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五月病(上)


 **********



 ゴールデンウィークの初日は、それぞれの家の大掃除から始まった。

 俺も手伝いに駆り出された。というよりはむしろ俺からかって出た。

 次の日から、佐奈の部屋を明け渡さなくてはならない。その部屋の片づけを親父には任せたくはなかった。

 佐奈の私物は、離れにある油汚れのひどい物置にしまうことになった。

 その日の大掃除、俺は物置の周りの整備から始まった。

 物置の周りに生えている雑草を片っ端から刈り取って、油汚れの目立つ物置を隅から隅までブラシをかけ、中に置いてあるものもすべて整理した。

 中のものを整理し、妹の私物を置くスペースにはビニールのシートを敷き詰め、私物が汚れないようにしてから、俺は一つ一つ、物置に佐奈の私物を収めていった。

 『大丈夫だ、佐奈。この部屋は、俺が守るから』

 一つ一つ眠らせていくたびに、俺の頭の中でその言葉がよみがえる。

 数日前、豪語した言葉だ。

「……ごめんな」

 まるで解雇通知を渡すどこか会社の社長のように、「ごめんな」と呟いては納め、「ごめんな」と呟いては納めてを繰り返した。


 涙を拭った。最終的に、折れたのは俺の方なのだ。俺が佐奈のために流していい涙なんか、持ち合わせてなんかいない。

 だが……。

 非道に走り切れなかった。何だってしてやると心に決めていたはずなのに、結局俺は自分で佐奈の部屋を片付けているのだ。

 惨めで、悔しくて、やるせなくて、涙がこらえられなかった。

 窓一つない、寒く暗く冷たい物置の一スペース。それが、今日から佐奈の部屋になってしまう。

「……」

 でも、それはやはり認められない。認められるわけがない。

 佐奈の部屋は、俺たちが今まで過ごしてきたこの家の中にあるべきだ。

 この家で生活する人間の中で、たとえ俺だけが異端であったとしても、俺は戦ってやる。

 佐奈の部屋は、今もまだ、この部屋の中にある。

 俺は、そう想い続ける。



**********



 ゴールデンウィークの休日二日目に、小百合さんたちが越してきた。


 午前中はこれまた荷物の整理。もちろん俺は手伝う義理もないので手伝ったりはしない。俺は受験生という立場を借りて、勉強という名目のもと部屋にこもった。

 先日から話し合われていた通り、小百合さんは親父と共同部屋で過ごすことに。

 そして唯は佐奈の部屋で過ごすことになった。


 小百合さんら家族が増えたことで、家事の分担は確かに減った。夜飯の担当は小百合さんに変わり、洗濯も小百合さんが担当してくれるらしい。俺の担当と言えば、風呂の準備くらいのもんになった。

今日の夜から、小百合さんの晩御飯になった。

 初日ということもあって、何がいいかとも聞かれはしたが、特にメニューは指定してはいない。すべて小百合さんに任せた。いったい何を出してくるのかと思って待っていると、休日の夜飯では定番ともいえるカレーだった。


「いやぁ、カレーなんてこった料理は久しぶりだ」

 俺が何を作ろうが関係なく喜ぶ親父は、一層声を大にして喜んだ。その意図等を汲む気はないが、気に入らない。俺とその向かいに座る唯のリアクションは薄い。親父とは対極だ。

 四人で居間のこたつを囲み、食を勧めるが、賑やかとは感じない。ただ親父が大げさにうまいと言ったりリアクションするだけで、食卓の談笑に入っているのは基本的の親父と小百合さんだけだ。唯と俺は時々目が合うにもかかわらず会話らしい会話は生まれない。

