。
俺はドアノブを回してドアを開ける。
部屋の中は、引っ越しの後のようだ。もともと唯はあまり荷物をここに持ち込んではいなかった。だから去っていくときは、まるで何事もなかったかのように、形を一切残さず消えていく。
残されているのは、空っぽの部屋だ。
そこには何もない。ベットと勉強机がおいてあるだけで、タンスの中のものも全てなくなり、生活感というものはどこかに置き去りにされていた。
先日まで机の上に立てかけられていた佐奈の写真も、壁に掛けてあった制服も、すべてが消えていた。
俺の目の前にあるのは、現実だった。俺が直視してこなかった現実だった。
佐奈が死んだ。ここは佐奈の部屋なんかじゃなかった。
その現実を俺につきつけるだけの、空っぽの部屋だ。
俺は誰もいない部屋に一人歩み寄って、もう誰の匂いなのかわからない香りのするベットに顔をうずめて、俺はだらしなく泣いた。今更のように泣いた。
佐奈の部屋は、もうこの世のどこにもない。
俺はひとしきり誰もいない部屋で泣き終わった後、そのまま階段を下りて今に腰を下ろした。
座布団が四つ並んでいた。それは誰の座布団なのだろう。もうわからなくなった。
俺はその中の一つに腰を落ち着けた俺は、惰眠をむさぼるように、ただ何をするでもなく俺はテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを変えながら適当にテレビを見る。
そして、時折腰を浮かしては、台所にある茶菓子を持ってきて、テレビを見ながら食べた。
妙な既視感を覚えた。
なんだか懐かしいとさえ思った。
いつだっただろう。俺は以前にも学校をさぼってこんな風にただ時間を浪費して過ごした。
味の濃く少し湿気を吸い取ったせんべいの味が、妙に懐かしい。俺はバリボリとそれを食らった。
そして、もうそろそろでお昼になりそうな時間になったころ、予期せぬ来訪者が、家の戸を叩いた。
「こんにちは」
そんな、まるで保母を思わせるような慈愛に満ちた声が、俺の腐った心に響いた。
玄関口で出迎えた俺に、もう二度とむけられることはないだろうと思っていた笑顔で応えられた。
「……何で」
「昨日ちゃんと言ったじゃないですか。お邪魔しますと」
まるで昨日のことは夢だったのだろうかと錯覚してしまうほどの眩しい顔だった。
嘘だ、こんなことがあり得るわけがない。昨日あれだけの決別をしたというのに、どうして小百合さんはそんな笑顔を振りまきながら会いに来ることができる?
「あぁ、忘れものですね?」
苦し紛れに出した答えに、「うぅん、忘れ物って言えなくもないんですけど」と煮え切らない回答で応えられる。ただ、俺はそれ以上何も言わない。忘れ物だというのなら、少しは心穏やかに過ごせそうだったからだ。
「親父は、いないですよ」
そう忠告だけしておく。小百合さんは当然とばかりに頷き返してきた。
「わかってます。将さんが休みの日はしっかり把握していますから。翔君こそ、学校はどうしたんですか?」
俺は視線を逸らして答えた。
「さぼりです」
「あら、いけませんね」
そうは言われても、昨日あんなことがあっていけるわけもない。それは小百合さんも承知してくれているのかそれ以上は特に何も言ってはこなかった。
「俺は、いない方がよかったですか?」
「そんなことはありません。もうすぐお昼ですが、お昼は食べられましたか?」
「食べてないですね。っていうか朝飯すら食べてないです」
「あらあら、いけませんね」
そう言ってまた小百合さんが笑う。その笑う顔が、心の腐った俺にはよく沁みすぎて、痛くて痛くて、目を逸らした。
「では、朝食の準備からですね」
本当に、「何しに来たんですか?」
「家事をさせてもらいに。さすがに毎日できるかはわかりませんが、手すきの時間にはこれからもお邪魔しようと思います」
小百合さんはそういって家に上がり込んで、台所の方に向かった。
本当に、意味が分からない。小百合さんはもうこれからは俺のような人間にかかわらなくていいはずだ。それなのに、どうして、どうして……。
「どうして、こんなことを……」
ただのつぶやきだった。じぶんに疑問を投げかけるときに偶に声に出て言ってしまうのと同じで、小百合さんに聞かせようと思った言葉ではなかった。
でもどうやら俺の口を突いて出てしまった言葉を、小百合さんは聞き逃してはくれなかったようだ。
「私の、義務ですから」
小百合さんは振り返って、意味ありげに笑って、そう答えた。
「まだ寝起きのようでしたので、箸が進むようにお茶漬けにしてみました。それから簡単なものですが目玉焼きとお吸い物です」
そして十分後、十分という時間しかたっていないにもかかわらず目の前には男二人の生活からは考えられないような食事が並んだ。俺が未だに寝間着だったために寝起きだと思ったようだが、特にそれを訂正するつもりもなかった。
食べ終わった俺は、食器を片付け棚に戻し、あまり小百合さんとは顔を合わせないようにしようと二階に向かった。
ただ、その途中俺は親父と小百合さんの共同部屋に小百合さんがいるのを見つけた。
小百合さんが何やら神妙そうな顔をして何やらファイルのようなものを大事そうに抱えているのだ。
あぁ、今日来た目的は、おそらくそのファイルなのだろうと直感で思った。そのファイルはいったい何のファイルなのだろうか。あまりに神妙な顔をして大事そうに抱えるものだから、そんなことを考えながらしばらく小百合さんから目を逸らすことはできなかった。
しかし、不意にフッと顔を持ち上げた小百合さんと視線が交錯してしまう。
「これは、恥ずかしいところを見られちゃいましたね。私、泣いていないですか?」
小百合さんも見られているとは思わなかったようで、取り繕うような笑みを浮かべながら目じりを拭った。
「別に、大丈夫ですよ」特にそんなことは気にはしない。
「そうですか」俺の返答を受けて、小百合さんはよかったと胸をなでおろした。
「それは?」ただそんな中でも胸に抱いて離さないファイルのことが気になって聞いてみると、小百合さんの方から差し出してくれた。
「私の宝物です。気になりますか?」
どうぞと言って渡されるそれを受け取り、中を確認した。そのファイルに綴じられているのはたった一枚の紙だ。それもくしゃくしゃになった跡の残る、だいぶ古い、作文用紙だった。鉛筆の字も結構消えかかっている。しかし、丸っこくかわいらしい字で書かれているその字が全く読めないわけではなかった。
作文の題名は、こう記されていた。
『私のお父さんとお母さん。三年一組 しんどう ゆい』
どこか既視感を覚えるようなそれに、俺はしばらく目を走らせた。
書き出しの数行を見て、俺はまた顔を上げた。「これは?」
「あの子が三年生に上がった時の、授業参観の時に、あの子が書いてくれた作文です。私の宝物なんです。何か嫌なことがあると、それを見るとすぐに吹きとんじゃうんです」
その言葉を受けて、もう一度題名から読み返す。
俺にも同じようなものを書いた記憶がある。きっとどこの学校でもやっていることなのだろう。それを読んでいると妙に懐かしい気分になるが、そんなことよりも気になることがあった。やはり改めて目を通してみてもその疑問は強く残る。
「本当に、あいつが書いたんですか?」
「意外、ですよね?」
俺の質問を予想していたように、小百合さんは返してきた。
なんと言葉で表現すればいいのかわからないし、今まで唯の字なんて見たこともなかったが、あの何に対しいてもおとなしく小百合さんの後ろとずっとついてきたような印象を受ける唯とはこの作文から受ける文字や文章から受ける印象には決定的な差があるように感じた。題名から改めて目を通してみてもどうしても俺の記憶にある唯の姿と重ならない。
小百合さんも俺があまりに熱心に読むこむもので、苦笑するほどだった。
「今はものすごく物静かな子ですけど、でも、初めからあんなに静かだったわけじゃないんです」
「そう、なんですか」俺は、少々腑に落ちない点も感じながら小百合さんにファイルを返す。
すると、小百合さんはそのファイルを胸に抱いて、ぽつぽつと話し出した。
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新藤小百合。旧姓、清水小百合は山梨県の田舎の農家の一人娘として生まれた。
兄弟がいないこともあって、小百合は子供と接することが好きで、高校卒業時には幼稚園の保母になることを胸に決めていた。子供と戯れ歌を歌ったり絵を描いたりすることにあこがれを抱いていた。
大学を卒業後すぐに母園に勤め始める。子供が好きな小百合にとってまさに天職と言える職場だった。
そうして母園にて保母の経験を積むうちに自分の子供を持ちたいという感情をとても強く抱くようになった。
しかし、その願望はあっけなく潰えることになる。