 俺なんかまだいい方で、唯は小百合さんにも「おいしい?」と聞かれてたじろぐほどリアクションが取れない。賑やかとは程遠い食卓だった。


「おいしいですか?」

 不意に右隣りから声を掛けられ、世辞であることが伝わるよう皮肉気に、「ええ、おいしいですよ」と返した。

「おまえなぁ、もう少しうまそうにして食えよ」

 親父がぼやく。小百合さんは苦笑いをした。実際俺のカレーは会話をしていないというのに親父よりも減っていない。

「なんか、特に感想が生まれてこない味だから感想に困る」

「何言ってやがる。お父さんの飯よりずっとうまいだろうが」

 正直に言うと親父がなんだかんだ突っかかってくる。

「残飯とリンゴを食べ比べて、ほらリンゴの方がおいしいでしょって言ってなんか意味あるか?」

「どういう意味じゃ」

「比べるものがまず違うっていう意味」

 黒い私怨を抱えた俺の言葉は、親父に向くたびに雑になっていった。

「でも、やっぱり男の子ですし、もう少し辛い方がよかったでしょうか?」

「いやぁ、翔はこれでも甘党で。なかなか辛いものは食べないんですよ」

 親父が答えるんじゃねえよ。心の中で言った。

「あ、そうなんですか?」

「ええ、そうですね。……佐奈がいましたから」

 二人への当てつけのつもりで言った。

「あ……」

 一応小百合さんもあまり安易に触れていい部分ではないとわかっているらしく、そこに気づかぬうちに踏み入れたことに気づくと、眉根を寄せて口を噤んだ。

「お前なぁ。もう少しこう、会話が続くような」親父が諭すように言った。

「いやだったら、出て行ってくれてもいいですよ」

 俺は聞く耳を持つわけもなく、ただ一口カレーを頬張った。

「ごめんなさい。そう、ですよね。翔君は、妹さん想いのいいひとですから」

 しかし、俺がどれだけ嫌な子どもであろうと、小百合さんはそれを許容してしまう。

 その底なしの優しさと、器の大きさを見せられると、どうにも面白くなかった。

 小百合さんはまた、再び談笑を再開する。

「今まで、夜ご飯は翔君が作っていたんですよね?どんなものを作っていたんですか?」

「いやぁ翔はいつも時間がなくて魚の開きばっかりで。なぁ?」

 だから、親父が答えるんじゃねえよ。心の中で反発した。

「あ、それじゃあお魚の方が好みですか?唯と一緒ですね。唯も結構魚が」

 そこでいきなり唯に話が振られただ黙々と夕食を食べ進めていた唯はびくりと体を硬直させた。俺も唯が魚が好きという情報を突き付けられ、なんとなく唯と同じものが好きだという印象を持たれるのだけは避けたいと思って、俺は慌てて否定した。

「別に、そういうわけじゃ」

「そういいながら結構好きだろ?魚焼くのも肉焼くのもそう変わらないのにいつも魚だし」

「栄養価って意味では魚の方が断然いいだろ」

「なんか少し意外です。男の子ってお肉の方が好きなのかなって思っていました」

「いやぁ当然私はお肉の方が好きですけどね。唯ちゃんは、って、さっき聞きましたね。魚の方が好きって」

 唯は一瞬死線をさまよわせた後、こくりと頷く。

「いやぁやっぱり女の子だなあぁ。いいなぁ華があって。なあ翔?明日学校ないよな?どうせだったら一品作ってみないか?」

 そう調子よく言ってくる親父に、心の中では刃を研ぎながら、苛立ちを乗せて返した。

「なぁ親父、親父は俺に楽させたかったのかそうでもないのかどっちなんだよ」

「一品ぐらいいいだろ?」

「あ、それじゃあ明日私がお魚料理を出します。その味でいつもの翔君の料理と比べてもらうというのはどうでしょうか?」

「おぉいいですね」


 その後も、親父と小百合さんは盛り上がった。

 小百合さんはこちらが訊いてもいないのに、妙に唯の好きな料理だのなんだのを紹介してきた。親父は親父で俺の小学校時代の話とか持ち出してきて、俺と唯はなかなか会話に入る気にはなれなかった。



**********



 そんな疲れる夕食も終え、風呂にも入り終えた俺は、ひっそりと二階に向かった。

 この同居生活を認めるために課した契約を執行するために。

 俺は、俺の向かいの部屋のドアをたたく。

 「はい」そんな抑揚のない声が聞こえた。

 その声に少々胸が痛くなって、俺はさっさとドアを開けた。

「あっ……」

 唯はベットに座っていた。唯も風呂から上がってすぐにこの部屋に来たためか少々部屋空気は湿気交じりで女の子らしい香りがする。

 胸がきゅっと締め付けられるような痛みを感じて、俺はドアのすぐ横の棚に立てかけてある、佐奈の写真に向き直った。


「……佐奈」

 その棚にはそう、かつてはこの部屋の勉強机の上で俺を出迎えていた佐奈の写真だ。

 俺は唯に向けた背中で、これから佐奈に話す言葉で、告げる。

「ここは、何も変わらない。佐奈の部屋だ」


 部屋を叩けば「はい」と、お前じゃない返事が返ってきても。

 お前の私物があの冷たい物置の奥に押し込まれてしまったとしても。

 嗅いだことのないシャンプーの臭いが、漂っていたとしても。

 ここは、お前の部屋だと。


 とてつもないほどの現実の拒絶を肌で感じながら、俺は背中で語った。


 一つ、佐奈の写真を、絶対に佐奈の部屋に置くこと。

 一つ、その写真に対しての俺の行動に、どんなことがあっても口出ししないこと。

 これが、俺の掛けた契約だ。


 この二つを小百合さん家族が同居するための条件として提示していた。



*********



 振り返ってみるとゴールデンウィークは何かと変化の絶えない日常だった。

 普段決して使うこともなく蜘蛛の巣だらけになっていた下駄箱には男物と女物の靴がきれいに収納されるようになった。雑草だらけだった庭も、この連休中に親父と小百合さんが刈り取り、庭にある木も何とか剪定し、最後には花壇にまで手を伸ばした。今ではその花壇には色とりどりの花が植えられている。いつを境にか、全く使われていなかった大きめの物干しを取り出しては、洗剤の匂いの香る真っ白なシーツを干し、風にはためかせていた。

 