小百合が二十八を迎えたばかりの健康診断にて卵巣を摘出する必要がある悪性の卵巣腫瘍と診断されてしまったためだ。
小百合は、最悪なことに、両方の卵巣の摘出を余儀なくされた。それはつまり、二度と赤ちゃんを産むことができなくなるという意味だった。
辛い現実に打ちのめされ、絶望に暮れた小百合は天職と感じていた母園も子供と触れ合うことにつらさを覚え、止めてしまうことになる。
その後、スーパーの定員などパートの仕事を転々とするが、三十二歳になった小百合は新藤達央という男性と出会い恋に落ちた。
新藤達央は長年付き添ってきた妻を失ったばかりの会社員で、すでに子持ちであることを知った小百合は、さらにその思いを強くした。
子供を産むことができないという引け目から男性と距離を置いて生活するようになっていたが、子持ちであるということを知り、それならば私にも子供ができると、そう考えたのである。
小百合はしつこくその男に交際を迫った。
女のあらゆる武器を使い、男を篭絡したのである。新藤達央も幼い一人娘を一人家に置いたまま長く残業することもしばしばあり、それらを引け目に感じていたこともあって、意外とスムーズに二人の仲は進展した。
その時対面した新藤達央の子供が、当時小学一年生の新藤唯である。
再婚を前提とした関係となり、小百合は当時一年生の新藤唯とうまくやっていけるか大いに不安もあったが、始めは他人行儀ではあったものの新藤唯も小百合の存在を受け入れていた。
新藤唯は活発な女の子であった。勉強は不得手ではあったものの、女の子らしい遊びを好み、歌を歌うことや絵を描くことも好きであった。
小百合も元保母の経験を活かし、新藤唯に気に入られようと大いに励んだ。
その甲斐あってか新藤小百合と姓を変え、一年もすると、自他ともに認めるような親子になっていたのである。
新藤小百合は新藤達央とも生涯支え合うことを誓い、確かな幸福の絶頂にいた。
新藤唯が三年生になろうかという頃、新藤達央の事故死によって再び家族には暗雲が立ち込めた。
新藤唯は八歳という齢で、本当の両親を失ってしまったのである。
これからはきっと笑ってくれなくなる。夫、新藤達央の遺影を前にしてそう覚悟していた小百合だったが、意外にも唯は笑った。
それが気丈に振舞っている結果であることは十分に小百合もわかってはいたが、小百合はその笑顔を見て改めて亡き夫新藤達央、そしてその夫が生涯を愛することを誓った新藤菫の後を継ぎ、唯を育てていくことを心に誓った。
その後も、唯はよく笑う子であった。学校から帰ってきては起きたことを指を折りながら話し、休日は友人と遊ぶことが多かった。
小百合も再び専業主婦からは足を洗い、パートのスーパーの定員として働き始めることになる。
辛いことも多いだろうが、それでもきっと幸せにやっていける。
小百合の前にはそんな希望が見えていた。
そんな、夫新藤達央を亡くし、約二か月が経過したある日のこと。
小百合は唯に授業参観のプリントを渡される。
内容までは見当がつかなかったが、以前も何度も授業参観には足を運んでおり、当然今回も足を運ぶつもりだった。
しかし、その日が小百合と唯にとって運命の日だったのである。
新藤小百合が教室に足を運ぶと黒板には大きく「作文、お父さんとお母さんへ」と書かれていた。それを目にした瞬間、あぁ、自分も小学校の時にやった親への作文だと授業の内容をだいたい把握することができた。実際子どもたちの様子を見ていると、ちゃんとお父さんやお母さんは来ているのだろうかとそわそわとしながら後ろを振り返っていた。
そして授業が始まると、担任の先生が一人一人にその作文を読ませた。しっかり読み終えると、親御様の方から溢れんばかりの拍手が送られた。時折湛えた涙をハンカチで拭い取る姿も見られた。
そんな教室の中、新藤唯の名前が呼ばれ、唯は立ち上がった。
唯の手元にはびっしり文字の書かれた原稿用紙があり、気づかないうちに唯がそれを書いていたこと、それを聞かせてもらえることに、小百合は感無量の思いだった。
本当なら、新藤達央と新藤菫に贈られるはずの言葉。それを小百合は重々わかってはいたが、思わず自分のことのように涙をこぼした。
まさか、子供が両親に向けた手紙を読み上げるこの授業に、自分が参加できる日が来るなんて。自分のことが書かれていなくてもかまわない。唯ちゃんの今日この日に立ち会えただけで幸せだ。今日聞いた話を、私がしっかりと聞いて、二人の墓前で私が語らなくてはいけない。小百合はそのようなことに思いを馳せた。