 お化け屋敷と近所では噂されていたその外観は次第に整えられ、まるで命を吹き返されたかのようだった。

 引っ越しとそれに隣接した作業がゴールデンウィークの三日間で行われ、箸休めのように平日の金曜日が挟まった。

 俺は学校に向かうが、唯の登校はゴールデンウィークが明けてからになるらしい。そもそも以前までずっと不登校だった唯が、再び学校に通うようになるかは今のところは不鮮明だった。親父は仕事。小百合さんも午前はスーパーの仕事がある。

 久しぶりの平日で、ようやくあの変わり果てた家から距離を置けると思ったのだが、久しぶりの学校は散々だった。授業にも全く集中できず、授業中に行われた小テストも空白が目立った。

 しっかりしなくてはいけないという強迫観念にも似た危機感は持ってはいた。小テストの空欄を埋めるだけの知識もあるはずだった。しかし心がざわめいているだけでこうも書けなくなることを思い知った。ゴールデンウィーク中だって大人二人が仲良く花壇の手入れをしているときもただただ自室にこもって勉強していたはずなのだ。ここ三日、様々な邪魔が入ったとはいえ勉強は欠かしてはいない。それなのに、ここ三日の勉強の成果は知識などではなく、ただのストレスだけだった。


 俺は放課後、自転車を引いて校舎を出た。住宅街の細道をとぼとぼと歩いて帰った。古く廃れた温泉街の、もう使われていない店の軒下を、特に意味もなく覗いて回った。

 そうして、いつもの実に五倍の時間を使って、俺は帰ってきた。

 最後に学校から帰ってきたときは、まだお化け屋敷のような外観だった家が、選定された庭木に、色とりどりの色を見せる花壇、白い洗濯物だってはためいていた。洗濯物にどんな洗剤を使ったのかはわからないが、男二人で生活しているときには絶対にかぐことのなかった洗剤の匂いがした。胸が余計にざわっとして、俺は家の中に駆け込んだ。

 「ただいま」玄関を開けた瞬間に思わず口に出た。はっとなって口を塞いだ。

 返事は帰ってこない。親父は仕事で、小百合さんは買い物にでも行っているのだろう。それを確認して、俺は口から手を下ろし視線を落とした。落とした視線の先には、女性ものの靴が、しっかりと揃えられた状態で置かれていた。

 集中力の欠如を自覚した俺はそのまま自室に行き、自分の集中力が続く限り参考書を読みふけった。時折ざらッとした気持ちが前に現れてくる、そんなときは自分で入れた苦いコーヒーを啜った。

 そのままペンを走らせ、目標の半分ほど読み終えて顔をあげると、もうすでに時間は六時を回っていた。気付けば空も暗くなっている。俺の部屋も、目を凝らさなければ時計の針が見えないほどには暗くなっていた。俺はコーヒーをもう一度啜ってから明かりをつけた。そしてもう一度自分の参考書を見て、大きくため息を吐いた。以前の半分程度しか勉強は進んではいない。まだまだペースを取り戻すことができていない証拠だった。

 耳を澄ませると、下の階から物音が聞こえてくる。親父か小百合さんのどちらかが帰ってきたのだろう。

 俺は一度マグカップに注いであるコーヒーを一息に口に入れた。むせ返るほどの豊潤なコーヒーの香りが鼻を突き抜け、思わずむせ返った。何度かせき込んだ後、俺はもう一度参考書と向き直った。


 なかなかに集中することができない。カップの下の方に溜まっていた濃厚なコーヒーが口の中から出ていかず、水を一口口に入れたかった。

 けれど俺は部屋を出てはいかない。俺はここで参考書を開き、ペンを走らせ続ける必要がある。


 

 コンコンコン、妙に長く感じた一時間を過ごしたあと、ドアが叩かれた。

「翔君。ご飯、できましたよ」

 心の中で三秒数えた。「今、行きます」

 

「おぉ翔。待ってたんだぞ」俺が今に姿を見せるなり親父が言った。

「そんなに待ってないだろ」時計を見てもまだ七時五分だ。呼ばれてからまだ三分しかたっていない。

 俺は親父の左隣、唯の向かい腰かけた。それがいつからか俺たちの定位置になった。

 唯は俺の方に視線を向けたがらない。というか初めて会った日に少し話したっきりでその後はお互い話そうともしなかった。

「今日はじゃがにくらしい」親父はにこやかな顔で言った。

「何その料理?」いったい何のことだと首をかしげると、甘く食欲を誘う匂いが漂ってきた。

「肉じゃが?」臭いを嗅いだ瞬間にわかった。「何でずーじゃ読み」

「懐かしいな。お前の好きな料理だ」

「教えたのか?」

「だってお前、まともな感想一つよこさないじゃないか」

「それはその程度の料理ってことだろ」

「お前ってやつは。小百合さんの飯だって十分うまいだろうが」

「母さんの飯と、どっちがうまい?」

「………、年期の差かな。母さんの方がうまい」

 皮肉で言ったつもりだったが、親父の答えを聞くと少し心の刃物が鈍った。

「正直に言ってくれると、うれしいです」それを台所から聞いていた小百合さんがお盆を持ちながら顔を出した。

「おっと、別に小百合さんの料理がうまくないっていうわけじゃないんですよ?」

「いいえ、まだまだです。それに翔君が食べてくれない理由もよくわかりました。翔君、私、頑張りますから」

「そうですか」別に、がんばってくれなくていい。

 一口口に入れる。肉じゃがは俺の大好物なだけあって当然うまいと感じるが、記憶に染みついた味と比べると全然だめだ。先ずジャガイモの煮具合からしてだめだ。あと肉への出汁のしみ具合も苦言を呈したい点がある。