そして、唯はその作文を読み始めた。その中に小百合の名前があることを聞いて、身震いするほどに小百合は喜びを感じていた。
しかし、始めは流暢だった喋り口が、突然濁り始めた。
どうしたのだろう。小百合がそう思った直後だった。
新藤唯は、耐えきれず泣き崩れたのである。
教室は騒然となり、小百合は唯のもとに近づいた。
しかし唯は、一人泣きながらこう漏らしていたのである。
「おとおさん、おかあさん、どこ、どこにいるの」と。
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「―――その日から、唯は私には笑ってくれなくなってしまって。会話もなく、そのまま引きこもってしまうようになりました。あれから、何年でしょうか。もうそろそろ五年になってしまいますね」
気まぐれに聞いた小百合さんの過去の話に、そのあまりの壮絶さに、俺は言葉を失っていた。
今まで、どうして小百合さんはひどいことや嫌なことがあっても笑っていられるのだろう。きっと頭のねじでも飛んでいるのではないだろうか。そんなことを考えていた自分が全く浅はかだったことを思い知らされた。今まで歩んできた人生の重みが違いすぎる。
そしてそんな過去を持って、さらに重ねた五年間にいったいどれだけの苦労があったことだろうか。とてもではないが想像で補えるような気はしなかった。
「辛くはなかったんですか?」
俺の質問に、小百合さんは顔をあげて小さく息を吸った。
その瞬間にいったいどれだけのことを思い出して、どんな感情に浸ったかはわからない。でも、少し寂しそうに眉を落として、それでも気丈に笑顔を浮かべた。
「辛いというより、寂しくて、申し訳なくて、自分のふがいなさを呪う時間の方が長かったです」
そして小百合さんのその顔と、小百合さんのその言葉に触れた瞬間家族というものに他愛する認識の甘さを思い知らされた気分になった。
小百合さんの小さな体で受け止めてきた現実。そして五年という月日。それまでに募らせていた負の感情を、未だに小百合さんは背負い続けている。
「小百合さんは、やり直そうとか考えたりしないんですか?」
俺は無神経ということが分かっていても、聞きたかった。
「小百合さんはまだ若いじゃないですか。まだこれからって年だし、見た目だってそんな悪いわけじゃない。親父みたいに、やり直そうと思えば自分の幸せに正直になれば、あなたはもっと幸せに生きれるはずじゃないですか。どうして、あいつの手をまだ握り続けているんですか?」
やり直そうと思えばやり直せたはずだった。唯の握った手も、手放す気になれば手放していける。そうすれば、きっとまだ幸せな道があったかもしれない。
血のつながっていない家族に、どうして一生の苦しみを共に過ごそうなんて思うことができるのか。これを問いかけるなんて、今まで血反吐吐きながら頑張ってきた小百合さんへの冒涜に等しい。そんなことはわかっていた。でも俺は震えをこらえて、小百合さんに向き直って問いかけた。
「辛いのなら、手放しちゃえばいいじゃないですか」
現に、親父はそうした。親父は手放した。突き放した。俺たちの家族を捨てて、前を向いて新しい家族を探し求めた。
そして小百合さんだって、それを許容していたはずだ。小百合さんだって、母さんと娘を失って一年の親父に近づいた。なのに、それなの何で、よりにもよってその小百合さんが、そこまで唯のために傷つくことができるのか。
そこまで茨の道を進むことができるのか。
「手放したりなんか、できません」
そして、小百合さんは相変わらず聖母みたいに、慈愛にあふれた笑みを浮かべて言うのだ。
「だって、あの子は私の娘になろうとしてくれたんです」
胸に抱えたファイルを撫で、そう言ったのだ。
「あの子にはあの子のお母さんとお父さんがいて、本来私なんか入る余地がないところに、私の居場所を作ろうとしてくれました。一生懸命、これを書いてくれました。それなのに、あの子の手を放すなんて、できないです」
そして、そう断言し切った母親に、俺はもう何も言う気にはなれなかった。
特に何か勝負をしていたわけでもないが、俺は敗北したのだ。小百合さんという母親にだけじゃない。
唯という娘にも、俺は負けた。そう思い知らされた。
俺のうなだれる姿を見て、小百合さんは何を考えたのだろう。
また泣きそうになって、俺に問いかけてきた。
「翔君はまだ、将さんに突き放されたと、そう感じてしまいますか?」
今更過ぎる問いかけだった。
小百合さんだって目の前で見てきたはずだ。
親父が俺たちのもとから離れて、小百合さんの家族になろうとしたところを。
「感じるも何も、事実その通りです」
小百合さんの問いかけにいったい何の意味が込められているのだろう。こんな質問、ただ突き放されたという事実を、また再認識させられるだけだ。ただ胸が痛くなるだけの問いかけに、いったい何の意味が込められているというのか。
「聞いてください翔君、将さんは、翔君を突き放したりなんかしていないんです」
返された小百合さんの言葉に、眉根が吊り上がりそうになった。
「は?え?ちょっと、何言っているんですか。いい加減にしてくださいよ。再婚相手のあなたが何を言っているんですか!人をコケにするのもいい加減にしてください!」
俺はかっとなって勢いで大きな声を出した。
その反動か、たったそれだけのことでひどく胸が苦しくなった。
けれど小百合さんは、俺の怒鳴り声なんかにびくりともせず、ただまっすぐと俺の方に視線を向けてきた。
「……っ」
俺が悪いというわけでもないはずなのに、その視線にだけは逆らえる気がしなくて俺は視線を逸らした。その瞬間言いようのない敗北感にも似た感情が俺の胸の中に広がる。
「少し付き合ってもらえませんか?一緒に、来てもらいたいところがあるんです」
小百合さんは、その感情が俺の胸の隅々までいきわたったってから、そう言った。
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甲府の町は結構都会だ。東京と比べようものならぶん殴られるだろうが、山梨県民にとって甲府の、もっと言えば南口のあたりはかなりのものだ。
その甲府の駅南口の駅前通りを南下し、いくつか信号を超えたところを右折。さらに信号を一つ越えたところにある四階建てのオフィスビルのような建物に俺は連れてこられた。
「ここは?」
そんな疑問に暮れる俺に、小百合さんが簡潔に答えてくれる。
「私と将さんが、出会った場所です」
中に入ると五月の半ばだというのにもう冷房がそれなりに効いていた。ただ、オフィスビルのようなところに入るのは初めてで結構目新しく辺りを見回してしまう。
中はそれなりに広かった。一階は受付のようなところと後は雑談スペースとして開放されているらしく、それなりの広さのある雑談スペースには絶対にこのビルの社員ではなさそうなご老人がぽつぽつと座っている。
小百合さんは受付横のパンフレットなどがまとめられている棚から何やら一部引き抜いて、雑談スペースへと足を運んで座った。
俺も座ると、小百合さんは先ほど抜き出したパンフレットを見せてくれた。
『子供と考える会』
その大きな文字と子どもをイメージしたイラストが描かれたパンフレットだ。
「毎月ここでは『子供と考える会』という、そうですね、一種の相談会のようなものが開かれているんです。そこではお子さんのことについて悩まれていらっしゃる方が集まって、いろいろな悩みを打ち明け、話し合い、励まし合ったりするんです」
小百合さんの簡単な説明が入り、なるほどと大体の概要は把握した。引きこもりがちの子どもを持つ親が集まって、悩みを打ち明け合い励まし合う集団だろう。たまにテレビなどのメディアにそんな団体が取材されているのを目にすることもある。確かに小百合さんだったら、こういうところに足を運んでいてもおかしくないかもしれない。
「私も、ここに通わせていただきました。唯がひきこもるようになってしまって、あの子のために何をすればいいのか、そのヒントを見つけたいと思ったからです。そしてここに通っているうちに、ちょうど一年前、将さんと出会いました」
「え?」
しかしそこでまさかの親父の名前が出てきて、思わず真顔になって小百合さんを見た。苦笑しているその仕草から、どうやら本当らしいことが伺えた。
小百合さんと親父の意外な出会いに、俺は息を呑んだ。
だって、俺は今まで親父と小百合さんの共通の知り合いから紹介されたと言われてきたのだ。
俺はまた親父に騙されていたということになる。
いやそれよりもだ、どうしてここで出会うことが、親父と小百合さんが再婚するなんて話になる?