 全然だめだ。



 晩飯の後、俺は再び自室の机の前に腰かけた。さすがに勉強に集中しなくてはと意気込んだためか、少しペンが進んだ。国語の参考書を読み、ちょうどいい感じに頭の中が漢字で埋め尽くされたころ、下から聞こえた物音にハッとさせられた。時計を見るともう一時を回ろうかという時間だった。

「……」

明日からまた二日間は休日だ。少しは寝坊も許される。せっかくペースが上がってきたのだ。このペースを早く体に戻したい。それならばもう少し切りのいいところまで仕上げてしまおうと夜更かしすることに決めた。

そこからさらに一時間と少し、切りのいいところまで進んで久しぶりに勉強の手ごたえのようなものを実感してから、俺は一度伸びをしてから立ち上がり、風呂にでも入りに行こうかとタンスを開けた。

 ぶわっと、香る洗剤の匂いが鼻を突いて俺の顔を曇らせた。俺は整理された服から適当に着替えを見繕って駆け足で階段を下りた。


 浴槽に張った水の温度を、手を浸して確かめた。少しぬるいなとは思ったが、そのまま入った。

「あぁあ」

 体を湯船に浮かせ、全身から力を抜いた。スンと鼻を鳴らすと、まだかすかに残っていた石鹸の臭いをとらえた。

 親父は朝風呂派で今もそれは変わっていないので、きっと小百合さんか唯が入った時の残り香だろう。風呂棚を見ると、親父や俺は使うことのなさそうなシャンプーがおかれていた。それを見るとどうもまた眉間にしわが寄る。

 俺は大きく鼻で息を吸った。鼻腔に残り香が広がる。俺はそれをのみ込んでから、風呂の温度を調節するメーターをいじった。やっぱり、少しぬるい。


風呂を出た後、俺は寝間着に着替えてさっさとベットの中に入った。体が温まっているからすぐ寝られるだろう。そう思った。でもあまりすぐには眠れない。きっとこの寝間着から漂ってくる、甘い洗剤の匂いの所為だ。



**********



 俺は朝自発的に目を覚ますことはほとんどない。スマホのアラームが今では大切な睡眠のパートナーだ。

 夜の一時まで勉強し、朝の七時までのきっちり六時間を睡眠に当てる。それが日課だった。

 ただ、今日はゴールデンウィークが過ぎての最初の休日だ。昨日も少々夜更かしをしてしまった。一応それなりに理由はあるのだが、だからとそのアラームをセットしなかったのは、俺の大きな失態だったかもしれない。

「翔君?朝ですよ」

 遠い日を思い出させる優しい声で、俺は起こされた。

 寝ぼけていたんだ。俺が休日七時に起きていかないのはいつものことで、親父もそれに対してとやかく言ってくることもなかったし、わざわざ起こされたこともなかった。

 だから油断していたんだ。

 春の陽気にあてられて、「朝ですよ」なんて体を揺らされて目が覚めた時、俺は思わず口走ってしまった。

「母さん」と。


 それが久しく見なかった母さんの幻であることに気づいたのは、二三度瞬きをした後のことだった。

 まさかである。まさかである。俺はよりにもよって部屋に起こしに来た小百合さんに対し、「母さん」などと言ってしまったのである。

「はぁあ」

 時刻は午前八時を回り、また四人で朝食をつついている間も、今朝の失態が悔やまれため息を何度もこぼした。

「おい翔どうした?本当に調子悪いのか?それともそんなにため息が出るほど朝飯がまずいか?」

 そんな俺を見かねた親父には本気で心配され、もしや食事の味かと唯にも確認を求めるが、唯もそんなに不味くはないと首を振り、訝しげな視線をこちらに向けてくる。唯一事情に心当たりがある小百合さんだけは、少々気まずそうにしながら時折俺を見て苦笑いを浮かべたが、何も言わずにいてくれるだけまだよかった。とてもじゃないがこんなこと親父に聞かせられるわけなかった。

「飯がまずい」

 もう親父にはそう思わせることにした。

 



 ゴールデンウィーク開けの土日。一応引っ越しもひと段落し、親父からはどこかに出かけようかという話も出たが、俺と唯が反対したことからそれも特になくなり、部屋にこもって勉強に明け暮れた。

「はぁあ」

 しかしまぁ、予想通り参考書を開きペンを片手に椅子に座っても全く勉強のスイッチが入らない。時間だけが流れるように過ぎていくのに、俺はその波に乗ることができず問題集には空欄が目立った。