「将さんも翔君が大切な妹様とお母様を亡くされたということで、同じく引きこもってしまうようになってしまったと。引きこもってしまったという似た境遇から、将さんとはよくお話しさせていただくようになりました」
小百合さんは優しいのでそれとなく諭すように言ってくるが、俺はと言えば複雑な思いだった。
「親父のやつ、こんなところに出入りしていたのか」
俺は親父にこんなところ通わせるほど病んでいるように思われたのだろうか?
確かに俺は半年の間学校を休んだ。でもそれからは普通に学校に行くようになった。家事だって俺はやるようになったのに。
確かに半年も引きこもりはしたが、それにしたってこんなところに通うようになるだなんて、心配症が過ぎる。
「将さんも心配だったんですよ。今でも、あの人の悩んで頭を抱えている姿を思い出すことができます。だって、将さんにとっては、家族はあなただけでしたから」
小百合さんの、家族はあなただけだったという言葉に、きゅっと胸が締め付けられた。
「将さんは、翔君がもし、引きこもっているうちによくない考えにとらわれてしまったらと、気が気でなかったのだと思います」
俺はわななく唇を動かして答えた。
「大げさ、ですよ。俺は、半年後には、また学校に」
「はい。ですから、その時はすごく喜んでいました。ようやく立ち直ってくれそうだと」
でも、そこでまた小百合さんの顔が曇る。
「でも、翔君が再び学校に行くようになっても、以前いた友達との付き合いもなく、ただ勉強に明け暮れるだけで、以前のように笑わなくなってしまったと」
それについて、確かに思うところはある。あるが……。
「……心配性すぎる。以前のように笑わなくなったって、そんなの、また時間が経てば」
確かに俺は、山田教員から指摘を受けたように人との関係性に乏しくなったり、佐奈のことを思い出しては涙ぐんだりしてきた。
でも、俺は初期は本当に部屋の中にこもっていたのだ。それでも、俺はちゃんと自分の足で部屋から出た。ちゃんと俺は俺なりのペースで、前に進んでいたはずなのだ。
ちゃんと、立ち直っていくことができていたはずなのだ。
たしかに、俺はまだ佐奈が死んでしまったことのショックから抜け切れていない。自分でもそう自覚している。だけど、もう少し、せめてあと一年でも時間があれば、俺はきっと変われていた。変われていたはずなんだ。
俺に何より必要だったのは時間だった。
「はい。ここに悩みを打ち明けてくる大抵の悩み事の答えは、時間に身を任せるほかないでした。私もそうです。ずっと歯がゆい思いは抱えていましたが、私もあの子を変えられるのは時間だけだと思っていました。それは将さんも、ちゃんとわかっていたことではあるんです。あの子や翔君に今必要なのは時間であるということは。けれど、大切な人を時間に任せるというのは、すごく、すごく怖いことなんです。時間にすべてをゆだねた先にある結末は、すべてが受け入れられるものばかりでもありません。すべてを時間にゆだねてしまったがために、人生を後悔してしまう人もいます。そういう人も、何人もいました。だから、将さんも怖かったんだと思います。何度も、怖いと打ち明けられたこともありました。翔君が、妹様の思い出に触れ、泣き崩れる姿を見るたびに、そう思ってしまうようでした」
そして、小百合さんから俺の見てこなかった親父が語られる。
それは親父が小百合さんのように、悩み、苦悩してきた時間そのものだ。
親父も生涯を誓い合った妻と、その娘を失った。そんな絶望を抱えながら、苦しみぬいた親父の歴史そのものだ。
「ここから先は、私たちのわがままです」そう断言したうえで、小百合さんは続きを話し始めた。
「翔君たちに時間が必要ということが分かっていながらも、時間にすべてをゆだねることに恐怖も持っていた私たちは、時間にすべてをゆだねること、そのものをやめようと考えました」
それは同時に、前を向いて戦うことを決めた、愚か者の姿でもあった。
そして、俺たちが前を向くにはどうすればいいのか。それを考えた末の結論が……。
「翔さんに大切な妹様がいることはうかがっていました。だから、きっと同居生活という話になれば、翔君は嫌でも向き合うしかなくなる。唯は新しい家族ができることで、違う反応を見せてくれるようになるかもしれない。時間に任せるというこの状態が変わるかもしれない。そう、思ったんです」
それを考えた末に至った結論が、今回の再婚話だったのか。
「翔君、本当に、ごめんなさい。私は、あなたの気持ちを軽視しすぎていました」
そして小百合さんはまた頭を下げてくる。
確かに大分俺たちの気持ちも軽視されていたかもしれないが、それよりも確かめたいことがあった。
「どうして、そこまでして、あなたは前に進もうとなんて思ったんですか?」
親父がなぜ再婚話を持ち出したのかは分かった。何か行動を起こさないと不安に駆られたからだ。
でも小百合さんは違う。小百合さんは行動を起こさなくてはいけないと感じるような強迫観念も何もなかった。小百合さんの行動理念は、いったいどこにあったのか。
「私の、完全なわがままなんです。私が、あの子のお母さんになりたかったという」
そしてそれは、家族になりたいという純粋な感情のためだった。
「じゃあ、小百合さんは親父のことを、特にどうとも思ってはいないんですか?」
「どうともというわけではないんですよ?将さんはとてもいい人だと思います」
「恋愛対象としては?」
「私には心に決めた人もいますし、唯もいますから。恋愛相手は募集していません」
きっぱりと別に好きではないと言外に言いきった。その言葉に、心の底から安堵の息が出た。
「特に好きでもないのに、同居までしようとか、普通は考えませんよ」
「かもしれないですね。でも、それが状況を動かすには一番だと思ったんです。その結果は、知っての通りさんざんなものになってしまいましたけど」
小百合さんは、また正面からあの射抜くような視線を向けてくる。俺も、今回だけは正面から受けた。
「翔君。同居に関しては、本当に私のわがままなんです。翔君の気持ちを軽視していたこと、本当に心から謝ります。ごめんなさい。でも、翔君も、もちろんお母様も妹様も、将さんからつきはなされたわけではないんです。勝手にこんなことをしておいて、こんなことをお願いするのは虫のいい話だと分かっていますけど、将さんともう一度、お話してみてはくれませんか?」
そう言って頭を下げられる。
小百合さんの言葉はわかった。小百合さんの言いたいこともわかった。
このまま小百合さんの言葉をそのまま信じてしまいたい。そうできたなら、どれだけ楽だっただろうか。
でも、俺の心は未だ揺れ続けている。
「確かに小百合さんは、俺たちのことを想って行動してくれたのかもしれない。それはすごくうれしいです。でも、親父もそうだったとは限らないですよ。親父はただ小百合さんとお近づきになりたくてこの話を進めたのかもしれない。親父の気持ちなんて、結局はそんなものだったかもしれないじゃないですか」
俺は未だに、親父に突き放された言葉が、胸の奥から消えてはくれないのだ。
親父の中で、佐奈と母さんと俺、三人が家族だと思われていないのなら、結局は同じ。見捨てられたことに変わりはないのだ。
でも、小百合さんは俺を安心させるように、笑顔をまた向けてきた。
「わかりますよ。だって将さん。奥様の実家に押しかけて、何度も頭を下げていましたから。翔が今たった一人の家族なんだって。翔にまた笑ってほしいんだって。そう言って頭を下げていましたから」
それにと小さく笑って「私みたいな魅力のない女に、将さんは一度だって好きとは言ってくれませんでしたし」小百合さんは少し肩を落としていった。
そして、俺は今の話を呑み込むために仰いで大きく息を吸って、呑み込んだ。
ようやく、俺は二人が再婚に至るまでの真実を知ることができたらしい。
「親父の野郎。共通の友人に紹介されたとかまた大ぼら吹いてやがったんだな」
思えばそれも結構苦しい言い訳だ。さすがにどんな共通の友人を持つことがあってもお互い子持ちの人間を勧めるなんてことはないだろう。しかも十二歳という年の差。
あぁ、なんで俺は気が付かなかったのか。
ようやく。ようやくやっと、俺は真実にたどり着いた。
「母さん、……佐奈」
その親父の行動理念を知って、俺はようやく安心して二人の名前を呟いた。