 終いにはストレスばかりが溜まり、やってられるかと体をベットに投げ出した。


 コンコンコン、ベットの上で不貞腐れているさなか、部屋のドアが叩かれた。ノックの仕方だけで小百合さんであることが分かり、今朝のこともあって顔を合わせたくはなかったので、俺はそのまま何一言も返さずにいた。

 するとドアノブがゆっくりと回り、静々とドアが開かれる。

「失礼しまぁす」

 返事も何もしなかったので、勉強で集中でもして聞こえていないのだろうと思ったのだろう。開かれた隙間から小百合さんがそっと顔を出した。

「あれ?」勉強机に向かう俺の姿がないことに頓狂な声を上げた小百合さんは続いてベットの方を見た。「あっ、お休みになっていたんですね」

 目を合わせようともせずじっとしていた俺を見て、そのまま寝ていると勘違いしたらしい。そのままそろりそろりと中に入っては、「洗濯物とごみ、回収していきますね」と寝ている俺を気遣った声の大きさでそう言ってくる。

 そしてごみ箱に入ったごみを回収して、寝間着なんかを回収して、またそろりと部屋を出た。


 それを確認し終えた俺はのっそりと起き上がる。

「はぁ、調子が狂う」

 部屋のごみの回収とか、洗濯物の回収とか、普通そんなことをしようと思うか?そんなことをするためにわざわざ部屋に来るか?

 少なくとも俺と親父の二人の生活だったら絶対にそんな場面にはお目にかかることなんかない。

 母さんだって、そんな面倒なことは俺にやらせていたはずだ。いつも下から俺の名前を呼んで「ちゃんと片付けなさいよ」と。そして時たま部屋に様子を見に来ては部屋が汚いと言って怒り出すのだ。

「……」

 まただ。俺はそう思って頭を掻きむしった。

 また俺は、母さんのことを考えた。

 小百合さんの行動に触れるたびに、どうしてもその向こうに母さんの影を見てしまう。今朝のこともあって、それがよりはっきりと認識できるようになった。

 今まで誰かの行動に母さんの影を重ねることもなかったし見ることだってなかった。

 なのに、なのにだ。ここ数日何度母さんや佐奈の影を思い出したかわからない。

 勉強の最中だってそのことが頭に浮かぶ。久しく感じなかった甘い洗剤の匂いを感じるたびに想う。昨日カレーを食べた時にも、風呂に入った時女物のシャンプーがおいてあることに気づいた時にも、俺は母さんと佐奈の影を追いかけていた。

 そしてそのたびに、目頭が熱くなって、胸が締め付けられるように痛む。

「畜生ぅ」

 心が乱されている証拠だった。

 たった数日前までは、こんなことを考えることなんてなかったのに。

 侵食されている。

 ものすごい勢いで、俺たち家族の思い出が、居場所が侵食されていく。

 ものすごい恐怖だった。


 小百合さんたちと接するたびに、俺の中で決定的に変わってほしくないものが変わっていくような感覚がはっきりと認識できる。俺が俺でない何かに変わってしまう感触を、俺は確かに味わっている。