親父が、俺たちの親父であったことを、ようやく確信することができた。
騙されていたこと。
隠されていたこと。
打ち明けてもらえなかったこと。
それに対して言いたいことはいろいろある。
それに足して謝りたいこと、謝らなくちゃいけないこと、謝ってほしいこと、いっぱいある。
でも、何よりもまずこの大穴の開いた心を埋めてくれる大きな安堵を感じて、「よかったぁ」と、俺は呟いた。
俺たちは建物の外に出た。日はもうすっかり傾いて、涼しい春の風を感じる。
春の風を体に受け、それを気持ちいいと感じたのも、かなり久しいことだろう。
それほどまでに、俺はいろんな感覚が腐っていたということだ。
腐っていた時に見えた世界とはまるで別物だと思うほどに世界が美しい。
そして、親父の魂胆も知った。小百合さんたちの今までのことも、すべて教えられた。
次は俺の禊の番だ。
「あの、あいつに、会っていってもいいですか?」
白の軽自動車に乗り込む前に、小百合さんにそうお願いをする。
「ええ、ぜひ」
小百合さんは笑顔で応えてくれた。
そして先ほどのビジネスビルから車で二十分。
大通りから少し外れたところの住宅街にあるアパートに案内された。
全体的に黄色の塗装がされた二階建てのアパートだった。部屋はすべてで四部屋あるらしい。
物静かなところにあって立地はいいように思うのだが、アパートの階段の鉄格子の部分に入居者募集という案内板が掲げられていた。
小百合さんの後に続いて階段を上る。小百合さんと唯の部屋は、階段を上ってすぐのところにあった。
「どうぞ」
そう言ってカギを開けて先に中に入った小百合さんに促されるままに中に入る。
狭いキッチンが供えられた通路を奥に進んでいくと、六畳ほどの部屋が一つ。どうやら居間として使われているらしい。その部屋の右の壁にはドアがあり、そちらが唯の部屋なのだろう。小百合さんがコン、コン、コンとドアを叩いた。
「唯、ただいま。あのね、翔君が……あれ?」
そしてドアを開け、唯に声を掛けようとするが、途中その声が頓狂なものに変わった。俺も続いて小百合さんの肩越しに中をのぞくが、もぬけの殻だった。
「もしかして、出かけていました?」
「きっとお手洗いです。少し様子を見てきますので、くつろいでいてください」
そして再び入口の方に向かっていく小百合さんの背を見送ってから、軽く唯の部屋の中を見回した。
さすが五年も引きこもっていただけあってぬいぐるみといったグッズは少ない。棚にもコンビニで売っているような漫画がいくらかあるくらいでこれと言って何かがおかれているわけでもなかった。
印象としては片付けた佐奈の部屋と同じようなものだ。しかしそれでもどことなく女の子の部屋だと雰囲気で伝わってくる。
それに佐奈ほどの立派なものではないけれどちゃんとした勉強机だってある。
唯が勉強するところなんて、あまり見たことがない。果たして唯は勉強するのだろうか?
そんなことを想っていると、整えられている卓上に何やら封筒のようなものがぽつんと置かれていた。
まるで見つけられることを願っているかのようなその封筒に引き寄せられるように俺も近づいた。
それを視界に収めた瞬間。俺の血の気が一斉に引いていくのを感じた。
『遺書』
そして同時に響く、小百合さんの悲鳴。俺はすぐに身を翻して、悲鳴の声を追いかけた。
その声は、風呂場から漏れていた。
「――――っ!?」
風呂場に踏み入れた瞬間漂ってくる、むせ返るような血の匂いを感じた。
真っ赤な真っ赤な海の隣で、唯はぐったりと、小百合さんに抱かれて眠っていた。
「唯!?唯ぃ!どうして、唯、あぁああ、血が、血がぁっ――……」
そして小百合さんもは一際大きな悲鳴を上げた後、まるで糸が切れたように、ぐったりと倒れこんだ。あまりのことに意識を強く保つことができなかったのだろう。
俺もしばしの間、その場から動くことはできなかった。
時間の流れは、変化の流れそのものだそうだ。
決定的な変化の前に、きっと人はなすすべなく朽ち果てていくことになるのだろう。
気づいた時には、後悔した時には、きっともう決定的なまでに手遅れで。
俺はようやく、自分が壊してしまったものに気が付いたのだった。