 いやだ。変わりたくない。

 違う。俺は変わってなんかいない。これからも変わったりなんかしない。

 だから俺は、それを確かめるように向かいの部屋のドアを叩いた。

「はい」そんな声は無視して部屋の中に入った。

 唯と目が合う。その小さな口から驚愕の息が漏れた。俺はすぐに唯から視線を外して、佐奈の写真に向き直った。

 そして無様に荒くなった息をそこで落ち着けて、「あはは、ごめんな」そんな苦笑いを浮かべた。

 以前の日常に必死でしがみつくように、俺は話題を掘り出しては佐奈に聞かせた。

 唯のことは気にしなかった。そんな余裕はなかった。

 ここは、佐奈の部屋なんだ。俺はそう自分に言い聞かせた。




 当然のことではあるのだが、俺はその日から二人のことを極力避けるように生活した。

 まず朝は小百合さんに起こされることがないよう、少し早く勉強も切り上げ六時には目が覚めているように。

 風呂も小百合さんと唯の残り香を感じることはないよう一番に入るようになった。

 会話に入るようなことも決してしない。聞かれたことだけにしか答えない。

 そして言い知れぬ恐怖と対面するたびに、俺は佐奈の写真を見に佐奈の部屋に足を運ぶようになった。


 もうその姿を唯に見られ、どんなことを想われているかなんて気にはしなかった。

 ただ俺には必要だった。ただただ俺の弱音を受け止めてくれる何かが必要だった。

 もう背中で「ここは誰の部屋か」などと語る余裕なんかない。

 ただなりふり構っていられずに俺は向かいの部屋のドアを叩いては、佐奈の前で弱音を吐き出した。


 そして小百合さんらが越してきてから、二週間余り。こんな歪すぎる日常が続いた。

 そして俺は今日もまた、何気ないところで感じてしまった現実と思い出の不一致に心を乱して、向かいの部屋のドアを叩いた。


 ――ガタッ。

「あれ?」

 ドアノブをまわしドアを開けようとしたのだが、予期せぬ抵抗に阻まれ頓狂な声をあげてしまう。

 がたがた。

 ドアノブをまわしたまま前に押そうとも後ろに引こうとも扉は開かない。

 部屋にはカギがかかっているのだ。

「おいおい、嘘だろ」

 何でカギなんかかかっているんだよ。なんで入れないんだよ。そう思いながら何度も乱暴にドアノブを引いても押してもそのドアは開かない。

 混乱と焦燥に心をはやらせ、俺はドアを叩いた。

「おい、何で、何でカギかかってんだよ。中にいるんだろ?開けてくれよ」

 返事は返ってこない。ただ返事を待つ時間、この中にいる唯も女の子であることを思い出して、もしかして着替え中なのだろうかと思いいたり、なおもドアを叩いた。

「なぁ!もしかして替え中だったのか?だったら悪かったよ。でも俺もちょっと急いてるんだ。返事してくれよ。はいかいいえだけでもいい。お前は今着替え中だったのか?」

 しかしそこまで言っても中から返答はもらえなかった。

 息が詰まる。

 この部屋のカギは外からかけることはできない。

 だから絶対に中に誰かはいるはずなんだ。誰かじゃない、唯がいるはずなんだ。

「おい……、おい!開けてくれよ……、ここを開けてくれ!」

 逸る心は大きく揺れ、鼓動が激しく大きくなり息も荒くなってきた。

 恐怖だった。俺は唯にこの部屋から隔離させられようとしている。佐奈の写真から、隔離させられようとしている。まるで俺の心は生命線を立たれたように動揺し、取り乱してはドアを叩いた。

「開けろっ、開けろお!頼むから、ここを開けてくれよ!」

 何度もそう叫んでいると不意に中で何かが動く気配を感じ取って、俺は手を止めた。

 その気配がドアの方に向かってくるのを確認して、俺はドアから一歩下がった。

 その瞬間、汗がどっと出てきて軽い眩暈すら覚えた。

「ひやひや、させないでくれよ」

 嫌な汗で背中がびっしょりの濡れる感覚を背負いながら頬を滑る玉の汗を拭った。

 しかしその気配は、ドアのすぐ前まで来たあと、また部屋の奥へと戻ってしまう。

「え?」

 その気配に驚いて、俺はドアノブを回すが完全に回りきらない。未だにカギがかかったままなのだ。

「え、おい待ってくれ!まだカギ、カギが開いてないじゃないか!」

 俺は再びドアに縋りよってドアを叩いた。


 そんな時だ。

 まるで眠っているときに冷や水を掛けられたように、神経によく刺さる音を俺の耳が拾った。

 パリん。

それは何かが砕け散る音だった。その音を聞いた俺の頭は一瞬にして熱を失った。

「は?」素っ頓狂な声が口から洩れ、ドアを見ながらしばし呆然とした。

 そして、俺は確信のない恐怖に身を焼かれ、再びドアを叩いた。

「おい、おい!今のは何の音だ!?何をしてるんだよ!ここを開けろ!!」

 ただの、無機質な何かが割れる音だった。しかしその音が与えてくる恐怖は先ほどの比ではない。

 耐えかねた俺はなりふり構っていられずそのドアに体をぶつけた。

 ズシンと、重い衝撃がドアをきしませる。俺は何度かそのドアに体当たりをかました。

 運動とは程遠い生活をしていたので平均以下の体力しかなく細身の体ではあるものの、築三十年を超しているような家の一室のカギは、さすがにこらえることはかなわなかった。何度目かの体当たりで、そのカギは折れドアが開いた。


 そしてそのまま、俺は息が止まったかのような錯覚に陥った。


 部屋の中央に散乱するガラスの破片と。そのすぐわきで、唯は複雑な表情をしたまま佇んでいた。

 俺はそんな唯には目もくれずに、俺は散乱したガラス片の方へ近寄った。

 いったい何が砕けたのか、一目見ればすぐにわかった。見間違えるわけもなかった。だって、それは俺がいつも見ていて、本来はこんな冷たい床にたたきつけられているようなものではなく、この部屋の入口のところで俺を出迎えてくれるはずの、佐奈の写真たてなのだから。

 俺はガラス片が飛び散っている床に手を伸ばして、佐奈の写真を拾った。

 ひどい力でたたきつけられた際に飛び散った破片に傷をつけられたのか、佐奈の笑顔にいくつもの真新しい傷跡が浮かんでいた。その写真を一度撫でる。写真に小さなガラス片がついていたらしく、撫でた俺の手を切り裂いて、佐奈の写真を血で汚した。

 砕かれたガラス片に囲まれ、笑顔が映る佐奈の写真に浮かぶ傷跡、それを汚すかのように広がる血を見た時、胸に激しい痛みを感じてわななきながら息を吸って吐いた。 

「……佐奈」

 佐奈の写真を抱いていた俺の腕は力なく垂れさがって、俺の視線はその先にあった砕けた写真たてを再びとらえた。

「……壊されたのか?」

 俺は顔を上げた。そして隣で佇む女の子の顔を見る。

「…………」

 その少女の眼差しは確かに俺をとらえていた。上気した頬を隠そうともせず、荒くなった息を落ち着かせようとすることもなく、寝起きのように乱れた髪を整えることもなく、そいつはただ俺を見ていた。

 そのまなざしに込められている感情を、俺はきっと知らない。きっと、理解もできないところにあるものだ。俺はその眼がとにかく気に入らない。直感だった。

 ガツン。

 俺の体が感情とは全く違うところで動くような感覚があった。

 俺の拳がそいつの顔面をとらえた。ただ冷たいとだけ感じた。

 そいつは無様に床を転がる。そして、そのまましばらく硬直した後、俺に殴られた部位を抑えながら泣き始めた。

 耳障りだ。まるで壊れたテレビの不協和音を聞いているかのようだった。

 それを聞いているうちにようやく体とかけ離れたところにいた感情が、だんだんと体に同気し始めた。

 あぁ、こいつはたった今壊れたんだ。

そう理解した俺は、そいつのもとに近づいた。

 もっとそう、徹底的に壊すために近づいた。

「壊れろよ」もっと徹底的に。

 お前が壊した佐奈のように。床に散乱するガラス片のように、砕けろよ。壊れろよ。壊れっちまえよ!

 頭の中がマグマのように燃え上がる感じがした。手から伝わってくる熱は、だんだんと熱いものに変わっていった。悲鳴と感情が部屋の中を飛び交う。

 そして、感情が体と完全に同気した時、俺は底知れぬ怒りを、ただ拳に乗せて振りぬいた。



 ************



 コト、コト、コト。時計が時を刻む音だけが耳障りとも思えるほどに大きく聞こえる。それほどまでに他に音は生まれてはいなかった。同席している者もむやみやたらに口を開こうとはしない。息を一つ吐くことにすら、この雰囲気を壊してしまわないかと配慮するほどだった。この空間は、時を刻む音だけに支配されることを許している。

ぼんやりと視界に入れていた電灯に、どこから入り込んできたのか羽蟻が数匹舞っている。少し視線を横にずらし時計を視界に入れるとすでに短針は七と八のちょうど中間まで進んでいた。

 いつもなら食事の最中の時間だろうか。しかし俺たちの食卓に飯なんて並んではいなかった。別に腹も減ってはいなかった。

 俺が視線を下ろすと、険しい顔をした親父が腕を組み、ひどい形相で俺を睨んでいた。

 俺は親父と二人きりで向かい合って座らされていた。


 俺が唯を殴り伏せた数分後に、小百合さんが夕食の買い物を終えて帰ってきた。泣き声を聞いて必死の形相で階段を駆け上がってきた小百合さんは、俺たちの姿を見るなり俺に馬乗りになる勢いで止めに入ってきた。その時のこと、そこから先のことを俺はあまり覚えてはいない。

 俺の拳は血で汚れているが、それが一体誰の血なのかも俺にはわからなかった。

 ただ、あの顔面をひしゃげるほどに殴ってやろうと思い拳を振り下ろしたことは事実だ。だが、俺の非力な拳ではそこまで至ることはなかったらしかった。唯の怪我は病院に行くと判断されるようなものではないらしく、二階で今も小百合さんの懸命な治療が続けられていた。

 親父も、今日はずいぶんと早く帰ってきた。

 親父は俺の顔を見るなり、何を言うでもなく一番に俺の頬を殴った。


 その親父も、今はただ罪人を蔑むような視線を俺に向けている。

 最初に場の沈黙を破ったのは俺だった。

「なぁ親父、怒る相手が違うとは思わねぇのか?あいつは、あんたの妹の写真を、粉々にしたんだぞ。なのに、どうしてそんな奴のために怒ることができるんだよ」

 そう訴えても、親父の視線は変わらない。

 親父はただ視線で語っていた。「お前が悪い」と軽蔑の視線を持って語りかけてきた。

 俺はその視線と向き合う気力もなく、脱力したように肩から力を抜いて俯いた。

「……最初から、むりだったんだよ。こんなの」

 そう、最初から間違っていた。

 こんな生活ができるわけもなかったのだ。

「こんな歪すぎる生活が、うまくいくわけなんかなかったんだ。そうでしょ?……できるはずなんかない。母さんも佐奈もいなくなって、ようやく落ち着いてきたってところだったのに、新しい家族とか、むりに決まってるよ。そんなの」

 初めから異常だった。

 母さんと佐奈を失ってまだ一年しかたっていないというのに、新たな母さんと妹を迎え入れようだなんて、初めからおかしかった。俺に大切な妹がいるのを知っていて近づいてくる小百合さんも唯も、みんな異常だった。家族になろうとか、いっしょに生活しようだとか、新しく四人で再出発していこうとか、無理に決まっていた。

 こんな歪な生活が、うまくいくわけなんかなかった。

「だから、殴ったのか?」

 だが親父は、そんな異常性があるのにもかかわらず、そんなものは一切無視して憤りの強い瞳を俺に向けてきていた。

「納得できないからと言って溜まった鬱憤を人にぶつける。それは最低の人間がすることだ」

そして、親父から突き付けられた言葉に、俺の何かが音を立てて決壊した。

「だったら、俺が最低だったら、あんたはどうなんだよ!俺が受験でストレスには弱い時期だってわかってるくせに、再婚だなんて話を突然持ってきて!娘がいるってことだってずっと隠してて!あんたにはもう!生涯を誓った人がいるのに、なんでほかの女に笑えるんだよ!?それはいいのかよ!親父は!俺にどうなってほしかったんだよ!?えぇえ!?笑えばよかったのか!?もう母さんがいるのに、妹がいるのにっ、新しい家族ができたよやったーとか!笑えばよかったのかよ!?それでほんとにいいのかよっ!?」

 俺は立ち上がって、吠えたてた。

 俺が間違っているのなら、母さんを想い、佐奈を想う俺が間違っていると豪語するのなら、俺はいったいどうすればよかったんだよ?俺はいったいどう変わればよかったんだよ?

 笑えば、よかったのかよ?

 母さんと妹を失って、その翌年には新しい母さんと妹ができて、母さんと妹の思い出は暗い暗い物置に追いやられて、それで俺は笑えばよかったのかよ?

 俺だけが、間違っていたのかよ?

 一年で別の女と関係を持った男よりも、そんな男に近づいた女よりも、大切な思い出を壊したその女の娘よりも、俺の方が罪深いのかよ?

「あいつだってそうだ!あいつは佐奈の写真を壊した!それについては何で何も言わねぇんだよ!写真だったらいいのかよ!写真たてだったら、いくら壊してもいいのかよ!思い出だったら、いくら壊されてもいいのかよ!?」

 親父だって、そうは思っていないんだろう?

 だって、親父にとっても佐奈は大切な一人娘なことは変わらない。あれだけ溺愛していた娘の写真を粉々にされているのに、平気なわけがない。

 俺が大切な妹の写真を壊されて、平気なわけがない。

 その気持ちを、親父なら、わかってくれるよな?

「なぁ親父、頼むよ。否定してくれ」

 俺も親父のように親父の瞳をじっと見つめて、懇願するように言った。

「お前の言いたいことは、それで全部か?」

 でも、親父が突きつけたのは、俺たちの家族を突き放す一言だった。

「頭を冷やせ」

 それを聞いてしまった時、どうしてだろう、別に愉悦感で心が満たされたわけでもないのに乾いた笑いが止められなかった。

 崩れ落ちる俺をよそに、親父は立ち、背を向けた。

 きっと二階にいる二人の許に行くのだろう。

 俺はその背中に問いかけた。

「なぁ親父、教えてくれよ。あんたにとって、妻って誰なんだよ。あんたにとって、娘って誰なんだよ?あんたにとって家族って誰なんだよ?」

「もちろん母さんに佐奈に、お前も家族だった。でもな、小百合さんだって唯ちゃんだって、もう立派な家族だろうが」

 俺はその答えを聞いて、また力なく笑った。

 親父にとっては唯も小百合さんも、俺や佐奈や母さんのように、同様の家族なんだ。みんな同じ扱いならしい。例えそうであっても本当なら認めたくはない。でも、親父の中ではきっと、俺たちは平等ですらない。

 親父の中では、もうある一つの方向に傾きかけている。俺はそれを確かめるために、もう一度疑問を投げかけた。

「だったら親父は当然これから、あいつを叱りに行くんだよな?」

 親父は俺たちをみんな等しく家族だというのであれば、俺が悪いことをやり俺を叱った後は、唯にも悪いことがあったと叱りに行くんだよな?そうじゃなかったら、おかしいよな?平等に家族と言いながら、それは全く平等ではないのだから。

「…………」

 そしてとうとう決定的に思い知らされる回答が、親父から答えられた。

 何も答えないという無言の回答でもって。

「……何で、何も答えてくれねえんだよ」

 いつも俺と佐奈が追いかけてきた背中が、今闇に消えていく。

 その背中に見放される絶望に打ちひしがれて、俺は壁に俺のすべてを預けて、泣いた。

「俺だけなのかよ、佐奈のことを、母さんのことを忘れられないのは。俺だけなのかよ、佐奈と母さんと、俺と親父、四人で家族だって、そう思っていたのは」

 あぁ、親父はずっと嘘をつき通してきた。親父の心はずっと前から、俺たちの家族から離れていたんだ。

 それなのに未だに法律上家族という関係の俺がいるから、俺にだけはいい顔をしようと、ずっと一番は母さんと佐奈と俺だとか言った。それが、結局はすべてが嘘だったんだ。

 俺だけが、親父の中にはまだ母さんと佐奈がいると思い込んでいて、それを必死になって呼び起こそうとして、結局はただの道化に堕ちて。

「俺だけが、バカみたいじゃねぇかぁ」

 親父は何も言わなかった。ただ俺に背を向けたまま、俺の言葉を最後まで聞いたくせにこちらに顔は向けなかった。

 かつて、俺が唯に向かってやったように、親父は背中で語ったのだ。


「あぁ。最低の人間だ」




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